5.密やかな足跡
車は随分長い間走っていた。途中まで頭に浮かべていた地図によると、どうやら連中は郊外の森林地帯に移動しているのだと漠然と分かったが、そこに何があるのかまではさすがに分からなかった。
しかし、森林地帯か。確かに人を殺して死体の後始末をするにはもってこいの場所だ。少し当てが外れたかもしれない。連中はただあそこでは殺さなかっただけで、場所を変えて殺すつもりだったのかもしれない。それだと、少し面倒なことになりそうだ。 それにしても、この車のサスペンションはあまりいいものではないな。平坦な道を走っている時はそれほど振動を感じることはなかったが、タイヤがガリガリといいはじめる砂地では非常に不規則な振動が頭に響く。ダンパーの粘性が適切ではないのかもしれない、スプリングはしっかりと稼働しているがその振動を抑制する力が少し足りていないように感じられた。
エンジン音と排気音、そして車軸がきしむ音があまりにもうるさかったため後部座席に座っているであろうエドとエルメナの様子をうかがうことは出来ない。状況が状況であるため抵抗せずに大人しくしているだろうが心配だ。
車の振動が緩やかになった。舗装された道に出たのだろうか。しかし、良く耳を澄ましてみるとこの車の側を走る他の車両の音が聞こえない。ここがもしも森林地帯だとして砂地の道を抜けた先にこのような整備された道があるとはどういうことだろうか。しかし、いつまで経ってもゆるむことのない車速は目的の場所までまだ距離があることを語っていた。
俺はライフルを抱え込む。こいつは今まで俺に忠実だった。まともに整備をしてやる暇さえもなかったが、もう少しだけ俺に従っていて欲しい。まるで断崖の道に沿って進んでいるような曲がりくねる車に何度か身体をぶつけながら、俺は目を閉じ、ただその時が来るのを待ち続けた。
俺はこの数年間。敵国から解放され、ようやくこの国の土を踏めるようになってから数年間銃を手放すことはなかった。俺の実家のある辺境の村は山と森に囲まれ、湖のある場所だった。父は村役場の職員だったが休日になると良く森に狩りに出かけていて、俺もそれに良く付いていったものだ。小銃の扱いはそこで習い、獲物の見つけ方、銃の構え方、引き金の引き方を教わった。今俺が持つ小銃は俺が何年前かの誕生日に父から譲り受けた物だ。だから俺はこいつのことをよく知っているし、こいつも俺のことをよく知っている。だが、俺はこいつに人を殺させたことに少しの罪悪感を感じていた。もしも父がそれを知ったらなんと言うだろうか。友を助けるため、己の正義を果たすために敵を殺した俺をほめるだろうか。それとも、人殺しの息子を持ったと行って嘆き悲しみ俺を憎むだろうか。出来ることなら憎んで欲しい。そうしてくれる限り、俺は自らを狂気のこちら側においておくことが出来るだろう。俺が最も恐れること、それはこの日常を失うことではない。日常などほんの些細なきっかけさえあれば劇的に変化してしまうということを俺は知っている。俺が最も恐れることは、そんな日常にありつつも人を殺すことでしか自分を保てなくなると言うことだった。
どれぐらい眠っていたのだろうか。突然身体にかかる急激な衝撃に俺は飛び起きるように目を覚ました。その衝撃はまさに車が急制動をつけて停止したということに気がつくのに数秒の時間を要した。やはり自覚していないところで疲弊していたのだろう。数年ぶりの緊急事態に身体がまだなれていなかったのか、それを衰えだと感じてしまった俺は思わず舌を鳴らしてしまった。
ドアが開かれる音がした。それと共にうわずった男達のヒステリーとも取れるような叫び声と、それに抵抗する一組の男女の声が周りの環境に反響して聞こえる。
閉ざされた空間、それも周りを硬い物で被われた空間にいるのか。静かな辺りの雰囲気の中では革靴が立てる足音さえもはっきりと聞こえる。
遠ざかっていく足音が徐々に消えていく頃に、思い鉄の扉を開閉する慌ただしい音が響いた。そして静寂が訪れた。
俺は自分の鼓動と呼吸の音を耳で確かめながらトランクを僅かに開き、細い隙間から辺りをうかがってみた。
暗闇になれた目が突然襲いかかった光になれるまで俺はじっと動かず、視界がクリアになるのを待った。
どうやら、コンクリート張りの駐車場のような場所に止められているようだ。まるで大規模砲撃にでも耐えるために作られているのか、その雰囲気は一度だけ立ち入ったことのある軍の最深度地下施設を彷彿とさせる。
誰もいない、人の声や足音はおろか何かが息づく音さえも聞こえない。
俺は、ゆっくりとトランクを開ききり身体を極力低くして外にはい出た。
しかし、ここは何処だろうか。もしもこれが地下の施設であるならこのような大規模な場所が、例え辺境にあるとしても何の噂にもならないことはおかしいと思う。いや、そもそも噂話にとんと興味を示さない俺がそれを言うのは間違っているのかもしれないが、この空間には何か言いようのない焦臭さが隠されているように思えた。
とにかく移動しよう。駐められているのは俺が潜んできたこの車と少し離れたところに駐車された馬鹿に高級そうな車だけ。この建物にはあまり人がいないということになるのかどうかは分からないが、俺は少なくともそれを願った。
今日はもう三人も殺してしまった。もう、これ以上誰かを殺すのも殺されるのも嫌だ。
俺は立ち上がり、壁伝いに一つしかない出口に向かって歩いていった。
扉の向こうはすぐに階段だった。飾り気のない壁にはすすけたシミと僅か等ひび割れが走り、凹凸の少ない天上には裸電球が二、三個無造作に吊されている。見上げると階段の終わりに設えられた扉が親指の間程度の大きさに見えることからその階段がいかに長いものか想像がつくだろう。
姿を隠す所など一つも見あたらない。俺にはそれがまるで誰かに導かれているように思えて気味が悪かった。あまりゆっくりはしていられない。俺がくぐってきた扉と同じあれも鉄製の物だろう。さらには周りはコンクリートの石造りの壁と天上に被われているから今更音に気を遣う必要もないかもしれない。
俺は来た時の慎重さをかなぐり捨て、かなりの足早で階段を駆け上った。
鉄扉に耳を付け、どうにかして向こうの様子を確かめようとするが、返ってくるものは沈黙だけ。その先には誰もいないということか、息を潜めて待ち伏せをしているのか。それとも音自体が遮断されていると言うことか。鍵穴で向こうが伺えれば良かったのだが、残念なことにこの扉につけられている鍵はそこまで旧式のものではないようだ。しかし、本来なら出口であるこちら側の扉につまみ型の鍵がつけられているとはどういうことだろうか。それは鍵を穴に通すものではなく、鍵を必要とせずただ回すだけで解錠できる代物だった。まるでこれでは外からの侵入を防ぐのではなく、中にいるものを外に出さないためにつけられているようではないか…と考えて俺は身震いした。
そうか、ここは監獄なのだ。誰が、何を目的に建造したのかは考えたくもないが、ここは外にいられては都合の悪い者達を閉じこめておくための牢獄なのだ。
それがあの捕虜収容所のようなぬるい場所ではないことは一目瞭然で、俺はすぐに鍵を回しドアノブを回し、念のため中をうかがった。
それは俺が想像した監獄とは全く異なる風景だった。一言二言で言うと、金持ちの豪邸という様相だった。今にも制服を着込んだ侍女が廊下の角から姿を現しそうなほど次代を間違えた様式ではあったが、所々に見える電話や消火用散水機は俺が過去へトリップしたわけではないということを伝えた。
人が来る気配はない。俺は廊下に身を躍らせ、絨毯地の床に付いた砂を含む跡を目で追いながら足を急がせた。
それにしても警備が少ない。要所の広い廊下の交差する地点には確かに短機関銃を持った黒服が立っていたこともあったが、物々しい姿のわりにその警戒心はあまりにも低く、少し別のことで気を反らせてやるだけで容易に道を開けたことには呆れるばかりだ。衛生兵でもあれよりはましな歩哨をする。歩兵にとっては最も屈辱的な言われもすんなりと当てはまりそうなその姿には彼らは雇われの警備員なのかもしれないという予想が付いた。
思えば俺たちを襲った連中も入念な訓練を受けた兵士だとはとても思えない様子だったことから、彼らの雇い主は彼らを使い捨てにするために雇っているのかもしれない。いや、それとも俺を陥れるための罠なのか。戦場に楽観論は不要だとよく言われたが、それを思うと背筋が凍る。
だが、風呂に入りたい。それは何も止まらない駆け足に呼応して肌に浮かび上がってくる汗に辟易したというわけではない。問題は体臭だ。人の体臭というものは特徴的なもので、警戒心の強い草食動物なら50メートル離れた人の匂いにも敏感に反応しまっしぐらに逃げ去っていく。人の嗅覚はそれほどとぎすまされたものではないが、それでも発見される可能性は極力なくしておきたいというのが人として当然の心理だろう。
俺は少し荒くなった息づかいを何度かの深呼吸で整えると、砂の混じった足跡の終着点に行き着いた。
足跡が消えていく先には今までに見た扉とは少しばかり趣の違う扉が行く手を遮っていた。鉄製の一枚板の本体にそれを補強する鉄帯が二本斜めに交差していて、それと本体を接合するリベットが隙間なく列を作り上げている。これでは爆薬を使わない限り真っ当な手段で開くことは叶わないだろう。よく調べるとそれを閉ざしているものは細めの鉄棒をUの字に曲げたものと鍵穴が施された四角い鉄箱で構成された、所謂南京錠だった。大きめのワイヤーカッターであれば難なく切断できる程度のそれは扉自体の堅牢さに比べると何というか、あまりにも幼稚に見えたがあいにく切断できる道具を俺は持っていない。ライフルで撃ち抜けば難なく破壊できそうではあるが、ここでそれをするのはあまりにもリスクが高い。
仕方なく俺はライフルの銃床に差し込まれているクリーニングキットから細くて丈夫な針金を取り出すとそれを鍵穴に合うように適当に曲げた。鍵開けは得意ではない。出会った数週間でバラバラになった同僚から暇つぶしに教えられた技術だが、そいつに言わせればあまりにも手際が悪すぎるとのことだった。だが、やるしかないか。
俺は鍵穴を壊さないように細心の注意を払うと、中に埋め込まれた小さなカムを針の先や腹を使って押し込んだり引き上げたりして一番ちょうど良い具合を探っていった。
錠前が甲高い音を立てて床に転げ落ちたのはそれから10分ほど時間が経過した時だった。
次こそは最終話です。