↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第四章
50/68

過去(1)別離

少年がこの世に生を受けたのは、アレーヌという田舎町の貧しい家だった。父はアレーヌを統治するバシュレー子爵家に仕える騎士で、母はどこにでもいる農民の娘だった。騎士の家の出とはいっても、財のない地方の田舎町だ。生活も身分も農民とさほど変わらない。城の外にあるボロボロの民家に親子3人で住み、地味で質素な、貧しい暮らしを送っていた。


「ほら、どうした!足が止まってるぞ!もう降参か?」

「違う!僕は絶対に負けない!」

「だったら最後まで気を抜くな!」


長閑な田舎町の片隅で、鳴り響くは剣と剣のぶつかり合う金属音。まだ大人の腰くらいしか背丈のない少年は、必死になって父に向かい剣を突く。しかし、まだ薄っぺらい発達途上の体だ。父の繰り出したわずかな攻撃でバランスを崩し、半ば吹き飛ばされるようにして地面に尻もちを突いた。


「痛っ…てぇ…!」


質素で狭い平屋造りの家の庭に、少年の唸り声が響いた。よほど悔しいのか握っていた剣さえも放り捨て、地団太を踏む。そんな息子の姿を、優しい母は洗濯物を干しながら静かに見守っていた。


「畜生っ…!何でだよぉっ…!」

「まだまだ練習が足りないんだ。騎士になりたいなら、もっともっと鍛練を積みなさい」


父は厳しく、そして強かった。人柄も良く、困っている人がいれば見逃せない性格だった。それゆえ損もしたし、大した出世もできないでいたが。それでも、子爵家に仕える騎士の中では一目置かれ、そして若い者たちには慕われる存在だった。


「僕は父さんみたいにはなれないのかな…」

「そんなことはないわよ。あなたはまだ小さいだけで、劣っているわけでは決してない。むしろ、お父さんは褒めていたのよ。子供にしては大したものだって」

「本当に?」

「本当よ。才能があるからこそ厳しくするものよ。それに、あなたは勇気のある子。きっと父さんみたいに強くなれる」

「そうかな…。そうだといいな」


少し照れくさそうに、だけど誇らしげに少年ははにかんだ。


「僕、一生懸命練習するよ。父さんみたいに強くなる」

「そうね。強く、勇敢で、誰より優しい人間になってね」


父も母も、いつも言っていた。騎士は人を殺めるのが仕事だ。だからこそ、人の命に敬意を払えと。たとえその手で敵を殺めても、決して命を軽んじる人間になってはいけないと。どんな人間にも、大切な家族や愛する人が必ずいるのだ。

まだ幼い彼がどこまでその言葉を理解したのかわからない。けれど、父のように誰からも慕われる人間になりたいとずっと思っていた。父のような騎士になることが、何より幼い彼の目標だった。



けれど、父と母は死んだ。彼がわずか5歳の時に。ジルダは幼くして、最愛の家族を失った。



流行病だった。その年、アレーヌの町に猛威をふるっていたその病は、たくさんの人の命を奪っていった。

父と母を一度に失ってしまったジルダは、生きていく術を失った。天涯孤独となったジルダに、頼れる者はいなかった。この年アレーヌの町ではたくさんの人が死んだのだ。犠牲になったのは何もジルダだけではない。周りの誰も、彼に手を差し伸べるほどの余裕などなかった。そしてそれは、父が懸命に仕えていた主である子爵も同じだった。一人の騎士の死になど構ってはくれなかった。自分の部下が残した一人息子が路頭に迷おうとも、いちいち気になどかけてなどくれない。流行病のせいというよりは、一人の部下の死になどさほど興味もないという印象だった。命を懸けたはずの主でさえ、そんなものなのだ。ジルダは結局、母方の親戚に引き取られることとなった。


しかし、ジルダには悲しんでいる余裕などなかった。



「ジルダ!草むしりが終わったならさっさと薪を集めてきな!おまえには休んでる暇なんてないんだよ!」

「ったくよぉ。ただでさえ今年は不作で食ってくのも大変だってのに、あの女、ガキなんぞ残して逝きやがって。いい迷惑だってんだ」


孤独なジルダが身を寄せた家には、居場所などなかった。母の遠縁だという、農民の中年の夫婦。子供はいない。しかし、わずかな畑しか持っておらず、その暮らしの困窮ぶりは父と母と暮らしていた時よりも酷かった。ジルダは朝早くから夜遅くまで、一日中働かされた。食事は1日に一度きり。部屋など与えられず、離れの小屋の藁の上で眠った。無論、自由などない。畑仕事から家事雑用まで、奴隷のように扱き使われていた。


そんなジルダにとって唯一の心の支えだったのは、父が残した形見の剣だった。悲しくて寂しくて心が押し潰れそうな夜、父の剣を抱いて眠った。

会いたい。どうして死んだの?たった一人、自分を残して。どうしていなくなってしまったの?――毎夜毎夜、嘆いた。どれほどその名を呼んでも、返事などない。けれど、こうして父の剣に触れていたら、父との思い出が蘇ってくる。稽古を付けてくれた父。優しく見守ってくれた母。ありふれた日常の光景が、瞼の裏に浮かんでくる。ひんやりとした剣の感触は、しかし、ジルダには温かく優しかった。


けれど、そんなジルダの心の支えさえ、無情にも奪われてしまった。


「何だ、テメェ。そんなもん隠し持ってやがったのか」

「こりゃあいい剣じゃないか。売れば金になりそうだよ」

「やめて!それは父さんの形見だ!」

「うるせぇよ。テメェに意見する権利なんてねぇんだぞ」

「やめて!触らないで!これは僕のだ!」

「誰にそんな口聞いてやがる!テメェ、俺たちが引き取ってやらなきゃ生きてなどいられなかったんだぞ!飯が食えるだけでもありがたく思え!」


父の剣を奪った男の腕に、ジルダはしがみ付いた。けれど、男はそんなジルダを突き飛ばし、何度も殴った。わずか5歳のジルダの痩せた体は、簡単に吹き飛ぶ。けれど、血塗れになりながらも、諦めずに男に縋りついていた。


「ダメ…なんだ…それは…ッ…父さんの、…剣だか…ら…」

「うるせぇよ!生意気な口聞いてんじゃねぇ!テメェには死ぬまでここでタダ働きさせてやる!」


容赦なく叩かれ、蹴られた細い体。倒れ込んだ土の上、口の中に砂利が入り込んだ。鉄のような味が滲み、目の前がぼんやりする。痛いという感覚さえも、遠のいていきそうな気がした。


ああ…父さん、母さん。どうして死んでしまったの?会いたい。会いたいよ…。


奪わないでほしかった。お願いだから。思い出まで僕から持って行かないで――そんな願いは泡となり消え失せる。ちっぽけな自分にできることなど何もない。大切な思い出さえ、こうして無残に奪われてしまうのだ。ジルダは自分がまるで、家畜にでもなったように思えた。何も考えず、自由もなく、ただひたすらに毎日働くだけ。鎖に繋がれた足はもうどこにも行けない。あの日々にはもう、戻れない。


絶望を知ったジルダは、逃げようと決意した。このままここにいても人間らしい生活などできない。一生奴隷のように扱き使われるか、疲れ果てて死ぬかのどちらかだ。自由だけでなく、思い出さえも奪われた。もうここにいても、いいことなど一つもない。同じ死ぬなら、別の場所で死にたい。そう思い、ジルダは抜け出した。6歳になった、冬のことだった。


北の地の冬は厳しい。その現実を、ジルダは抜け出してわずか数十分で知ることとなる。十分な防寒さえできないボロボロの衣服に、裸足。そんな格好で何も持たず夜の野山に入る。どこへ向かえばいいのかもわからない。剥き出しの草や葉は容赦なく彼の足を傷つけていく。寒さに体は震え、足の裏は血塗れだった。この時初めて、死というものが身近なものに思えた。


そんな時だった。ジルダは今度こそ、抜け出したことを悔やんだ。深い野山で遭遇したのは、恐ろしく大きな熊だったのだ。自分の身長の2倍…いや、3倍あるかもしれない。大きな黒いその獣は、ひどく澄んだ目でジルダを睨みつけた。息が乱れる。血の気が引くとはこういうことなのだろうか。逃げろと本能が警告しているのに、体が金縛りにでもあったかのように動いてくれない。目を逸らすことさえもできず、熊は獰猛な目でジルダを威嚇する。やられる――そう思った瞬間、体が数メートル吹き飛んだ。とっさに身構え体を丸めたのは、ほとんど無意識のことだった。すんでの所で襲ってくる爪を交わし、ジルダの体はコロコロと山の斜面を転がり落ちる。途中で木に引っ掛かり、呻き声を上げながら顔を上げれば、クマはまだこちらを見ていた。一歩、一歩と近付いてくる黒い物体。不気味にこちらを見据えるその目に、今度こそ死を覚悟した。


死ぬのだろうか。こんな所で。誰にも知られず、ひっそりとここで短い人生を終えるのだろうか。……それもいいじゃないかと、頭の中で誰かが囁いた気がした。どうせあの家に戻ったって、奴隷のような一生を終えるだけだ。いつ殺されるかもしれない。だったら、死ぬほど苦しんで生きるよりは、いっそこのまま楽になった方がいいじゃないか。幼いジルダの頭の中に、絶望と諦めがよぎる。しかし、そんな時だった。


『おまえは人の命の重みをちゃんと理解できる騎士になるんだよ』


父の声が聞こえた気がした。耳鳴りのように、ずっとこの耳に焼き付いて離れない言葉だ。なぜだろう。強かった父の、最期の顔を思い出した。あんなに屈強で健康だったのに、死ぬ前には痩せて頬はこけ、顔は蒼白だった。父も母も、苦しみながら死んでいった。そんな二人の最期を看取り、ジルダは思った。この世はなんて不条理なのだろうか、と。

死にたくない――二人は細い声でそう零し、目を閉じた。父と母のやりきれぬ最期の顔を、きっと一生忘れないだろう。なぜ死ぬのが父だったのか、母だったのか。一人残され、なぜこんな苦しい思いを自分が強いられなければならないのか。憤りに震える手で、ギュッと拳を作る。


僕は死ねない。こんな所で、死にたくない――ジルダは傷らだけの手で、折れた木の枝を掴む。そして襲いかかってきた熊に向かって、大きくそれを振り上げた。


「う…うあぁああぁぁぁぁ――…!!」


無我夢中だった。自分より大きな獣に向かって、必死に木の枝で襲いかかっていた。地が揺れ、風が踊り、月が燃えていた。何をどうやって戦ったのかはわからない。ただ、地や風や月、自分を取り囲む世界の全てのものが躍動し、自分の背を押していた。『殺せ』と世界が自分に囁く。その声ならぬ声に従い、ただ己の腕を動かしていた。我に返った時には、全てが終わっていた。恐ろしいくらいに静まり返った月の光の下、血走ったジルダの目はすでに動かぬ獣の亡骸を捉えていた。いったい何が自分を突き動かしたのかわからない。茫然と立ちすくむジルダの体が、ようやく全身の痛みを訴え始めた頃。背後から聞こえてきたのは、見知らぬ誰かの声だった。


「お見事だ。少年、おまえの名は?」


振り返った先にいたのは、まるで死神のような男だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。