過去(2)運命
黒い外套を纏ったその男は、生を感じさせない凍てついた目でジルダを見下ろしていた。月光を受けたその背に、黒光りした鋼の羽根が見えた気がした。本当にそう思うくらいに、ジルダが感じたのは恐ろしさだった。まるで死神のようだ。ただ立っているだけで、その不気味さに足がすくむ。全身の力が抜け、声さえ出せず、ジルダはその場に座り込んだ。自分は今度こそ殺されるのではないか。獣に抱いた恐怖心とは比べ物にならないくらいに、ジルダは小刻みに体を震わせていた。
けれど、伸びてきた手はやや乱暴にジルダを掴み、その肩に担ぎあげる。半ば無理矢理に連れ去られたジルダは、いつしか湖の畔に立つ一軒の山小屋の中で下ろされた。
いったいここはどこなのだろうか。まだぼんやりとした意識の中、ジルダは考えた。男は無言のままジルダの衣服を脱がせ、痩せこけた体の傷を確認する。まめだらけの武骨な手は、少しだけ父を思い出させる。この男も騎士なのだろうかと考えながら顔を上げると、刃のような鋭さを持つ男の目が、真っすぐにジルダに注がれていた。
「小僧、どこから来た?」
ふいに投げかけられた問いに、ビクリと体を震わせる。体を拭き、簡単な止血を施す男を目の前に、ジルダは鉄の味のする口をもごもごと動かした。
「え…っと…アレーヌの近くの、山の麓…」
「すぐ近くだな。こんな真夜中にどうした?」
「………」
答えないジルダを、問い詰めようとはしない。しかし、男は代わりにジルダの痩せた腕をまじまじと見つめた。
「この痣や傷、さっき出来たものばかりじゃない。日常的にやられてるのか?」
「………」
「まぁいい。だが、このままだとそのうちやられるぞ」
「………」
「見たらわかる。手加減ってのを知らないようだ。素人のやることはかえって性質が悪い」
「……僕、殺されるの?」
「ああ、たぶんな」
やっぱり、とジルダは笑った。至極悲しい笑みだった。しかし、男は同情などしない。このような境遇の子供はどこにだっている。この世の中、全ての子供が幸せな暮らしを送っているわけではないのだ。
「死ぬのは怖いか?」
「……ううん」
「だったら、なぜ戦った?」
「……わかんないや。でも、死にたくはなかった」
焦点の定まらない瞳の中に、わずかに宿った生への執着。この小僧は恐らく、自分で気付いちゃいない。苦しくてもなお生きたがっている。自分の心の奥底にある、恐ろしいほど強い生への執念に。
「剣を習っているのか?」
「……ううん。今は、死んだ父さんからの教えを守って、毎日こっそり練習しているだけ」
「そうか。だから筋がいいんだな。この年であんな熊を倒すなんて普通ならできることじゃない。おまえの親父さんはよほど良い師匠だったんだな」
「……うん」
ジルダの目がゆらゆらと揺れた。まだ幼く薄い肩が、息をするたびに上下に動く。堪え切れなくなったのか、その瞳に大粒の涙が浮かんだ。
「何のために練習などしているんだ?」
「……僕、父さんみたいに強くなりたいんだ。けど、このままじゃダメだね…。僕、いつか殺されちゃうよね…」
「強くなれば、生きられる。弱ければ死ぬだけだ。この世の摂理は単純だ。生きたければ強くなれ」
「でも、どうしたら……」
「強くなりたいか?小僧」
そう言ってこちらを見据える男の目に、ジルダは慄いた。その問いはまるで、自分を試しているかのように思えた。ゴクリと息を飲み、そして唇を噛みしめる。覚悟を決めろ――そう言われているような気がした。迷う間もなく、ジルダは頷いた。頷くしかなかった。そうしなければ、今度こそ死ぬ気がした。
「生きたいなら、さっきの熊にしたように殺せばいい。憎いもの、おまえを苦しめるもの、すべて壊せ。俺がおまえを強くしてやる」
不気味に歪んだ口元と、何にも動じぬ凍てついた目。凶器を携えた死神が自分に囁いている。ジルダは目を逸らすことができなかった。まるで魅入られたように、ずっと男を見つめていた。
恐ろしいと思った。けれど同時に、救われたような気がした。絶望の中に一筋の光が射した気がした。きっとそこには母のような優しさはないだろう。父のような正義もないだろう。けれど、差し出されたその手こそ、今の自分を唯一救う手立てだ。それだけは確かだった。
ジルダは差し出されたその手を取った。血塗られた運命が、動き出した瞬間だった。
それからジルダは目を盗んでは町を抜け出し、山に入った。昼夜問わず暇があれば、誰もその存在を知らぬ樹海の奥の小さな湖の畔に通った。男の名はシオンという。シオンは月に数度だけ、この湖畔に現れる。しかし、それ以外は知らない。唯一わかるのは、この男が恐ろしいほど強いということだけだった。
シオンがジルダに教えたのは、殺人術だった。どうすれば人を効率よく、そして確実に殺せるのか。人間の体の構造、急所、戦い方。その全てを教わり、厳しい訓練を受けた。それは父の稽古のような生半可なものではなかった。時に自分の命に危険が及ぶほどに、常に死と隣合わせの鍛練。しかし、ジルダは逃げ出すどころか、わずかな時間も惜しんで血の滲むような努力を続けた。勿論、身を寄せている親類の家での畑仕事や家事もこなした。おかげで底知れぬ体力と忍耐力が鍛えられた。
ジルダの毎日は苦しく、あまりに厳しいものだった。けれど、決して自分を見失うことはなかった。いつか必ずこの生活から抜け出してやる。憎しみなのか、怒りなのかわからない。沸々と煮えたぎる執着心に突き動かされ、ジルダは目を見張る速さで殺人術を習得していった。歳月は流れ、そうして一人のか弱い少年は姿を消し、一人の殺人者が出来上がった。
12歳になったばかりのある日。ジルダは初めてその手で人を殺めたのだ。
何気ない夏の夜のことだった。幼かったジルダを引き取った農家の夫婦は、何か気が障るたびにジルダを痛めつけていた。しかし、ジルダが成長して体が大きくなるにつれてそういうこともなくなり、暴言を浴びせるに留めていたのだが。その夜は男の虫の居所が悪かったらしく、久しぶりに眠っているジルダを殴りつけてきた。
「おい!テメェ、酒がねぇぞ!酒はどこだ!」
「知らないよ。それで最後じゃないの?」
「何!?だったら買って来い!」
「こんな時間に酒屋は開いてないよ」
「じゃあ盗んで来い!俺ぁ酒が飲みたいんだよ!ったく、悠長に眠りこけやがって。テメェは誰のおかげで飯を食えてると思ってんだ。何の取り柄もないガキを置いてやってるんだ。感謝のひとつぐらいはしねぇか!」
「………」
「あぁん?何だその生意気な目は。昔からその態度が気にいらねぇんだよ!テメェの親はろくに躾もしてこなかったのか?落ちぶれた騎士の息子が、がたいばかり大きくなりやがって」
男はほとんど泥酔状態で、何度もジルダを殴った。しかし、今までジルダは抵抗をしたことなどなかった。無言で耐え、男の怒りが収まるのを待つだけだ。こんなのは日常茶飯事だった。その度に泣き喚き抵抗していたら身がもたない。それに、12歳になるまではこの家に居ようと思っていたのだ。
12歳になれば、正式に騎士に志願できる。この夫婦がいなくても、最低限生きていく術が手に入るのだ。こんな奴隷のような生活はしなくていい。そう。怖くて耐えていたわけではない。ジルダは機会をずっと待っていた。散々自分を痛めつけ、家畜のように扱ってきたこの夫婦を、どのように弄り殺してやろうか。虎視耽々とその時を待ち続けていたのだ。
「やっと…やっとだ。やっと自由になれる」
「……あぁ?」
静かにそう言って、ジルダはムクリと起き上がった。そして薄汚れた小屋の片隅に立てかけてあった斧を手にする。異常なほどに落ち着きを放った灰色の目が、静かに男に注がれた。
このガキ、こんな顔をしてやがったか…?男は初めて気が付いた。恐怖と屈辱に震えていた少年が、いつの間にか自分と同じくらいの背丈にまで成長して、痛みさえ感じていないような無表情でこちらを見ている。男はなぜか身震いした。背筋がゾクリとするほどに凍てついた眼差し。そこからは何の感情も読み取れない。つい最近までただのガキだったはずなのに、今はなぜだか別人に見える。
「おい、テメェ。何なんだよ?」
男はジルダを怪訝な目で見つめた。斧を手にしたジルダが、わずかに口元を歪めたその瞬間だった。
「う…うああぁぁあ…!?何、何しやがる…!」
振りかざした斧は、容赦なく男を襲った。急所をわざと外し、何度も振りおろされる斧。傷つけては何度も追い詰めていく。ジルダは返り血を浴びながら、薄い笑みを浮かべていた。
「あんた達には感謝してるよ。ここまで育ててくれたんだ。だから、そのお返しだ」
狭い小屋の中を這いずり回る男を執拗に追いかけるジルダは、まるでそれを楽しんでいるかのようだった。ひと思いには殺してやらない。最大級の苦しみを与え、息絶えるその瞬間まで苦痛を味あわせてやる。父を、母を、侮辱したこと。忘れてなどいない。その罪を償えばいい。そして後悔しながら死んでいくがいい。この世は強い者が生き、弱い者が死んでいく。至極簡単な自然の摂理を、この俺が教えてやろう。
「なぁ、この世界は不条理だと思わないか」
けれど、それを嘆く暇があれば強くなればいい。自分の運命は、自分の手で変えるのだ。
ジルダは夫婦を殺し、家に火を放った。夏の夜、闇の中に炎が燃え盛る様はこの世のものでないほどに美しかった。すべて焼きつくせ。そうして生まれ変わるのだ。邪魔なものは壊せばいい。そして欲しいものは自分で手に入れる。
夜の闇に浮かびあがる火の粉を見つめながら、ジルダは心の奥底に野心が芽生え始めていくのを感じていた。




