募るイリオスの思い
フローラ王女と近衛連隊がレジーヌの地を去ったのは、予定よりもかなり早い時期だった。過ごしやすい避暑地での静養を楽しみにしていた王女は少し残念がっていたが、やはり安全には代えられない。危険な目に遭わせてしまったロザリーは悔やんではいたが、思いのほか王女の立ち直りが早かったのが救いだった。
しかし、ロザリーには気がかりなことがあった。
『のどかな片田舎の地方の出で、あれだけの武術をどのように得たのか不思議でなりません』
イリオスが放った言葉だ。ジルダの強さに感服しながらも、どこか妙な感じを抱いているようだった。
今になって思い出す。盗賊に襲われた時は気が動転していたし、何より王女を守るのに必死だったが。落ち着きを取り戻した今、次第に記憶が蘇っていく。自分の目の前で、あの男はたった一人で盗賊たちを倒したのだ。それもほんのわずかな時間で。
そう、ロザリーには分かっていた。彼女もまた剣を握る者だ。現在の士官学校での訓練で、あのように多数の人間を一人で相手にすることなどほとんどないのだ。あれはまともに訓練を積んで得た強さではない。長らく戦争のないこの国で、あれほどの腕をいったいどう磨いたというのだろうか。そう。あれはまさに、殺人術だった。
ジルダ・バシュレーとは、いったい何者なのだろうか――ロザリーはこの時初めて、己の副官について疑念を抱いたのだった。
そして同時に、その疑念をいっそう深くしたのはアーロンだった。
「成程…。そんなことがあったのか」
休暇日にアーロンの城を訪れていたイリオスは、レジーヌの町での襲撃の事を彼に事細かに話した。どうせロザリーと親密にしているアーロンのことだから、隠していても仕方がないこと。それに、イリオスはアーロンを信頼できる人物だと見ていた。基本的に優しくておっとりとしているが、交友関係が広くて国に対する忠誠心が強い。何より思慮深くて思いやりのある人間だからこそ、これから自分の将来を見据えて、仲を深めておきたい人物の一人だと思っていた。
「それで…。その後のロザリーの様子が聞きたくて、ここに来たんだよね?」
あっさりと自分の意図をアーロンに見破られてしまったイリオスは、少し困ったように頭を掻いた。あれからロザリーとはあまり会う機会がなく、どんな様子で気になっていたのだが。わざわざ訪ねて行くのも憚られることだし…と、困っていたのだが。幼馴染だというアーロンならば彼女に頻繁に会っているだろうと思い、彼を訪ねて来たのだ。
「残念ながら最近はあまり会ってないんだよ」
「そうか…。なら、いいんだ」
「気になるなら会いに行ってはどうだい?」
「……それは、遠慮しておくよ」
意外にも消極的なイリオスの態度に、アーロンは驚きつつも微笑ましく思った。
「イリオス、君はロザリーをとても気に入っているようだね。女性として」
アーロンの指摘に、イリオスはつい目を泳がせた。いつも爽やかで落ち付いている男が、珍しく照れている。そんな様子が可笑しく、アーロンは声を上げて笑った。
「いいんだよ、隠さなくたって。ロザリーは魅力的な女性だからね」
「…そうだね。正直に言うと、かなり気に入ってる。たぶん…最初に会った時から、惹かれていた」
イリオスは恥ずかしげにそう言って、アーロンに笑みを向けた。そう。最初から美しく聡明な女性だと感じていた。それだけでなく、心の強さも思いやりもある。素敵な女性だと思うと同時に、自分の妻として迎えるならば彼女しかいないと冷静に考えもした。
「それならば僕は全面的に協力するよ。僕にとってロザリーは大切な幼馴染みで、本当の妹のようにも思っている。イリオスなら、彼女を必ず幸せにしてくれると確信しているよ」
アーロンは身を乗り出して、声高にそう言った。イリオスがロザリーに恋心を抱いてくれて良かった。いや、そうなればいいと期待して、彼女と引き合わせたんだ。この輝かしく秀抜で高徳たる男ならば、気難しいロザリーとの間に絆を結べるだろう。二人が一緒になればこれほど素晴らしいことはない。彼女に悪い虫が付く前に、何としてでも恋仲になってほしかった。
「けれど、彼女はどうも誰か好きな男がいるようだね」
「……えっ?」
まさか…――アーロンは言葉を失った。
「それは…いったい、誰を?」
「誰かはわからないが、何となくそんな感じがするんだ」
アーロンの表情が途端に険しくなった。まさか、とは思うが。ロザリーは本気であの副官を好きになったのだろうか…。あの男とロザリーの間に、“何か”が起こったことはわかっている。もちろんそれはあの男が仕掛けたことで、ロザリーが本気であんな男を相手にするわけないと思っていたのだが…。
そう考えたところで、アーロンは鋭い目をイリオスに向けた。
「イリオス、君はあのジルダ・バシュレーについてどう思う?」
突然のアーロンの言葉に、イリオスはハッと顔を上げた。なぜ唐突にその名を?――と思ったが、アーロンの顔を見た瞬間に理解した。彼は少なくとも自分と同じ印象を、バシュレー副官に対して抱いているのだろうことを。
「そうだね…。レジーヌでの一件があって、ますます興味が湧いたといったところかな。彼の強さは普通の人間を超越している。どんな人生を生きてきたのか、大いに気になるよ」
「それだけ?」
随分とオブラートに包んだな、と思った。いや、もしかしたら自分ほど嫌悪はしていないのだろう。イリオスという男の考え方は、世間一般の常識に必ずしも左右されない。どこの馬の骨ともわからぬ人間でも、有能であると認めれば分け隔てなく接することだろう。
「イリオス。君に見てもらいたいものがある」
アーロンは徐に執事を呼び寄せ、何やら紙の束を持ってこさせた。それを受け取ったイリオスは、ハッと目を丸くした。
「これは?」
「ジルダ・バシュレーについての調査書だよ」
平然と言ってみせたアーロンに、イリオスは驚きを隠せなかった。
「なぜ、彼のことを?」
「率直に言うと、どうしても気にかかっていた。地方の子爵家の出身の者が、いったいどうやって近衛連隊にまで登り詰めたのかと不思議で。彼が本当に近衛連隊の副官にふさわしい人物か、どうしても知りたくなったんだ」
不可解なアーロンの言い分に、イリオスは眉をひそめた。確かに、あの只ならぬ強さには不穏なものを感じるが…。このように調べるほどとは、いったい何がアーロンをそうさえているのかと不思議に思いながら、書類に目を通し始めた。
ジルダ・バシュレー。古くから北の領地を統べるカルディア伯爵家に仕える、バシュレー子爵家の養子。バシュレー家が主に治めるアレーヌの町に生まれ、養子になったのは彼が12歳の頃だった。元はバシュレー家に使える騎士の息子だったが、早くに両親を亡くしている。その後どういう経緯で子爵家の養子となったのかは不明だが、間もなく当主である義父が何らかの理由で亡くなり、家督を継いでバシュレー家の若き当主となる。その後はバシュレー家の私設部隊を育成し、アレーヌ付近の盗賊や反国家勢力の討伐に精力的に取り組む。さらに衛兵隊の特殊部隊の騎士として活躍し、その功績が認められて王都に呼ばれた。
――随分と簡素な調査書だ、とイリオスは思った。そんな彼の考えていることを読み取ったのか、すかさずアーロンが口を開く。
「それくらいの情報しか得られなかったんだ」
「えっ?」
「もっと踏み込んで調べたいことはあったが、どれほど調べようと試みてもなぜかその情報源には辿りつかない。何らかの大きな圧力がかかっているとしか思えないんだ」
「圧力、だって…?」
「ああ。もしかしたら、彼には大きな後ろ盾があるのかもしれない」
しかし…とイリオスは思った。グランツ家のアーロンを以てまで、情報を得られない人物だとは思えなかったのだ。いったいどんな後ろ盾があるというのだろうか。地方の子爵家の若き当主に。
「イリオス。バシュレー家が仕えるカルディア家は、確かエミール家の分家だったよね?」
「その通りだよ。つい最近もカルディアの治める領地へ視察に行ったところだ。ただ、アレーヌには立ちよったことはない。あのような片田舎には、わざわざ赴く用事もないし…。バシュレー家とも直接的な関わりはないからね」
イリオスの言葉に、アーロンは諦めたように息を吐いた。
「私としては、こうやって秘密裏に調べるのはあまり好きな手法ではないが…。アーロンがそこまでして知りたいというのなら、私の方でも調べてみるよ」
「ああ…。頼むよ、イリオス。本音を言うと、僕はロザリーが心配なんだ。あの副官のロザリーへの執着ぶりには目に余る所がある。大切な幼馴染みのためだ。良からぬ事が起こる前に、何とかしたい。イリオス。僕は誰よりも君が、ロザリーにふさわしいと思っている」
頑なまでのアーロンの思いに、イリオスは全てが腑に落ちた気がした。
そういうことだったのか…。アーロンの危惧する所が理解できた。確かにバシュレー副官のロザリーへの心酔ぶりには驚かされた。彼がロザリーに手を出す前に、とアーロンは考えているのだろう。無論、私としては、思い合う男女に傍から口を出すべきではないと思っている。しかし、ロザリーの事となると事情が違う。自分だって彼女が欲しいのだ。その気持ちは日を追うごとに大きくなっている。誰に遠慮することもしたくはない。……それに。あの副官については、見過ごすことができないほど、不可解な点が多過ぎる。
「わかった。私にとってもロザリー殿は大切な女性だ。最善を尽くそう」
やっと見つけた将来の伴侶だ。簡単に諦めたくはない――イリオスはそう、固く決意した。




