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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第四章
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二つの剣の結末

柔らかな朝の光が木漏れ日となり、降り注ぐ。湖の水面は反射し、キラキラと光りの泡を立てる。1日の始まりを知らせる、穏やかな光景。しかし、その穏やかさに似つかわしくない凄惨な戦いが、人知れず繰り広げられていた。


耳をつんざくような剣戟の金属音。この国で指折りの強さを持つ男達の戦いは、そう簡単には終わらない。激しさを増すばかりで、二人の体は刃の掠り傷であちこち血に汚れていた。


「年老いてもまだ衰えてはいないようだな。さすがは俺の師匠だ」

「そう言うおまえは少し腕が落ちたのではないか?ぬるま湯に浸かり、女にうつつを抜かしていてはそうもなるだろうが」


重ね合う剣の向こうに、静かに嘲笑う男の目がこちらを見据えている。何もかも見透かしたようなその視線に、ジルダはつい顔をしかめた。


「そう露骨に嫌な顔をするな。しかし、何に対しても興味さえ抱かなかったおまえが、こうも変わるとは。どうやらロザリー嬢はおまえの最大の弱みのようだ」

「あのお方に手出しをしたら許さない。おまえも、エミール家も」


惑わされるな。感情的になれば隙を突かれる。そう自分に言い聞かせながらも、剣を握る手に余計な力が入ってしまう。ジルダは歯を食いしばり、振りかかる刃を懸命にかわした。


「王都を去り、いったいどうするつもりなのだ?この国を乗っ取る勢いで近衛連隊にまで上り詰めたおまえが、自ら去るなど。よもや俺から逃げるためでもないだろう。すべては、あの女を思ってのことだな?」

「そんなこと、おまえに語るつもりはない」


ジルダは振りおろされた頭上の剣を刃で止め、すんでのところで押し返した。

こんな所で死ねない。死ぬわけにはいかない。生きることに何の希望も見出せなかった昔の自分とは、違うのだ。今の自分には、たった一筋の光がある。


「シオン、俺はおまえとは違う。自分の意志さえ持たないおまえとは」


そう、俺は俺の意思で生きる。全ては、永遠の忠誠を誓ったあの方のためだ。たとえ永久に触れることができなくとも、遠くから見守り続ける。どんな争いにも陰謀にも巻き込まれることなく、穏やかな人生を送れるように。俺はただ見守り続ける。そのために生きることを選んだのだから。


ジルダは握りしめた剣を手に、前へ踏み込んだ。それと同時に振りおろされた剣は、シオンの左頬をわずかに掠める。そのまま身を翻してもう一度放った二撃目は、しかし、シオンの剣によって阻まれた。剣と剣の鍔迫り合いは激しさを増し、ギリギリと削れるような音を立てる。どちらかが気を抜けば、たちまちその剣は相手を死に追いやるだろう。互いに力を込め、睨み合う。そんな緊迫した戦いの最中、目前にあるシオンの顔がふいに歪んだ笑みを浮かべた。


「すっかり毒を抜かれ、情けない面(ツラ)になったことだ。あのお飾りの女隊長の世話がそんなに良かったか?」

「貴様…!あのお方を侮辱する気か!」

「安心しろ。いずれあの女は、イリオス様のものになる。おまえのような農村育ちの雑草には、手の届かない存在だ」


そんなことは、最初からわかっている――……そう、言いかけた瞬間だった。能面のような無表情が崩れ、揺さぶられた感情につい手元が緩んだ。その一瞬の隙を突くことを最初から狙っていたのか。シオンは無残にも、ジルダの剣を叩き落した。


「ッ――…!!」


バランスを崩した体が倒れ、ジルダの喉元へ剣が突き付けられた。もはやこれまでか――死を覚悟したジルダは、静かに目を伏せた。

瞼の裏に浮かぶのは、たった一人のあの女性(ひと)の顔だった。どんな時だって、挑むような勝気な眼差しでこの俺を映したエメラルド。あの瞳の中に少しでも映りたくて、まるで悪戯な子供のように彼女の気を引いていた。今思えばなんて滑稽で、バカバカしい。けれど、とても幸せな日々だった。もっとあの方のそばにいたかった。そんな未練を抱くなんて、思いもしなかった。死ぬことがこんなにも悔しいと感じるのは、きっとあなたに出会ったせいだ。けれど、それが人間なのかもしれない。人を殺すことしか知らぬこの俺を人間らしくしてくれたのは、あなただったんだ。


「ロザリー様……」


愛しい女性(ひと)の名を、声にならぬ声で呼ぶ。これが最期と覚悟をしたジルダの頭上から、剣が振りおろされようとしたその時だった。


「シオン!剣を下ろせ!」


突如として耳に響いたその声に、シオンは思わずその手から剣を落とした。

なぜ、ここに…!?冷酷な表情が驚きに変わり、そして体が硬直する。疾走してきた白馬が足を止め、馬上から降りてきた主の姿にシオンは目を見開いた。


「イリオス様、どうして…!」


驚いたのは、ジルダも同じだった。カランと音を立てて地へ転がされた剣。茫然とそれを見下ろしている間に、落ち葉を踏み鳴らしこちらへ歩み寄る影にハッとした。見上げた先に佇んでいたその男は、紛れもなく自分を陥れようとした張本人だった。


「シオン、もういい。もうやめろ。この者を殺すな」

「イ…イリオス様?殺すなとは、いったい…」

「エミール家次期当主として、私は<黒薔薇>を手放すと決めたのだ」


明瞭なその声に、シオンは眉をひそめずにはいられなかった。我が主は何を口走っているのか。しかし、戸惑いながら見つめたイリオスの顔は、驚くほどに清々しいものだった。


「な…何をおっしゃっておいでなのですか。イリオス様、あなたは…」

「ずっと考えていたのだ。私がこれから持つであろう力が本当にこの国のためになるのか、と。父のような…歴代のエミール家当主たちのような道を辿るべきなのか、と。だが、もう決心ができた。私は私の道を行く。私が目指す国の政(まつりごと)に、<黒薔薇>は必要ない」


耳を疑った。しかし、平然と言い放った主は至って正気だった。必要ない――それは、自分自身の存在意義を否定する言葉だ。自分はエミール家当主に仕え、エミール家のために存在する者。必要ないと言われたら、いったいどうすればいいというのか。どう生きろというのか。


「イリオス様、どうかお考え直しください。一時の迷いでしょう」

「一時の迷いでエミール家の悪しき伝統を断ち切れるものか?」

「ならば、今さらいったいどうしろとおっしゃるのです!?私は今まで懸命にエミール家にお仕えしてきたのです。これからもそれは変わることはないと――…」

「申し訳ないと思っているんだ。シオン。父も私も自らの手を汚しもせず、全ておまえに押し付けてきたのだから」


そう言って膝を付き、イリオスはシオンの手を取った。そして、そっと両の手でシオンの右手を包み込む。さっきまで懸命に剣を握っていた、その手を。


「どんなに詫びても許されはしないだろう。けれど、この手にもう人を殺させたくない。私はおまえを解放したいのだ。殺した人間だけでなく、これ以上おまえの心まで血を流さぬように」

「イリオス様……」

「これからは家令として、私に仕えてほしい。無論、おまえが私を主たる人間だと認めてくれたなら…だが」


何と生温い、何と弱気な主だろうか。優しさだけで国を治めていけるのか。その重責を負えるのか。……けれど、握りしめるその手のぬくもりに、シオンは目頭が熱くなるのを感じた。

偽りのない言葉が、この胸を熱くする。初めてだったのだ。人間らしい扱いをしてもらったことが。マルクスは決してそうはしなかった。だからこそ、自分は主の命令に従うことしか脳がない、自らの意思を持たぬ者だと言い聞かせてきた。いったい自分は何者なのか。何のために生まれてきたのか。そんなことを問うことすら忘れて、ただ日々を送っていた。

父とは異なる優しく美しい眼差しに、込み上げてくる熱い思い。人を殺し続けたこの手をこんなにも温かく包んでくれるのは、きっと目の前のイリオスだけだ。イリオスの手から伝わる温もりに、初めて自分が必要とされているのだと感じることができた。


「イリオス様…。私は、あなた様のために存在する者。生涯あなたに仕え、エミール家のために尽力致します。その心だけは、これからもずっと変わることはないでしょう」


シオンはまだ若き主の眼差しに、この国の明日を見た気がした。何者でもない自分にさえ、こうして光を与えてくれる。イリオスが見つめるこの国の未来は、いったいどんなものなのだろうか。自分のようなちっぽけな人間でも、生きている意味をもたらしてくれる。そんな淡い期待さえ抱いてしまうのだ。イリオスならば、きっと……と。


転がり落ちた剣を、シオンは鞘に収めた。そして誓いを立てた。まだ右手に残る優しい感触を決して、忘れてはならぬと。

そんなシオンの決意を見届け、イリオスは未だうずくまったままのジルダに視線を移した。


「悪かった、バシュレー副官……いや、バシュレー子爵と言うべきなのか。君が投獄されたのは、全て私の陰謀だ」

「はっ…そんなこと、最初からわかっている。わかっていて、消えるつもりだったんだ。あの方の前から……」


ジルダは額に手を当てながら、苦笑した。どこか悲しげに笑う。そんなジルダの姿を見て、イリオスは胸が痛んだ。


「どうして彼女の前から消えようとするんだ?君は彼女のことを、誰よりも大切に思っているのだろう?」

「人の命を狙っておいてよく言うものだな。俺が消えたほうが、あんたにとっては好都合なのに変わりはないだろう?たとえ<黒薔薇>を手放したとしても、あんたは彼女を手に入れたいと思ってるんだから」

「……無論、そのつもりだった。けれど、仕方ないだろう。エミール家が犯してきた全てのことを知ったロザリー殿が、血相を変えて私の所に飛んで来たのだから。君を救いたい一心で」

「ロザリー様が…?」


ジルダは目を見開いた。……まさか。それでイリオスがここまで駆けつけ、シオンを止めたというのか。この俺を救うために?


「ロザリー殿には敵わないな。あの真っすぐなエメラルドの瞳に見つめられると、私はどうしようもなく自分が卑怯な人間に思えてしまうのだ。おかげで私は、道を踏み外してしまったのかもしれない」


冗談のように笑ってみせるイリオスを前に、ジルダは感心せずにはいられなかった。宰相家が必死に保持してきた力さえ、手放させるほどの力が彼女にはある。一つ間違えれば、男を狂わせる。けれど、それと同時に、この国を変える力があるのだ。


「全く、おせっかいな女だ……」


こちらがどんな思いで離れようとしたことか。それでもあの方は懲りずに、何度だって歩み寄ってくる。もう何度も命を救われた。そんな彼女だから、忘れようにも忘れられないのだ…。


「もう、戻る気はないのか?」

「わかりきったことでしょう。心が通い合ったって、未来などない。どんなに手に入れたいと願っても、俺には手の届かない女性(ひと)なんだ」

「無理矢理に奪うことも、できなくはないだろう?」

「宰相家のご子息が物騒なことを言うものだな…。できることなら、とっくにそうしてたさ。でも、あの方の幸せを願えばこそ、そんなことはできるはずがない」


諦めたようにそう言ったジルダに、イリオスはそれ以上何も言うことができなかった。

愛を貫くことで、幸せになれるとは限らない。どんなに愛し合っていても、現実は考える以上に厳しいものなのだ。生まれながら、それぞれに背負わされた運命はそう簡単に下ろすことなどできない。辛くとも離れようと決めたジルダの気持ちは、痛いほどに分かった。


「俺もあんたと同じだ。あの方のおかげで救われた。汚いやり方でなり上がったって、何も変わっちゃいない。俺はしがない下級騎士の息子でしかないんだ。そして、残虐な人殺しに他ならない。これ以上道を踏み外さないように、一からやり直すつもりだ」


残虐な人殺し――その言葉を、かつての師であるシオンも傍らで噛みしめていた。利用し、利用され、やがて殺し合う。それが暗殺者の末路だ。自分たちは使い捨ての道具だった。そんな運命がやっと断ち切られる。もしかしたらこの日を、密かに待ち焦がれていたのかもしれない。本当は自分だって、人など殺したくはなかったのだ。


氷のように冷めた表情が雪解けを迎えたように和らぎ、ジルダは穏やかな顔をしていた。そんな彼を見つめ、イリオスは息を吐いた。人を愛するということが、これほどまでに美しく、そして悲しいことだとは思いもしなかった。


「残念だが、君が選んだ道ならば仕方ない。私は君の幸せを祈っているよ。私も彼女との約束を果たすために、全力を尽くすつもりだ」

「約束……?」

「ああ、彼女に言われたのだ。君のような不幸な子供をこれ以上生み出してはならぬと。そのためにすべきことが何か、それを考えるのが私の役割なのだろう」


そう言って空を仰ぎ見たイリオスに、ジルダはため息交じりに微笑んだ。




落ち葉の重なる地に体を投げ出し、仰向けに寝ころびながら天を見上げた。雲一つない、真っ青な空だ。柔らかな朝の木漏れ日が降り注ぎ、包み込まれるような温もりにうっすらと目を閉じた。

不思議だ。何と穏やかな気持ちだろうか。なぜだか子供の頃に、一番幸せだったあの頃に戻ったようだった。父がいて、母がいて、厳しくとも穏やかな暮らしだった。どれほど願っても、あの日々には決して戻れない。けれど、幼い自分を見守ってくれていた温もりに、きっといつかまた会える。なぜだかわからないが、そんな気がした。


胸に手を当て、そっと思い出す。今まで生きてきた中で最も輝いていた瞬間を。誰よりも愛しいあの女性(ひと)の顔を思い出し、そして胸の中に閉まった。思い出があるから、生きていける。この世界はきっと、輝きに満ちている。未来はきっと、光溢れている。

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