あなたが欲しい
小さな山小屋の狭い寝室の中は、湿ったような熱気に満ちていた。曇った窓から差し込む夜明け間近の薄明かりに、映し出されるはベッドに投げ出された二つのシルエット。その柔らかな光が、まるで二人を包み込んでいるようだった。
「お可哀そうに。こんなにも痕が残るほどに…」
「うっ…嫌、見る、な…ッ…」
「けれど、ご安心ください。こんなものすぐに忘れます。この私が、全ての記憶を塗り替えてさしあげますから」
チクリ、チクリと。ジルダの唇が肌の上を滑り、甘い刺激をもたらす。それは痛みと快感のちょうど狭間の、絶妙な感覚。唇がなぞるのは、すでに他の男に印された赤い痣の上だった。一つ一つを見逃すことなく、隈なくその目で見据える。そして無言のまま同じ場所に唇を這わせ、上書きをする。ロザリーの胸は羞恥でいっぱいだった。
「随分たくさん痕を付けられていますね。本当に抵抗したんですか?」
「なっ…何で、そんなこと…」
「気持ち良かったですか?私よりも」
「違っ…私、は…」
「許せないな」
わざとらしく言うジルダに、ロザリーはまたその目を潤ませた。しかし、ジルダはわかっていたのだ。下手な慰めなどを口にするよりも、こうして責め立てる方が返って彼女の心が楽だということを。
今こうして自分の体に触れているのは、ジルダだ。頭ではわかっている。ちゃんとわかっている。それなのに、やはり思い出す。あの忌々しい男の手の感触。ゾワリと全身が粟立つような感覚に、ロザリーは震えずにはいられなかった。
「ジル…ダ…私、あの男に…」
「私が塗り替えてさしあげます。あの男の記憶ごと、全て。ほら、その目で見てください。あなたをこんなにも感じさせているのは、この私だ」
目の前で繰り広げられるその光景に、ロザリーは恥じらいながら顔を背けた。不思議だ。同じ行為だというのに、比べ物にならない。あの男に組み敷かれている時はあんなに気持ちが悪かったのに、相手がジルダだというだけでお腹の奥が熱くてたまらない。欲情している。こんなにも。そして信じられないくらいに、安心している自分がいた。
「無防備だな…。だから、心配でたまらない」
「心配…?おまえが、私を?」
「ふっ…今さら何を疑うことがあるのですか」
困ったように笑いながら、ジルダの唇はロザリーの首筋を辿る。チクリと、突如として襲った刺激に、まるで電流でも流れたかのように彼女の体は激しく浮き上がった。
「私にどうして欲しいのです?」
「…そ、そん…なの…ッ…」
「言ってください。でなければ、わからない」
「わかってて、どうして…!」
「少しくらい意地悪をさせてください。でなければ、私の心が収まらない。わかりますか?私の心がどれほど不安にかられ、何度後悔し、そして激しい憎悪と戦っていることか」
口にすればするほど、胸の奥で渦巻く激情。無数に散らされた花にどれほど自分を上書きしたって足りない。そう。自分の中に芽生えた欲望は、もう止まることを知らなかった。
「どんなふうに触られたんです?あの男の前でも、こうやって喜んだのですか?」
「違うっ…!それ、は……あ…ッ…」
「感じていたんですか?」
「違う!なぜ、そんな…酷いことを…ッ…」
「酷い?…最初から、そうでしたよ。あなたに初めて会ったその日から、私はずっとあなたを酷い目にあわせたいと思っていた」
ジルダは思い出していた。初めて彼女を目にした日の衝撃を。そう、きっと。あの日が始まりだった。あの日から自分の世界が、全て変わってしまったのだ。
「ずっと考えていましたよ。こうしてあなたを組み敷き、傷つけ、壊し、我が物にしたいと。私のような卑しい者の手に堕ちていくあなたのことを、いつも夢見ていました」
言葉では説明のつかない、複雑で奇妙な歪んだ感情。言うなれば、憎いほどに愛しかった。対極するはずの感情が混ざりあい、ドロドロと心の奥底で渦巻いている。ジルダの心はもう限界だった。
「あなたは私の上官だ。しかも、由緒ある将軍家のご令嬢。こんな私とは釣り合いなど取れるはずもない高貴なお方だと、十分承知しています。けれど、もうそんなことどうでもよくなった」
「ジルダ…?」
「相手が誰であっても、譲りたくない。他の男が触れることすら許せない。あなたが欲しい。狂おしいほど、あなたの全てが欲しいのです」
「……ッ……」
「ロザリー様、教えてください。どうすればいい?どうすれば、あなたを私のものにできるのです?」
切ないくらいに優しく、狂おしいくらいに激しい、ジルダの歪んだその顔を見ているとたまらなく胸が苦しくなった。
男なんてごまんといる。けれど、これほどまでに自分の心を震わせる男は他にはいなかった。いつもそばにいてくれた。片時も離れず、任務だけでなく私という人間そのものを理解し、支えてくれた。危険が及べばいつだって救ってくれた。何があっても私のそばを離れずにいてくれた。その愛情は、時々怖くなるくらいに執拗で、狂気的で。跪きながらも、その目はいつも私を見下ろしていた。危険だとわかっていた。自分が自分でなくなると。けれど、囚われてしまったが最後。今ではジルダがいなければ何もできない。そばにいることが当たり前で、まるで空気も同然だから。抜け出せない自堕落な恋の沼に堕ちたのは、私の方。この男なしで生きることなどもう不可能なくらいに、いつしか心奪われてしまっていたんだ…。
「あげるよ…」
だから、もう今さら隠すことなどなかった。ジルダが私を欲する気持ちと同じくらいに、私だって欲しい。
「私の全てを、おまえにあげる」
「……それは、どういう…」
「好きに…していい。私の全てを、奪っても」
潤んだ目が、目の前に跪く男を誘っていた。奪っていい。それがどういう意味なのか、本当にわかっているのだろうか。ジルダは喉から手が出るほどに望んだ言葉を、しかし、素直に受け入れることなどできないほどに困惑していた。
「本気ですか?……本当に、あなたを奪っても?」
「いいと言ってるだろう?何度も言わせるな」
「ですが、あなたと私は…」
「何も考えたくない。私が誰で、おまえが何者なのかも。関係ない。今はただの男と女だ。私は女として初めて、心からこの目の前にいる男に全部捧げたいと思った」
「ロザリー様…」
わかっている。この方がいいと言ったって、これは禁忌。許されないことなのだ。結ばれないとわかっていて、どうして抱ける?愛する人を不幸にするだけだ。立場も未来も忘れて自分のものにしたところで、後に何が残る?揺るぎない残酷な現実が、ただひたすらに色を濃くして浮き上がるだけだというのに…。
わかってはいても、それでも、募る愛しさに自制などきかなかった。心が求めていた。どうしようもないくらいに、愛を乞うていた。
「本当に…いいのですか?」
「いい」
「途中で嫌だと言われても、止める自信などありません」
「それも、覚悟してる」
「後悔するかもしれません」
「……うん。でも、後悔したとしても、私が大切にしたいのは、今だ。今、この瞬間。自分の心に正直でいたい」
きっと、後悔するのはわかっている。けれど、目の前にいる愛しい女性を、この心が欲していた。夢にまで見た、愛しい存在。あるがままの自分を受け入れてくれた、尊い存在。今この瞬間に手に入るのならば、いつ死んでも構わない。いっそ共に息を引き取ったっていい。そんな危険な思考に埋め尽くされそうなほど、自分の理性が崩れ去っていく感覚がしていた。
一度抱けば、後戻りなどできないとわかっている。けれど、ジルダはもう限界だった。
「愛しています。あなたのことが、苦しいくらいに」
振絞ったように、唇から漏れ出たその声。降ってきた愛の言葉に、ロザリーは目を見張った。
ジルダの表情が、今までで一番切なく、そして優しく見えた。いつだってどこか冷めていて、他を寄せ付けず、死んだような目をしていたジルダだ。それが、どうしてだろうか。今は別人みたいに、穏やかで優しい。そして泣きたいくらいに、愛おしい。
「もう我慢しない。あなたを俺のものにする」
重なり合った、二つの影。朝の穏やかな光が包むのは、生まれたての愛。背負うものも過去も忘れ、互いの存在を求めあう二人は、強くその手と手を握り合っていた。




