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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第二章
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心の底に眠る願望

「あの…すけこましがっ!」


渡り廊下に響いた唸り声と、ガラスが割れる甲高い音。廊下の壁を彩るガラス細工が、腹いせに剣で切り付けられて無残にも粉々に散らばってしまっていた。別に美しいものに罪はないのだが、ついカッとなると見境が付かなくなる。自分の気性の荒さを呪いながら、ロザリーは長いため息を吐いた。


「あらあら、どうしたっていうの?ロザリーったら」

「フ…フローラ様!」


突然現れた王女の姿に、ロザリーは思わず声を上げた。まさかこんな所を目撃されてしまうとは…。恥ずかしさとばつの悪さにたまらず俯き、頭を垂れたロザリー。しかし、王女はむしろそんな状況を楽しんでいるかのようだった。


「申し訳ございません、お見苦しいところを…。すぐに片付けます」

「いいわよ。侍女に片付けさせるわ。でも、驚いた。なかなかバシュレー副官を連れてきてくれないから、何をしてるのかと探しに来てみれば…」

「も…申し訳ございません」

「珍しいわね、そんな風にあなたが物に当たるなんて。よほど腹が立つことがあったのかしら」

「………」

「まぁ、いいわ。バシュレー副官とのダンスはまた今度に取っておきましょう」


顔をしかめて黙ってしまったロザリーに、王女は困ったように笑いながら去って行った。仕方ないだろう。さっきのような状況で、バシュレーに話しかけることなどできるわけもない。


「……というか、顔も見たくない。あんな大嘘つきの色狂い!」


たまらず大声で叫んだその時だった。


「大嘘つきの、色狂い?それは一体、誰のことです?」


冷淡なその声に、ギクリと体を強張らせた。まさか、と思いながらもおそるおそる振り返る。そんなロザリーの目に映ったのは紛れもなく、涼しげな顔でこちらを見据えるジルダの姿だった。


「バ…バシュレー?」


振り返ってはみたものの、やはり目を合わすことができない。どうしてもさっきの光景を思い出し、顔が熱くなってしまう。しかし、あんな如何わしいことをしていたのにも関わらず、なぜこうも平然と現れることができるのだろう。まるで何もなかったような澄ました顔だ。しかも、着衣に少しの乱れもない抜かりなさ。よくもまぁ、上手くやれることだ。


「お…王女殿下が、おまえを探していたぞ。さっさと行ってさしあげろ」


今は話したくもないし、顔も合わせたくない。そんな心の内を表すように、ロザリーは顔を背けたままジルダに言う。しかし、ジルダは黙ったまま動こうとしない。感情のない灰色の瞳が、じっとこちらを見つめたままだ。


「……バシュレー?」


ロザリーが眉をひそめたその時だった。王女の元へと行くのかと思えば、あろうことか、ジルダがこちらに歩み寄ってくるではないか。慌てて後ずさりをするが、狙いすましたようにジルダは彼女を渡り廊下の壁へと追いやり、そして囲い込むように彼女の背を壁に押し付けた。


「目も合わせてくださらないのですね。まだお怒りなのですか?」

「……は?」

「最近、ずっと私を避けておいででしょう?」

「はっ…離せ!おまえの顔なんて見たくない!」

「落ち着いてください、隊長。このような状態が続くと任務にも影響します」

「黙れ!この色狂いめ!」


宥めるように淡々と言ってのけるこの男が、腹立たしくてならなかった。ロザリーはジルダを押し退けようと、広い胸を力いっぱい押す。しかし、ジルダはそんな彼女を冷ややかな目で見下ろしながら問うた。


「色狂いとは、どういう意味ですか?」

「はっ…とぼけても全部お見通しだぞ!ついさっきも、あのクリスティーナというご令嬢とお楽しみだっただろう?」

「……おや。覗いておいでだったのですか。隊長」


ロザリーの言葉を待ち構えていたかのように、ニヤリと黒い笑みを見せたジルダ。ロザリーはハッとした。もしかして、この男。見られていたことに気付いていたのか?私が見ているのをわかっていて、あんな……


「最低だ!」


馬鹿にされた。私が腹を立てるのをわかっていて、楽しんでいるのか――ロザリーはグッと歯を食いしばり、思い切り力を込めてジルダの胸を押した。わずかに体が離れたその隙に、ジルダの腕の中から逃れる。しかし、ほっとしたのも束の間。逃さないとばかりに、ジルダの手がロザリーの腕を掴んだ。


「離せ!おまえなど大嫌いだ!」


なりふり構わず叫んだ。腹立たしくてたまらない。だが、怒りに狂うロザリーに相反し、ジルダは至極心地良さそうに冷笑を浮かべる。その笑みの黒さは、不気味なくらいだった。


「私は大好きですよ。あなたのその目。憎しみや怒りが込められたその目が。あなたの感情の全てが私に向けられているのだと思うと、ゾクゾクしてなりません」


ロザリーは薄気味悪さに戦慄した。この男はいったい何を考えているのだ?自分で何を言っているのかわかっているのだろうか。とっさに体を強張らせたロザリーだが、ジルダは掴んだ手に力を入れ、彼女の華奢な体を軽やかに抱き寄せた。


「そういうのを嫉妬というのですよ、隊長」

「嫉妬など…していない!」

「ではなぜそこまでお怒りに?私が誰と何をしようが、あなたには関係のないことでしょうに」

「それはっ…」


それを言われると、何も言えなくなる。自分でもわかっていることだ。でも、認めたくない。わかっていながら、認めたくはなかった。いや、認めれば全てこの男の思う通りになる気がして、怖かった。


「ロザリー様」

「や、やめろ。気安く名前で呼ぶな!私はおまえなど……」

「ロザリー様、申し上げたでしょう。私はあなたの下僕だと」


ただ自分の名前を呼ばれた。それだけのこと。それなのに、どうしてだろう。この男の発する声でその名を呼ばれると、その甘美な響きが胸を刺激する。高鳴り始めた鼓動が止まらない。


「あなたへ捧げた忠誠こそ、私の全て。他の誰にもひざまずくつもりはございません。あなたが望むことなら全て従いましょう。あなたが他の女に触れてくれるなとお望みならば。他の女に目をくれるなとお望みならば、約束しましょう。あなただけを見つめると」

「なっ…!?私はそんなこと…!」

「どうかお命じください。あなたが心からそれを願うなら」


ロザリーの前に膝を折り、そっとその手を取り口付ける。まさに下僕さながら忠誠の証を印すその姿に、ひどく心が揺れた。


私は…望んでいるのだろうか。この男に、自分だけを見てほしいと。


自分でも気付いてはいた。この男に知らぬ間に魅了され、惹かれていたことを。だからこそ、無理矢理に辱められても拒絶できなかった。むしろ体はあの男を甘んじて受け入れていたんだ。そうじゃないんだと、必死に気付かないフリをしていただけだ。


けれど、気付いていても認めたくはなかった。認めてしまえば、今までの自分の全てを否定することになるから。

何のために今まで、必死に頑張ってきたのか。親に逆らい、恥をかかせ、周りにいる人を悲しませてまで軍人として生きる道を選び、自分の意思を押し通してきた。男よりも努力して、死に物狂いでやってきたんだ。女としての幸せな人生など、とうの昔に捨ててきた。そうすることで、自分が自分らしくいられたはずだった。

それが今さら全て覆らされるなんて。今までの自分の努力はいったい何だったのか。私は今まで、ずっと間違っていたのだろうか。ただ片意地を張って生きてきただけなのだろうか。本当はこの男が言うように、心の底では誰かに守られたい、愛されたいと思っていたのだろうか。私は私を偽って、生きてきただけなのだろうか――この男を前にすると、何もかもわからなくなる。わからなくなるんだ…!


「私はそんなこと願ってなどいない。私は女である前に、近衛連隊の総指揮官だ。軍人としての人生が私の全て。おまえが誰と何をしようが、私には一切何も関係ないことだ」


ロザリーは跪くジルダを頭上からきつく睨みつけ、言い放った。なぜか声が震えてしまうのを、必死に隠した。この男の全部見透かしたような鋭い眼差しが怖くて、背を向け、そして逃げるように走り去った。そうしなければ、心の底に眠る自分も知らない願望を、あの瞳に見透かされてしまいそうで怖かったのだ。


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