■第61話 震える両手で
耳に聴こえたその声に、イツキは慌てて振り返る。
そこにはミコトが佇んでいた。
両腕を上げて気持ち良さそうにグンと伸びをして、その華奢な姿は小さく
微笑む。
『毎回こんなに早起きするの、大変だったでしょ・・・。』
イツキは手に掴んだままの茶封筒を咄嗟に離して、なんて誤魔化そうか
今日はたまたま早く来ただけを装おうか、混乱する頭で色々考えてみる
もののワナワナと震える喉が、手が、脚が、まったく自由が利かずただ
ただ無言でその場に立ち尽くす。
押し潰されそうな重い空気に顔面蒼白のイツキとは対照的に、ミコトは
教室の窓から差し込む朝陽に眩しそうに目を細めて、上機嫌な様子で朝の
空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。
気付かれないはずはない、イツキの早朝のこの行動の意味。
イツキはぎゅっと口をつぐみ、足元に目を落とした。
最後の最後、今回でもう終わりにしようとしたそのタイミングで、結局
ミコトに嘘がバレてしまった。 責めるでもなじるでも無い、なにも気に
していない様なミコトの様子に、逆にイツキの罪悪感はむくむくと膨れ上
がり張り裂けそうなその胸を締め付ける。
『・・・ご、ごめん・・・。』
イツキが震える声で、呟いた。
『オレ・・・
ずっと、嘘、ついてた・・・
・・・騙してた・・・ お前の、こと・・・。』
すると眩しそうに目を細めて窓の外を見ていたミコトが、イツキにゆっくり
目を向ける。 『 ”騙してた ”って・・・ なにが?』 抑揚のない声で
呟いて小首を傾げ。
『・・・ガ、ガッカリ・・・ した、ろ・・・?
だって、お前・・・
お前の。 描いてた作者の、理想像・・・ ゼンゼン違うだろ・・・
ガッカリさせんの申し訳なくて・・・
・・・いや、コレはただの言い訳に聞こえるだろうけど・・・
い、言い訳なんだけど・・・
・・・オレ・・・。』
今にも泣き出しそうな顔をして、俯くイツキ。
耳が真っ赤に染まり、強く噛み締めた奥歯が健康的に引き締まった頬を
みるみる引き攣らせてゆく。
ショックなはずのミコトがなにも気にしていないかの様に振舞ってくれて
いるのが申し訳なくて居た堪れなくて、こんな事なら最初から物語なんか
書かなければ良かったと、イツキは伏せたままの顔を情けなくしかめる。
すると、
『ビックリはしたけど、ガッカリなんてしなかったよ。』
ミコトのその囁くようなひと言に、イツキは弱々しく視線を上げた。
そして、自信なげにミコトを見つめる。
肩をすくめクスっと小さく笑ってイツキの方へとゆっくり、しかし確かな
足取りでミコトが向かって来る。 机と机の間を進み、こちらに近付いて
来る小さな足音が無性に怖く感じて無意識にイツキの肩に力が入った。
『ごめんね。
アタシ、随分前に気付いてたの・・・
気付いてたのに、気付かないフリしてたの。
きっと・・・
アタシが気付いてるの分かったら、アンタ、書きづらいと思ったし。
それに・・・』
ミコトがイツキの目の前に立ち、少し顎を上げてまっすぐ視線を合わせ
そして哀しそうに眉根をひそめ目を逸らした。
『それに・・・
もう・・・ 書いてくれなくなると思ったから・・・。』
そう呟くと、ミコトはイツキの右手を震える小さな両手で掴んだ。
そしてそっと目の高さに持ち上げ、じっと見つめる。
『ペンダコ・・・
また、酷くなってるじゃない・・・。』
イツキの右手中指には、痛々しいほど膨れ上がり変形したペンダコが
あった。 第一関節と爪の丁度中間くらいの所に赤々と突出したそれ。
ミコトは一瞬それに指先で触れてみようか迷うも、痛そうで怖くて、
なんだか哀しくなって止め、大切に守るように包み込んだ。
その大きな不器用なゴツい手は、あたたかくて、やさしくて、ミコトの
小さな心臓を有無を言わさず鷲掴む。
その時、はじめてミコトの手に触れられて、ダイレクトにその温度を
感じてイツキの右手もまた恥ずかしいくらいに震えた。
ミコトは更に力を込めてその大きくて不器用な手をぎゅっと握り締めると
祈るように自分の額に当て、なんだか苦しそうに顔を歪めて目を伏せた。
『アタシの、ため、に・・・
アタシに・・・ 読ませるため、だけ、に・・・
・・・がんばって、書いてくれたんだ、よね・・・?』
心臓が肥大して、風船みたいに宙に浮いて、所定の位置から喉元まで
上がってきたのかと思う程、その打ち付ける鼓動は大音響で直接耳に
頭に響き渡る。
水中で溺れ足掻いているみたいに、普通に息が出来なくて苦しくて。
ふたり、まったく同じ顔をして立ち竦んでいた。
泣き出す3秒前のこどもの様な不安げな顔で、互いを見つめていた。




