旅立ちの日
「本当にいいの?彼に会わないままで」
遠くに揺れる人影を眺めながら、ロザリーはコクリと静かに頷いた。木陰から顔を覗かせ、一部始終をじっと見守っていた。そして、ほっと胸を撫で下ろした。ジルダが生きていてくれたことに。
一睡もせず馬を走らせ着いたのは、ザクレス討伐の時にジルダに連れられてきたことのある森の奥深くだった。現れた湖の畔には、一軒の小屋。二人で逃げて、一夜を明かした甘い思い出の場所。けれど、ジルダにとっては辛く悲しい運命の始まりの場所でもある。ここで修行を積み、ジルダは人を殺すことを覚えた。どんな思いでここに舞い戻り、かつての師に対峙しようとしたのか。それを思うとロザリーは胸が痛くなった。
何とか間に合い、イリオスが二人を止めたのを見届けた瞬間、体中の力が抜けた。自分を置いて、姿を消した男だ。忠誠を誓っておきながら別れを選んだ身勝手な男。だからこそ、勝手に死ぬことなんて許さない。生きて、そして悲しい運命から解放され、人生を取り戻してほしかった。ただそれだけだった。
「いいんだよ、アーロン。無事だということがわかっただけで」
遠目でも、ジルダの顔を見れて良かった。これが最後だ。その踏ん切りも付いた。会ったりしたら、せっかくの決意も揺らぐ。このまま会わないほうが、別れの寂しさが増さないで済むと思った。
「けれど、やっと彼も自由になったんだ。今ならきっと…」
「だからこそ会わない方がいい。やっと全てから解き放たれたんだ。ジルダもあのシオンという男も、これから自分の人生を歩まなければいけない。私はその足枷にだけはなりたくないんだ」
「……そうだね。自由になったところで、彼らが救われるとは限らないから」
アーロンの言葉に、ロザリーは深く頷いた。あの二人が自由になったところで、全てから解放されるわけではない。背負ってきた罪の重さは、これからもっと彼らを苦しめるかもしれない。自由というものは同時に人間に厳しくもあるものだ。けれど、ジルダならばきっと大丈夫だと思う。自分らしく、逞しく生きていくことだろう。
「これで本当のさよならだ。ジルダ……」
一人呟いたロザリーの言葉は、風に乗って消えていく。初めて経験した恋の苦さと尊さに、以前よりもすっかり大人びたロザリーの横顔を見つめながら、アーロンはただ祈った。報われぬ恋が、いつか彼女の幸せに繋がるようにと。
――それから数日後、ロザリーは王都を発つ日を迎えていた。国中の富をかき集めたように絢爛豪華な宮殿を背に、馬に跨る。きっと二度とここに足を踏み入れることはないだろう。けれど、未練はない。真にこの国を思う気持ちに場所など関係ないのだ。少しの寂しさと胸の痛みはあるけれど、これからも変わらずこの国の平和に身を捧げる覚悟だ。
晴れやかな気持ちで馬の手綱を握ったその時だった。
「隊長!」
誰かの声に振り向けば、そこにある光景にロザリーはハッと目を見開いた。
宮殿の前の広場に、深紅の軍服が列を成している。それは一糸乱れぬ見事な敬礼を見せている、近衛の騎士たちだ。そして彼らの視線の先には、戦士のように凛々しく、女神のように美しい佇まいで馬に跨る彼女がいた。
「皆、どうしてここに…?」
戸惑うのも無理はない。かつて反発さえしていたはずの部下たちだった。そんな彼らが今、前隊長の前に集まり敬礼している。その光景にロザリーはただただ驚くしかなかった。
「お見送りに参りました」
「見送り…?そんな、なぜ……」
自分は馬鹿にされていたのではなかったのか。少なくとも、今回の処罰を受けて皆の信頼は地に落ちたはずだった。それがなぜわざわざ見送りになど来るのか。眉をひそめるロザリーに、騎士の一人がにこやかに答えた。
「皆、あなたを慕う者たちばかりです」
「わ…私を、慕うだと?」
「はい。最初こそ、伯爵令嬢などに近衛連隊の隊長が務まるかと反発していましたが…。ディノワール隊長の揺るがぬ優しさと強さを、皆間近で見て来たのです」
ここに集まる者たちの視線を一身に受け止め、ロザリーはハッとした。
「あなたはいつだって、誰よりも勇敢で心の美しい人だった。自分の体を張って町娘を助けたことも、王女殿下の身代わりになってたった一人盗賊のアジトへ乗り込んだことも、誰より私達が側で見ていたのです。誰にでも分け隔てなく、身分なんて関係なく接してくれる。ここに集う騎士たちは皆、そんなあなたの行動に心動かされた者ばかりです」
思えば近衛連隊の騎士は、国中からかき集められてきた剣豪たちばかりだ。その多くは腕一つで名を上げてきただけで、家柄も育ちもそれぞれ違う。そんな彼らにとって、ロザリーの行動や言葉の一つ一つは心に響くものばかりだった。年下の小娘だろうが、関係無い。人の上に立つ者の器を見せつけられ、彼らは心から彼女を敬ったのだ。
「隊長がここを去られるのはとても残念です。けれど、この国を思う隊長の志の強さに恥じぬよう、我々も日々鍛錬を積み、由緒正しき近衛連隊の騎士として邁進する所存です。ですから、どうか隊長もお元気で」
騎士達の熱い敬礼を前に、ロザリーは目を潤ませた。こんなにも心強いことはない。自分は立派な上官ではなかったけれど、それでも隊長としてやってこられたのは彼らがいたからだ。破天荒な命令も厳しい任務も、やり遂げてくれた。そしてそんな彼らをずっと取りまとめてくれたジルダの存在にも、より一層感謝した。
「皆、ありがとう。どうか皆も体だけは壊さぬように。共に同じ空の下、この国の繁栄を目指して力を尽くそう」
ロザリーは右手を上げ、そして敬礼した。そんな彼女の姿を、騎士たちは皆目に焼き付けていた。
この国を愛する、同志たち。彼らの上には、同じ青空が広がっているだろう。遠く離れていてもきっと繋がっている。思いはきっと同じなのだ。そして、誰よりもそばで支えてくれたジルダも、きっと同じだ。どんなに離れていても、生きている限り互いを思い合っている。忘れることはない。共に過ごした日々を。思い出だけで生きていける、そう思えた。心の中に潜む彼への思いが、きっと自分を強くしてくれる。ロザリーは心からそう思った。
最初で最後の淡い恋の思い出を胸に、ロザリーは王都を後にした。それは秋も深まる、肌寒い木枯らしの朝のことだった。




