逃避行
ジルダは馬を走らせた。その胸にしっかりと、愛する人を抱きとめて。
針葉樹の広がる林を潜り抜け、崖を上り、険しいけもの道をひたすらに進む。肌を撫でる早朝の風は、まだ秋とはいってもひどく冷たい北の地。それはジルダが生まれ育った、アレーヌの町だった。
この国の最北の地にある小さな町は、その領土のほとんどが農地か荒れ地で占められていた。王都のように賑わう市街地も、人の手で作られた建築物もほとんどない。所々に見える集落を少し外れたら、広大な平原が広がっている。とても穏やかで静かな、何もない町だった。
小さな家屋がぽつりぽつりと点在する集落を通り過ぎ、馬は森の奥へと進んだ。深い森の中は時折鳥の鳴き声がするだけで、人の姿など全く見当たらない。この辺りに住む者でも寄りつかないのではないだろうか。こんな所を通り、いったいどこへ向かっているんだろう。不安げに見上げたロザリーに、ジルダは彼女の心中を察したのか、安心させるように微笑んでみせた。
「疲れたでしょう。後少しで着きます。もう少し我慢を」
「うん…」
ロザリーはジルダの胸元をギュッと掴んだ。大丈夫だ。どこへ向かおうとも構わない。今はただ、何もかも忘れてジルダと共にいたい。何度もそう自分に言い聞かせた。そうでなければ、押し寄せる不安に胸が押しつぶされそうだった。ジルダは何者でもない。自分の知っているジルダでしかない。どうしてもそう信じたかった。
やがて馬は、森の中に現れた小さな湖のほとりで足を止めた。鮮やかなコバルトブルーの水面に映し出されるは、森に根付く木々の緑。その湖畔に古びた小さな山小屋があった。ジルダはロザリーを連れ、その扉を開いた。
ギイと音を立てて開けば、中は小さなキッチンとダイニングテーブルが並んでいた。粗末ではあるが、庶民の家具一式が揃っている。誰か生活しているのだろうか。このような人気のない、森の奥深くに。
「ここは…?」
ロザリーの問いに答えることもなく、ジルダは奥の寝室へと進んだ。そこに置かれたベッドには、天井の小窓から柔らかな朝日が降り注いでいる。ジルダはベッドの片隅にロザリーを腰掛けさせると、キッチンから水で湿らせた布を持って来た。そして、そっとロザリーの体を包む外套に手をかけた。
「あっ…待っ……」
見ないでほしいと懇願しようにも、外套を脱がせるジルダの手の方が先だった。露わになったロザリーの白い肌には、所々に赤い痣が散りばめられている。それを恐ろしいほどに冷えた目で凝視するジルダに、ロザリーは羞恥と悔しさで思わず顔を歪めた。見られたくはなかった。ジルダにだけは、どうしても。
「やっ…ジルダ…!?」
ジルダは無言でロザリーの下着までも剥ぎ取り、トンと彼女の肩を押した。途端にベッドに沈んだロザリーの裸体は、まるで女神のように純朴な美しさを放ち、同時にその瑞々しさがひどく妖艶だった。皮肉にも他の男が彼女の白い肌に散らした赤い花が、余計に色香を引き立てている。行き場のない怒りと憎しみに、ジルダはたまらず唇を噛みしめる。今にも爆発しそうな淀んだ感情を押し込めるように、ジルダは黙ったまま手にした布でロザリーの体を拭き始めた。
「申し訳ありません。もう少し早く、お救いできていれば」
「おまえが詫びる必要なんてない」
どうか謝らないでほしかった。だって、余計に辛い。責め立てられ、呆れられる方がまだマシだ。こんなにも苦しそうなジルダの顔を目にしたら、心が張り裂けそうに辛い。
「くそっ…なぜ、あなたを行かせてしまったんだ…!」
悔しさに唇を噛みながら、ジルダはロザリーの全身を濡れた布で拭った。自然とその手に力が籠り、痛いくらいに布はロザリーの肌を擦った。どうにかして消してしまいたかった。他の男によって付けられた痕も、ひと時でも彼女が辱めを受けたという事実さえも。布ひとつで拭えるものならば、全部取り払ってしまいたかった。ロザリーの心の痛みが消えるならばと、しつこいくらいに無心で布を滑らせていた。ロザリーの白い肌が、擦れて赤くなるくらいに。
「い、痛いっ…ジルダ…」
悲鳴のようなロザリーの声に、ハッと我に返った。見下ろせば、困惑したようにこちらを見つめる彼女の顔がそこにあった。ひどく擦ったせいで、痛々しいほどに赤く染まった肌。ジルダは慌てて布を投げ捨てた。
「も…申し訳ありません!」
「ううん……いいんだ。こうすることで、少しでもこの体の汚れが消えるなら…」
「ロザリー様……」
自分よりも悲しそうな顔をするジルダに、ロザリーはなぜだか目の奥が熱くなった。
どうしてだろう。今さらになって、思い出す。全身を這うあの男の手。好きでもない男に、無理矢理に開かされた体。その屈辱と恐怖が今になって心を襲い、涙が溢れだしてくる。思い出したくもないのに、体が勝手に思い出す。今すぐ葬り去りたい記憶とともに、あの男に触られたおぞましい感覚さえも蘇ってくるのだ。
「あ…なぜ…涙、なんか……」
「……ロザリー様」
「私…あの男に、…」
「…っ……」
「傷一つ、付けてやれなくて…もう、ダメだと思って…。すごく、すごく…怖くて…!」
体がブルブルと震えた。溢れだす涙が止まらなかった。込み上げてくる吐き気と、乱れる呼吸。何か得体の知れないものに心を蝕まれるような感覚が全身を襲う。心の全部が真っ黒に塗りつぶされてしまいそうな、まさにその瞬間。苦しいくらいに全身を包んだのは、ジルダの腕の温もりだった。
「もう、大丈夫です。私がここにおります」
心の芯にまで響くような、温かく穏やかな声。抱き締められた体は途端に震えを止め、乱れた呼吸は少しだけ落ち着きを取り戻した。ジルダの広い胸に耳を当てれば、ドクンドクンと鼓動が一定のリズムを刻んでいる。目を閉じてその音を聞いていると、なぜだかひどく安心した。生きているんだと。ちゃんとここに戻ってきたんだと、そう思えた。
「いつもそうだな…。危ない時にはいつだって、おまえが救ってくれた。おまえがいなきゃ、私は今頃…」
「ええ。ちゃんと私の元に帰って来てくれた。約束を果たしてくれたことに、心から感謝していますよ」
「……けれど、私は……」
汚されてしまった、と。消え入りそうに掠れた声が響く。あのおぞましい記憶が頭から離れない。全身に未だ残るあの男の手の感覚に、ロザリーは唇を震わせていた。
「ロザリー様。正直にお答えください。あの男にどこまで奪われたのですか?」
「え…?」
「あなたのお答え次第では、私はあの男を殺さなくてはならない。そうでなければ、私の心が納得いかない」
「そ…その必要はない!さ、最後までは…その…されてないし」
「……左様でございますか」
「けれど…」
「けれど?」
いつの間にかロザリーの体に覆いかぶさるジルダは、問い詰めるように彼女の瞳を覗き込んでいた。エメラルドの瞳から、溢れだす無数の涙。止まることを知らない雫に、ジルダは胸が張り裂けそうだった。
「私…私は、汚れてしまった…!汚されたんだ、あの男に…っ…。今も残ってる、あの男の手の感覚っ…!すごく、気持ち悪くて…!もう、こんな体、なくなってしまった方が…」
「ロザリー様」
「消して!私を…消してくれ!ジルダ、私…」
「ロザリー様!」
癇癪を起したように、泣きじゃくり捲し立てるロザリー。コントロールが利かなくなったその心をどうにか落ち着かせようと、ジルダは声を上げた。そしてその手がしっかりと、ロザリーの頬を包み込む。視界を覆う、ジルダの灰色の瞳。他を見るな、そう言われているような気がして、ロザリーはひたすらにジルダの悲しみの眼差しを受け入れていた。
もう、埋め尽くしてほしい。この目に入るもの全て。自分を取り巻くものすべて。この世界のすべて。自分の全てを、ジルダだけで埋め尽くしてほしかった。そうじゃなければ、この心が壊れてしまいそうだった。
「忘れたい…全部……」
彼女の縋るような眼差しに、ジルダはもう全て腹を括った。沸々と込み上げる怒り。行き場の無い悲しみ。自分を苦しめるものも、彼女を苦しめるものも、全部取り払えるのならば、何だってする覚悟だった。
取り払ってやる。あの男が残した痕も。汚らわしい手が残した感覚も。全てこの俺が取り除いてやる。誰に咎められてもいい。許されなくても構わない。奪われたものは全て取り返す。この方は他の誰でもない、俺だけのものだ。
「忘れさせてさしあげましょう。お望みとあらば」
上へ向かって伸ばされた白い手を、ジルダはしっかりと握った。まどろんだ朝の空気が立ちこめる部屋の中、淡い光を浴びた二人の影がゆっくりと重なる。受け皿を失くした愛情は、深い悲しみの中に溢れだす。行き場の無い二人の思いは、狂おしいほどに純真な輝きに満ちていた。




