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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第四章
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イリオスの決断

「待て!イリオス、どこへ行くのだ!」


真夜中の厩舎に響いたのは、父であるマルクスの声だった。騒がしいと思えば、ロザリーとアーロンがこんな時間に訪ねてきているという。その不可解な様子に危機感を抱いた父は、慌ててイリオスを呼びとめた。しかし、手綱を持ち振り返る息子の表情に、思わず息を飲む。まるでこちらを射止めようというような、昂然たる顔をしていた。


「こ…こんな夜中に何をしておる?おかしなことを企んではおらぬだろうな?」


低い声で問い、息子に対峙する。威厳を感じさせる重厚な眼差しを、しかし、イリオスはサラリと受け流すようにして答えた。


「おかしなこと…ですか。そうですね。父上、あなたにとってはそうかもしれません」

「イリオス!おまえはいったい、何を…!」

「シオンを解放します」

「何…!?」

「エミール家次期当主、そしてこのアストラス王国次期宰相として、私はエミール家の当主たちが犯してきた愚行を正し、今こそ真のまつりごとを執ります」

「お…おまえは、何を言っておる!血迷ったか!」


驚きと怒りに満ちた顔で叫ぶ父を、イリオスは冷静に見つめていた。偉大なる父。昔からあなたのようになることが目標だった。けれど、父は父。自分は自分だ。自分は自分のやり方でこの国を治めるのだ。


「国を守るという大義を振りかざし、多くの命を奪ってきた。そうすることで無駄な争いは減るし、手間を取らずに済む。しかし、それは本当に民のためになるのでしょうか」

「そのような綺麗事をまだ申しておるのか!我々は国王陛下の忠実なる家臣。その忠誠を忘れたか!」

「忠誠を貫くためにどれほどの血を流せばいいのです?大義のために人を殺すたび、不幸になる人間が増える」

「これは国のため、王家のためだ!誰が不幸になるというのだ!」

「少なくとも、シオンは幸せではない。暗殺者としての汚名を着せられ、重い荷物をずっと背負わされてきたのだから」


息子の言葉に、思わずマルクスは押し黙った。凛とした顔で父に異を唱えるイリオスの姿に、気圧されるような感覚だった。まだ青いとばかり思っていた息子は、いつの間にこれほどまで堂々と物を言うようになったのだろう。何をも恐れぬその態度に、危うくこちらが委縮しかけた。


「父上、どうぞ今すぐ当主の座を私に明け渡し下さい。今こそ私がエミール家の主として立ち、皆を率いて参りましょう。今までのエミール家を変革し、正しいやり方でこの国の平和に身を捧げます。これ以上エミール家の誇りを汚さぬように、今こそ変わる時なのです」

「そ…そのような生温いやり方で、この国を守れるというのか!」

「父上は私を見くびっておいでですか。私には黒薔薇など必要ない。私はそんなものに頼ることなく、国を治めることができると確信しております」


堂々と言ってのけたイリオスの顔は、自信で漲っていた。その溌剌とした態度に思わず後ずさりをする。そこにいる者全てを取り込んでしまうような、圧倒的な存在感。迂闊に手を出せない、油断すれば飲み込まれてしまいそうな威力のある空気を放っている。それがイリオスという人間の持つ力だった。

彼がまだ幼い頃から確かに感じていた。この子は必ず大成するだろうと。じきに父を越えていき、偉大な統治者となるだろうと。放つ言葉には力があり、その目は常に世の先を見据えていた。周りの者が教えることもなくして、何にも影響されずに何が正しいのかを判断する力があった。そう、実の父が嫉妬さえ覚えるほどに、イリオスは聡明な人格者であり、人の上に立つ才覚に恵まれていた。


「イリオス…。おまえは、この父に今すぐ退けというのだな。なんと傲慢な息子よ」

「父上……」

「しかし、昔からおまえの選択は常に正しい。いや、正しいと思わせる力があった。そんなおまえが言うならば、私はもう潮時なのかもしれぬな…」


マルクスは諦めたように、固く握りしめ震えた拳を下ろした。無論、それが本当に正しいやり方か、生温い綺麗事か、その答えはわからない。イリオスの選択を認めるつもりもない。

しかし、このエミール家の死神の如く仕えてきたシオンを、不幸だと言ったイリオスの言葉だけは胸に迫るものがあった。思い出したのだ。自分も遠い昔、この真実を知った時に抱いた葛藤を。人を殺めるという重すぎる罪を押し付けられ、一番苦しかったのはシオンだったはずだ。いつの間にか忘れていた。一番大事なことを。イリオスの言葉は、父にそれを思い出させた。


「おまえを許したわけでは決してないぞ」

「承知しております」

「それに、その肩にのしかかるものはおまえが思っているよりもずっと重い。これからこの国の命運はおまえにかかっているということを、決して忘れるな」

「……はい、父上。肝に銘じておきます」


深く頷き、イリオスは馬に跨った。夜の闇に消えていく息子を眺めながら、マルクス・エミールはただ祈る他なかった。当主たちが代々守り続けてきたものを手放し、新たな道を行く息子のやり方が吉と出るか凶と出るか。イリオスがこの国の歴史に名を残す大いなる君子となるのか、それともエミール家を貶めるうつけ者と化すか。まだ真っ白な未来に不安を抱きながらも、少なからず期待を滲ませ、祈った。どうか息子が良き道へ導かれることを。




――夜明け前。空は薄紫に染まり、澄んだ空気が風に乗り肌を撫でた。暗い湖の水面に映る月を眺めながら、深く息を吸う。不思議だ。いい思い出なんて一つもないこの場所など、二度と訪れたくないと感じるのかと思っていた。けれど、今はなぜか穏やかな気持ちで、むしろ懐かしさに胸が熱くなる。自分を死神に変えた場所だ。しかし、木々が、湖が、風が。季節が巡るごとに変化する。この森に根付く自然の息吹に、自分が生きている証を実感していた。


「懐かしいな。ここに来ると、幼かったおまえを思い出す」


ひっそりと湖畔に佇むジルダは、背後から現れた男の声に静かに振り向いた。ゆっくりと仮面を外したその男は、かつて自分の命を助け、導いてくれた恩人。そして、人を殺す方法のすべてを教えてくれた師だった。


「待ちくたびれたぞ。自分から呼び出しておいて躊躇したのではないだろうな。俺に殺されるのが怖くて」


挑発するように嘲笑うジルダを、シオンは顔色一つ変えずに見つめた。

この手で育て上げた暗殺者を葬り去らなければならないとは、思いもしなかった。ジルダは最高傑作だった。殺すには惜しい逸材だ。この傲慢さと野心の代わりに忠誠心があれば、エミール家にとって大きな武器になったものを。


「最後にもう一度おまえに問う。俺の後継者となり、エミール家に仕える気はないのか?」

「はっ…戯言を。王家の犬と成り下がったおまえとは違う。貴族の陰謀のための道具になどなるつもりは更々ない」

「ならば、死あるのみだ。エミール家の秘密を知る者に、明日はない」


誰が何と言おうと自分は変わらない。俺が膝を折るのは、この世でたった一人のお方の前でのみ。恋い焦がれ、お慕いしたあの方以外に、忠誠など誓うことはない。


ジルダは剣を構え、そしてかつての師へ向かって猛進した。死など怖くはない。そう。あの方を失うことに比べれば、怖いものなど一つもなかった。だからこそ、誓う。命ある限り、あの方がただ平和に、幸せに暮らせるよう、密かに見守り続けると。そのためにこそ、この命はあるのだと。


やがて昇り始めた太陽は、朝の穏やかな光を宿しながらぶつかり合う二つの剣を見下ろしていた。

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