8-5 愛してる
嫌だ。違う、違うって言って。
私はなんのためにここに来て……ここでレイと戦ったの?
私に残された、最後の拠り所が――
「泣いているのですか?」
ハンスの声に、肩がびくんと震えた。
やめて。来ないで。
私の黒く染まりきった魂を――見ないで。
「好きですよ」
違う。お願い、どこかへ行って。
優しくしないで。
「リア。どうでしたか? 私のプレゼントは」
最悪だよ。
世界で一番、最悪だよ?
誇ってよ。一番だよ。早く、早く、私を殺し――
ハンスが私を抱きしめていた。
「愛しています」
私の中で、何かが壊れる音がした。
♢
こんなにも暴力的な言葉だったのだろうか。
私が聞いてきた、言ってきた、愛の言葉は、こんなにも――重かったのだろうか。
何が起きたんだろう?
気が付いた時には、私は知らない部屋にいた。
本棚や、フラスコが置いてあって、革張りのソファが私の体重を受け止めている。
目の前には、湯気が出ている温かそうな飲み物が置いてある。
私はそれを手に取って、口に入れた。
甘い。ココアだ。
「リア。今日は何をしますか? あなたが好きなゲームも、お菓子もありますよ」
まるで、私がずっとここで生活していたように、優しい声の主がやってきた。
私は一体……誰?
「ハンスさん。私、何か忘れている気がします」
「思い出す必要がありますか?」
ハンスは私の隣に座ると、頬に手を添えて私を引き寄せ、優しく口づけた。
初めてではないはずなのに、恥ずかしくてハンスの胸を少しだけ押して抵抗した。
すると、ハンスは私の腕を掴んでさらに口付けをしてきた。
「痛っ」
唇を噛まれたようだ。
手で触れると血が出ていた。
ハンスは私の手についた血を舐めて、微笑む。
何事もなかったみたいな顔で、ハンスは言った。
「挙式はいつがいいですか?」
「え……?」
「嫌ですか?」
ハンスが私の手のひらをハンスの心臓に押し当てた。
心地いい鼓動が手のひらから伝わってくる。
嫌じゃないのかも、しれない。
「よくわかりません。私は……」
恋をしたことがない。
結婚は恋愛して、付き合って、好きな人とするもの。
「どうすれば恋ができるのでしょうか……」
「ああ、リア。既にあなたは恋をしていたのですよ。そうでしょう? これほどまでに私を追い詰めておいて……」
首を横に振って悲しそうな顔をしたハンスの胸に私は頭を預ける。
この人は、きっと寂しい思いをしてきたのだろう。
「ごめんなさい。気付かなくて……そばにいますから、そんな顔はやめてください……」
息を呑む音がした。
「あなたの口からそのような慰め……」
ハンスは私の両腕を掴んで押し倒した。
苦痛に歪んだ顔が目に入る。
「壊れないと、そうおっしゃっていたではありませんか」
ハンスの指に力が入った。
「あなたが私を信じたように、私もあなたを信じていた。私たちの愛は……この程度のものだったと言うつもりですか?」
悲痛な叫びだった。
愛が、体を突き刺さして引き裂いていくような。
私はハンスの心の一番柔らかい場所に触れている。
手を伸ばした。
ハンスの頬に触れ、孤独に揺れる彼の目を見た。
見たことのある瞳。私が彼に追いつきたかった理由。
「壊れて……ない」
私は誰?
柳瀬莉愛?
違う、もうその名前はいらない。
私は――
「私の名前はアリアーデ」
♢♢♢
彼女が泣いていた。
怯える彼女に、好きだと言った。
彼女の覚悟に対するプレゼントは、上手くいっただろうか?
肩を震わせ拒絶する彼女に、愛の告白をした。
――悲願のはずだった。
彼女の心を犯し尽くして、堕ちて、壊して。
生まれて初めて心が満たされた。
「ハハ、アハハハハ!」
全てが叶った。
抱きしめた彼女は何も言わず、心がどこにもいなかった。
「レイ、お疲れ様でした。……あんな嘘に、騙されるとは」
……。
パチン。
目覚めないレイをクランツェフトに送った。
「なぜ……」
実にあっけなかった。
いつものように、怒ってくれると思っていた。
魔王城の玉座の間には、紫陽花が咲いていた。
白い色の、小さな花弁。
目の前の魂は既に黒く染まっていた。
そうすれば、この手に取っても痛くないだろうと。
私がそうしたのだから、それで合っているはずだった。
レガリウス皇城に戻り、アリアーデを寝室に寝かせる。
しばらくして彼女が目を覚ましたと言うのに、彼女は何も覚えていなかった。
毎日、毎日、偽りの生活を営み、まるで児戯のようだ。
過ぎ去る日々が積み重なる度に、疲労を感じていく。
ある日、彼女が話しかけてきた。
私は彼女が嫌がるように話を進めた。
そうすれば、また元の彼女に戻るような気がして。
それだと言うのに、彼女は私の全てを受け入れてしまった。仄かな喜びと共に、絶望が胸を埋め尽くした。
だからだろうか。
壊してしまった彼女に弱音を零してしまったのは。
「ハンス」
名前を呼んだ彼女の瞳は、私を映していた。
「アリアーデ」
彼女の名前を呼ぶ。
もう二度と失わないように。




