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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第二章
31/68

エミール家の真実

「えっ…?私がエミール家の舞踏会に?」


それは突然の知らせだった。


「そうなのだよ、ロザリー。エミール侯爵殿の城で開かれる舞踏会に、ぜひともおまえを招待したいとの知らせが来た」

「しかし、父上!私は…」

「よもや侯爵家のお誘いを無下に断るなどと考えておらぬだろうな?貴族にとって社交というものがどれほど重要なものか、おまえはまだわかっていないようだ」


ロザリーの父であるディノワール伯爵は、さも嬉しそうにエミール家からの書状を手にしている。災難なのはロザリーだ。彼女が社交嫌いの変わり者であることは、王都の貴族にとっては周知の事実。だから、舞踏会への招待状などはロザリーでなく、通例なら妹たちに届いていたはずなのに。いったいどうして、今さら自分に?――ロザリーは憤慨していた。


「これは侯爵のご子息であるイリオス殿のたってのご希望だそうだ。将来の宰相となる方と交友を深めることができるとは、喜ばしいことではないか」

「しかし、それは何も舞踏会などでなくとも…」

「あら、ロザリー。あまりに嬉し過ぎて、あなたのためにすでにドレスをあつらえておりますのよ?」


小躍りでそう言ったのは、ロザリーの母であるディノワール夫人だ。しかも、その手には出来たばかりの煌びやかな空色のドレス。夏の海を思わせる青に、贅沢にも輝かしい宝石が見事に散りばめられている。ロザリーは思わず額を抑えた。


「母上…なぜそんな早まった行動を…」

「可愛い娘のためですもの。ドレスで着飾ったあなたをこの目で見る日が来ることを、どれほど心待ちにして来たことか」

「ほら、ロザリー。母もこのように楽しみにしているのだ。おまえは母の心を踏みにじるつもりか?」


とんだ茶番だ。目眩がしてきた。今さらドレスアップして社交界デビューなど、恥さらしだと思わないのだろうか。

ロザリーは浮かれに浮かれた両親を前に、がっくりと肩を落とした。


「ロザリー、おまえは頑なに女らしさを拒むところがある。しかし、女であることは変わりないのだ。耳が痛いことを言うようだが、女性としての幸せを掴めるチャンスは今しかないのだ。後からそれを追い求めても遅い。少しでもおまえがよき相手を見つけ、子供を産みたいという気持ちがあるのなら、一度くらいそういう人生を考えてみるのも悪くないのではないか?」


父の真剣な言葉に、ロザリーは俯いたまま答えられずにいた。軍人としてでなく、女としての人生。そう言われると、今の自分には断固として拒むことができない。

あのレジーヌでの襲撃事件があって以来、幾度となく考えはしたのだ。自分は結局、隊長としての任務を果たすことができなかった。ジルダはそうは言わなかったが、やはり結果が全てなのだ。王女の情けで咎められることはなかったが、本当ならば隊長を辞するべき失態だったはずだ。やはり、自分には騎士として男と同等に渡りあえる力などないのかもしれない。ジルダを見ていたら、なおさら思うのだ。完璧に務めあげることができないのなら、いっそ女としての幸せを追う方がいいのではないか…と。


そんな迷いがあったのも事実。イリオスからの誘いはあまりにタイミングよく、心にできた隙間へそっと入り込んできた。ロザリーは悩んだ挙句、しぶしぶ父と母の願いを受け入れてしまった。





「イリオス。そなた、ディノワール伯爵家のロザリー嬢を、わが城での舞踏会に招待したとは誠か?」


父親であるマルクス・エミールが珍しく声を弾ませ、そう息子に問いかけた。今まで特定のご令嬢を招待したことなどなかったイリオスが、いったいどういう風の吹きまわしなのだろうか。親ながら容姿も内面も優れていると思っているのになぜか色恋には疎い息子も、とうとう結婚を決めたのかと胸躍らせずにはいられなかったのだ。


「ええ、父上」

「もしや、イリオス。もうすでに結婚を決めたのか?」

「それは気が早すぎますよ。ですが、そのつもりではいます。ロザリー殿をどうにか妻に迎えられるよう、必死になっている所です」


息子の返答に、マルクスは満足気に頷いた。どうぞうちの娘を妻にという、数多の申し出をどれほど断り続けてきたことか。やっと心を決めてくれたのかと思うと、内心ほっとした。マルクス自身も経験している通り、エミール家に迎える妻にはそれ相応の能力が求められる。家柄や容姿は二の次。宰相の妻たる器量や知性、時には外交力さえ必要だ。そのような厳しさを求める相手が、あの近衛連隊の女隊長である人物だとは驚きだったが。イリオスは人を見る目がある。息子に任せていて間違いはないと思っていたからこそ、今まで待ったのだ。何としてでもあのご令嬢を、エミール家に迎えたい。そして、その暁には、イリオスがエミール家の当主となるのだ。

マルクスはそう遠くない未来を想像し、来るべき時が来たのかと感慨深く感じた。そうとなれば、イリオスに話さなければならない。家督を継ぐ者だけが代々受け継いできた、このエミール家に課せられた使命たる秘事を。


「イリオスよ、おまえに伝えるべき時が来たようだ」


風格の滲み出た父の声が、低く響く。そのやけに真剣な声色にイリオスは姿勢を正すと、周りの空気が一気に張り詰めたような気がした。


「今から話すことは、我がエミール家の歴代当主が命を懸けて守り続けてきた門外不出の至上命題。代々宰相として我々がこの国の政を担い続けてきたのは、そのためなのだ。これは国王陛下への忠誠の証と思い、心して聞け」

「国王陛下への…忠誠の証?」

「そうだ。これはこの国の平和を守るため、我々が陛下に代わって引き受け給うた義務。おまえが当主となっても、遂行し続けなければならない。この国のために」


幾度となく訪れた父の書斎が、これほどの緊張に包まれたことがあっただろうか。イリオスは意識せずとも背筋が伸びていく感覚に襲われた。

知らなかった。このエミール家の当主たちが、代々受け継いできた義務があるなど…。

気持ちを引き締め、父の言葉を待つ。しかし、予想外にもマルクスは、部屋の外へと声を張り上げた。


「シオン、これへ」


その父の呼びかけを待っていたかのように、即座に入室したのは家令であるシオンだ。イリオスは思わず眉をひそめた。今から門外不出の事柄を話すというのに、シオンを呼び寄せるとはいったいどういうつもりなのだろうか。その意図がわからずに戸惑う。そんなイリオスとマルクスの前に静かに跪き、頭を垂れるシオン。彼の顔を覆う無機質な鉄仮面が、なぜか不気味に思えてならない。

そんなイリオスの心情を知ってか知らずか、シオンは薄い笑みを浮かべながら自らの仮面に手をかけた。


「シオン……!?」


イリオスは目を見張った。仮面を外した彼の素顔を見たのは初めてだった。しかし、火傷と聞いていたはずなのに、全くその痕は見当たらない。これはいったいどういうことなのだろうか。戸惑うイリオスを前に、父は低い声で言った。


「シオンに仮面で素顔を隠すように命じたのはこの私だ。少なくともこの王都においては、素顔を知られぬ方が都合がいい。この者の素顔を知るのは、この先はそなたのみであろう。たとえ妻や兄弟、親族であっても、他の者に素顔を見せてはならぬのだ」

「父上…それは、いったい…?」

「そのほうが都合が良い。任務を遂行するに当たってのな」

「任務…?」


イリオスの問いを遮るように、マルクスは続けた。


「イリオス。そなたは国の安寧を維持するために、最も重要なことは何かわかるか?」


唐突に投げかけられたそれに、イリオスは息を飲む。しかし、答えを違えることを恐れず、彼は間髪容れずに答えた。


「産業を発展させ、軍事力を高めることです」

「うむ…悪くはないが、正しい答えとは言えない」


深く皺の刻まれたマルクスの頬が強張る。いつになく威圧的な眼差しに、イリオスは畏怖にも似た感情を覚えた。


「良いか、イリオス。この国を平和に保ち続けたいのなら、正しく敵を把握することが何よりも重要なのだ」


それは予想もしない言葉だった。目を大きく見開いたイリオスに、マルクスは不気味なほどの仄暗い笑みを浮かべる。こんな父の顔は見たことがなかった。


「この国は長い歴史上、様々な危機に晒されてきた。他国の侵攻にも何とか抗い、この広い国土を守ってきたのだ。しかし、最も脅威となったのは何だと思うか?それは、内なる勢力だ」

「内なる、勢力?」

「つまりは王家に反感を持つ勢力。この国において、謀反を企てる貴族や民がいつの時代も必ずどこかに存在するのだ。外から攻められることよりも、内側を少しずつ蝕まれることの方が国にとってははるかに脅威なのだ。それらが存在する限り、他国の侵攻にも対抗できなくなる。だからこそ、不穏な動きをする者や、水面下で国に異を唱える者――そのような者たちは皆、力を付けるまえにその芽を摘んでしまわねばならぬ」

「父上、もしやそれは…」

「全てはこの国の平穏のため。そして王家を守るため。良いか、イリオス。我々が国王陛下に代わり、制裁を下すのだ。陛下の御手を汚すことなく、我がエミール家の当主たちが血塗られた十字を背負い続けてきた。それこそがこのエミール家の正義。陛下への忠誠の証なのだ」


イリオスは身震いした。想像を絶するエミール家の事実に驚愕し、そして生まれて初めて、父を恐ろしいと思った。エミール家の当主となる者は、選ばれし者。人並み外れた能力を見出された者しかこの家を継ぐことができない。その本当の理由が今、ようやくわかった気がした。

自分はひどく恐ろしい領域に足を踏み入れようとしているのではないか。そんな恐怖が頭をよぎり、足がガクガクと震えた。しかし、何とか平然を装い、無意識の自分の頭が必死にその事実を受け止めようとしている。それは自分が築いてきた誇りがそうさせているのかもしれない。私はエミール家の当主となる。何事にも動じず、恐れず、全てを淡々と受け入れる強さを持っている。そう、どんな事実を突きつけられたとしても、しっかりとこの胸に受け止め引き継がなければならない。今さら引き返すことなどできないのだ。恐れていてはいけない――イリオスはそう、自分に言い聞かせた。


「案ずるな、イリオス。今は辛いだろうが、次第に受け入れられる日が来る。我々の使命はわかっておるだろう?」

「……この国の平和を守り、王家に忠誠を尽くすことです」


物心ついた頃から幾度となく擦りこまれてきた言葉が、自分の意など気にせず唇から零れ落ちていく。そう、これこそが正義であり、迷った時の絶対的指針。何も間違ってなどいない。決して。


「良いか、イリオス。これは決して口外してはならぬ。どんなに近しい者でも。無論、家族でも、愛する者であってもだ。国王陛下ご自身さえも知ることがない事実なのだ。何かよからぬことがあっても、それが陛下の御身を守る盾になる。その胸の中にしかと刻み込め。そして次に誰かに語る時があるとすれば、それはおまえが次の当主に選んだ者に家督を譲ると決めた時だ」


父の言葉が、ずっしりと重くのしかかる。有無を言わせず背負わされた十字に、押し潰されてしまうのではないかとさえ思えてくる。一度これを背負ってしまったら、次にまた当主となる誰かに背負わせることになるのだ。それを思うと、父から譲り受けたこの秘事がどれほど大きなものかを思い知らされる。この重みを父も背負ってきたのだろうか。自分は潰されずに、背負い続けることができるだろか。仰ぎ見た父の顔は、普段とは全く違う。まるで感情を押し殺した、鬼のような表情をしていた。

ああ…そうか。これは修羅の道だ。私は、人間らしい感情を捨て、心を鬼にし、この十字を背負い続けていかねばならない道を歩もうとしているのか。


「父上、今はっきりと理解しました。暗殺者として名高い<黒薔薇>の正体が、何なのかを」


数年前、国中を恐怖に陥れた暗殺者、黒薔薇。国への反逆を企てた者が次々と死んでいったため、その存在は王家の番犬だと噂されていた。そう、国に脅威を与える芽を摘む。それが静かで華麗な暗殺者の役割。<黒薔薇>の正体は、このエミール家だったのだ。


何もかもを悟ったイリオスの側に、歩み寄ったのはシオンだった。仮面の下に隠されていたその素顔は蒼白としていた。そう、まるで死神のように。


「わが主、イリオス様。これよりあなたのめいに従い、私が手を下します」

「シオン、おまえはまさか…」


言いかけたイリオスを遮り、マルクスが淡々と告げた。


「イリオス。このシオンは与えられた任務を一度たりとも失敗させたことがない。やれと言えば、確実にやり遂げることができる、このエミール家の至宝なのだ。私が当主を退いた後は、おまえがこのシオンに命じるのだ。良いな?」


エミール家の至宝?このシオンが?この男が、表向きはエミール家の家例でありながら、暗殺者という恐ろしい裏の顔を隠し持っているのか。そう思うと、恐ろしくてならない。家令だとばかり思っていたこの男が、その手で多くの人間を殺めていたなんて。

ああ…だから、仮面で素顔を隠しているのか。本当は暗殺者なのだという、裏の顔を知られてはならないから。


「あなたが国王陛下に絶対なる忠誠を誓うように、私もあなたに誓います。共に十字を背負い、使命を全うすると」


シオンは声高にそう言って、自らの命を刻む心臓に手を当てた。そんな彼のことを、イリオスは憐れだと思わずにはいられなかった。父に仕え、課せられた暗殺という使命を胸に、自分の人生を捧げ続けてきた。そしてこれからも、このエミール家のために。いや、この国のためにその手を汚し続けるのか…。しかし、彼の瞳には迷いなど一切ない。あるのは誇りのみ。それは父も同じだった。


イリオスは背負わなければならない十字の重みに、自分の運命を呪いたくなった。


これが、エミール家の隠された真実。そして、この平和な国の紛うことなき真の姿なのだ。


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