月明かりの夜
鬱蒼と茂る森の奥深く、カルディア伯爵家の領地であるザクレスの村よりもさらに奥まったその地に、奴らのアジトはあった。農地だけがのどかに広がるその村をさらに北上した、この国最果ての国境付近。地図にさえ記されないそこへ辿り着くまでの道は険しく、荷車に転がされたロザリーは、自由のきかない体を何度も車の壁にぶつけていた。どれほどの時間がかかったのかはわからないが、荷車が止まった頃にはすでに西の空が赤く染まっていた。
誰も近寄らないような森林の奥深くに築かれた、石造りの異国風の建物。王都にある王宮と同じように、門番が目を光らせている。門をくぐり大きな扉から中に入れば、財を尽くした無数の装飾品が広いロビーを煌びやかに彩っていた。まるで貴族の城のようだ。もはや盗賊の範疇を超えている。彼らがどれほどの力を秘めているのか計りしれないが、それでも、ここにあるものは全て強奪された物ばかりなのだ。いくら富や権力をひけらかしたとしても、それは本物じゃない。ロザリーは嫌悪感を抱きながら辺りを見渡していた。
ロザリーと近衛連隊の騎士たちは、階段を下りて地下へと連れられた。そこには薄暗い廊下に沿って、いくつかの牢屋が並んでいる。騎士たちが入れられた牢屋とは別に、ロザリーが連れられたのは離れた所にある一際厳重に鍵をかけられた独房だった。そこに入れられて初めて、体を縛り付けていた拘束具が外された。
「じきにジャーク様からお呼びがかかる。それまで大人しくしてろよ」
ニヤリと品の無い笑みを浮かべた男は、ロザリーを一人ここに残し出て行く。ガシャリと南京錠が閉められ、ロザリーは疲れたように大きく息を吐いた。
明かり一つない暗闇の中、小さな格子窓から差し込む月明かりだけが辺りをぼんやりと照らしている。こうしてたった一人で暗い場所に残されると、やはり心細くもなる。そんな時、胸に思い浮かんだのはジルダの顔だった。
こんな時にどうして思い出してしまうんだろう。「行くな」と、最後にこの身を抱き締めたあの逞しい腕を。あの温もりを。今更になって戻りたいと思ってしまうのは、自分の心が弱いからだろうか。今はただ、狂おしいほどのジルダの眼差しが恋しい。
ロザリーは膝を抱え、頭上に降り注ぐ月の明かりをずっと眺めていた。
「バシュレー副官、遅くなってすまない」
歩兵隊を引き連れたディノワール将軍がザクレスに到着したのは、もう真夜中のことだった。アジトへ続く森よりも手前に野営を構えていたジルダは、早速将軍の前にアジト付近の地図を記したものを広げた。
「お待ちしておりました、ディノワール将軍。無事に到着されて何よりです」
「道中もっと奴らの伏兵が潜んでおるかと思い、警戒しながら進んでいたが…。予想外にほとんど遭遇しなかったのは、そなたの計らいか?」
「はい。伏兵どもは、部下に指示をして予め排除しておきました」
「さすがバシュレー副官。抜かりがない」
「恐れ入ります。しかし、森に入れば見張りの伏兵が所々に配置されています。我々と違い、森の中を熟知しているだけ手強い。しかも道幅が狭い森の中での戦闘は、不慣れなこちらの方が不利です。迂闊に入り込めば犠牲を払うだけでしょう」
ジルダは地図を指しながら、淡々と告げる。そんな彼の冷静さにディノワール将軍は感心した。地図にはもう作戦が記されている。歩兵隊が到着するまでの間に、すでに頭の中で策を組み立てて完成させていたのだろう。騎士としての個人の力だけでなく、頭も切れるとは。軍師としての能力も申し分ない。この得体のしれない若者に、将軍は底知れぬ潜在能力を感じていた。
「できる限り静かに、そして素早く、相手に悟られる前に動くのが賢明でしょう。まずはこのアジトの周りを少数部隊で囲い込み、夜明けと同時に一気に攻め込む」
「しかし、副官。今の歩兵と近衛連隊が少数に別れて攻め入ることなど可能か?」
将軍の厳しい目がジルダを見据えた。いくら精鋭といっても、実践経験が浅く、安逸をむさぼる今のこの国の騎士たちだ。戦好きな盗賊の荒くれ者たちに、個々の力が敵うかどうかは正直わからない。そのことはこの国の軍を率いる将軍が誰より最もよくわかっているのだ。ジルダはそんな将軍の胸の内を的確に理解していた。
「失敗する可能性は高いでしょう。ただ、手立てはあります」
「手立てとは?」
「何より先に、長であるジャークを討つことです」
声を潜め、ジルダは言った。途端に将軍の眉間にしわが刻まれる。討つとはいっても、まず森を突破してアジトへ入らなければならない。それが可能かどうかという話のはずなのに、なぜジャークを討つなどという言葉が出てくるのか。問われる前にジルダは続けた。
「奴らは盗賊といっても、明確な役割分担や上下関係も見られるし、予想以上に組織としてきちんと機能しています。しかし、それはあのジャークという唯一無二の存在があってのこと。所詮は奴らは盗賊です。絶対的存在を先に討てば、統率を失う可能性は大きい。その時点で一気に攻めれば、牙城を崩せるはずです」
「それはロザリーも同じことを言っていたな」
「さすがにお止めしました。隊長が自ら手を下すのは、やはり難しい。代わりにこの私が潜り込み、ジャークを討ちます」
「何…そなたが?潜り込むだと?」
「ご心配には及びません。必ずやあの男を討ってみせます」
一人で潜り込み、討つことなどできるのだろうか。見張りも門番もそこらじゅうにいる。そこを掻い潜って忍び込み、長を討つことなど可能なのだろうか。
信じられないという顔をしながらも、しかし、将軍は目の前の男の異様なほどの落ち着きに目を見張った。迷いや恐れなど微塵も感じられない。この自信はいったいどこから来るのか。何を根拠に信じればいいのだろうか…。
「夜明けまでにあの男を亡き者にしてみせます。そして必ず、隊長をお救いします」
その言葉に、ハッと目を見開いた。将軍とて、一人の人間。一人の父親なのだ。娘のことを持ちだされたら、もう何も考えることができなくなる。疑うことなどできない。僅かだとしても、少しでもロザリーを救う望みがあるのならば、この副官に懸けてみたい。その思いを押し込めることなど到底できなかった。
「救えるか?確実に」
「必ず無傷で救いだしてみせます。この命に代えても」
言い切ったジルダの力強い声色に、将軍はもう迷いなどなかった。
どうしてこれほどまでに、この男がロザリーに心酔しているのかはわからない。たとえ上官でも、自らの命を危険に晒してまで尽くそうなどと簡単には思えない。しかし、そんなことを考えている状況ではなかった。今は一刻でも早く、愛する娘を救い出したい。その一心だった。
ジルダは腰に下げた剣を抜き、月の光にかざした。ギラリと銀色の鈍い光を放つ刃は、どこか不気味ささえ感じさせる。華やかな赤い軍服よりも、今の黒い外套を纏った姿の方がずっと肌に馴染むような気がしていた。剣を握る手に、力が漲っていく。ロザリーを必ず助ける。その強い意志が色を濃くしていくと共に、たくさんの人間を殺めてきたこの手の感覚が、次第に戻ってきたような気がした。
しかし、同時に嫌な予感がジルダの胸を掠めていたのだ。簡単に殺されるということはないだろうが、しかし、必ずしも安全というわけではない。命を奪われるより惨いことをされる可能性だってないわけではないのだ。
どうか、無事でいてくれ。無茶だけはしないでくれ――ジルダは心の中で、何度もそう叫んでいた。




