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彼女は黒くて毛深くて  作者: あしかが
8/13

第1話 空き家で冒険 1

【ゆら】


 わふわふ。

 くんかくんかくんか。

 わふわふ♡


「‥‥分かりやすすぎるでしょ」

 香坂こうさか先輩からわたしが犬のお散歩セットを贈られた日(つまりわたしが先輩にぐーぱんちした日)の夜である。

 わたしは自宅の二階にある自分の部屋で、ローテーブルに向かって明日の授業の予習をしていた。別に真面目だからではない。無趣味で遊ぶ相手がいなくて、学校の偏差値で背伸びしてたらこうなるのです。

 ここは気候が温暖な地域だけど、まだ四月。日没後はそれなりに冷え込む。寝巻に使っている、焦茶色の厚めのパイル地のワンピースにどてらを羽織って、毛糸のソックスとひざ掛けを装備してシャープペンシルを握るわたしの傍らで、黒いデカい犬が腹這いになって、前脚の間に抱え込んだ小さなトートバッグの匂いを楽しげに嗅いだり、シャベルをかじってみたりしている。


 感覚を共有しているわたしの口が、試合後のボクサー並に鉄の味でいっぱいだからやめろ。

 出会って、褒められて、プレゼントを貰ってお気に入り。


 ‥‥チョロイン気取りか!


「言っとくけどあんたが舐めてるシャベル(それ)、先輩はあんたの糞をすくわせるつもりでわたしに贈ったんだからね」

 ちなみに、今わたしの右脚からでろんと体の前半分を出しているこの犬は、いっさい飲み食いをしないし排泄もしない。でなかったら、いくらなんでも一緒に暮らす家族の目から、ビッグサイズの秘密を隠し通せない。

 ペットがいないはずの部屋にドッグフードと犬用のトイレだけ置いてあるなんて、怪しすぎるでしょ。

 ただ抜け毛はあるので、部屋のカーペットに念入りにコロコロをかけるのは、もはや毎日の習慣となっている。


 ふんっ、と鼻を鳴らし、うらやましいのかとでも言いたげにじろりとこちらを見る犬。

 わーむかつく~!

 コイツほんとにどうしてくれようかと思っていたわたし(の、犬)の耳に、妙な音が届いたのはその時だった。


 わたしの家は、南に海岸線を持つデルタ地形に築かれた町の、北寄りの郊外にある。

 周囲はほとんど木立と畑と田んぼで、夏の夜はカエルの鳴き声が凄い。

 街灯はまばらで、家同士はかなり離れている。花伏はなぶせ家のお隣は、百メートルほど先にある山戌(やまい)さんのお宅だ。


 山戌さん一家は三世代が同居していて、農業をしているお爺ちゃんとお婆ちゃん、サラリーマンの旦那さんとパート勤務の奥さん、小学生の兄妹の六人家族。

 旦那さんの帰宅が遅くなることはたまにあるけれど、この時間帯には大抵もう寝静まっている。

 今しがた聞こえてきたのは、窓のレールをサッシが滑るような音だ。


 犬が出っ放しだったので、この一時間ほどの間、周辺に人や車の出入りがないことは分かっている。

 争いごとの気配も聞いた覚えはないし、ドロボーさんという目はなさそう。でも気になるよね。

 わたしは立ち上がって山戌邸の方角を向いた窓に近づき、レースと遮光、二枚のカーテンをそっとまくった。灯りが付いているこの窓の様子は、遠くからでもはっきり窺えるはずだ。


 うぉう、凄い満月!

 外を覗いて、わたしは驚く。

 日に日に緑が濃くなっていく耕作地交じりの景観が、真っ白な月光で明暗二色にくっきり塗り分けられていた。誇張抜きで、新聞が読めそうな明るさ。

 視線を上げると、天頂よりいくぶん下がった位置で、真円を描くおおきな衛星が冷たい光を地上に降り注いでいる。気圧されてしまうくらいの存在感。

 空気がきれいで市街地の照明もそこそこ遠く、天体観測には好条件な立地だが、今夜ほど豪勢な月光のシャワーは珍しい。

 天文には詳しくないが、もしかしてこれがスーパームーンというものだろうか。


 しばらく呆けていたわたしだが、当初の目的を思い出して、山戌さん宅に意識を向けた。

 山戌さんの家は二階建て。この辺では普通の事だが、車三台が入るガレージがあり建物も大きい。わたしの部屋との間には低木の茂みがあるだけだし、明るいので隅々まで見て取れる。

 庭に面した大きな引き違い窓が開いている。そこからにゅっと手が出てまず地面に靴を置き、次いで白っぽい服の人影が姿を現した。これだけ距離があっても分かる。小さい。


 山戌家の御長男じゃありませんか。

 人懐っこい子で、わたしと道ですれ違うとはきはきした声で挨拶してくれる。小学校の四年生で、名前は確か速太はやたくん。

 その速太くんは、ぶきっちょな仕草で靴を履き窓をそっと閉じて、赤土の上を歩き出した。庭を横切り木々の間に分け入っていく。姿が見えなくなる。

 ‥‥これはちょっと放っておけませんな。お隣のお姉さんとして。

 わたしはカーテンを閉じ、足音を殺して階下に向かった。


 しまった、犬を引っ込めてる時間がない。


     ♦     ♦     ♦     ♦


 幸い、家族に目撃されることはなかった。というか寝てるのを聴覚で確認して行動しました。

 着替える暇もなかったので、わたしの格好は寝巻のワンピースにどてら姿のままだ。速太くんが不整地へ突入したのは見ていたので、足元にはトレッキングブーツを選択した。

 玄関は通らず、お隣さんを見習って居間の窓から静かに外に出る。


 空気が冷たい。

 風にさらされる左脚と、黒犬がくっついている右脚の温度差が変な感じ。

 近所にはまだ起きているひともいるだろう。自分が速太くんの夜間外出を見つけたことに鑑みて、さっさと木陰に入る。満月の光は枝を縫って林の底まで差し込んでいて、影が濃くなりすぎてかえってものが識別しづらいほどだった。

 そして、犬はわたし以上に夜目が効く。共有する視覚は、昼間とほぼ遜色がない。

 ずんずん進んで、最後に彼の姿を見た場所へ着いた。


 犬が地鼻(地面に鼻をくっつけるようにして嗅ぐこと)を使う。

 スタンプを押したように明瞭に、速太くんの匂いが草の上の足跡に残っている。木立の中に踏み分け道があって、それを辿って歩いていったらしい。

 子供っぽい体臭は、僅かな恐怖・緊張・強い高揚のブレンド。慌てている様子はない。あと、多分手ぶら。


 あれれ~?

 お姉さん的にはですね、速太君が家族に隠れてどこかに子猫でも隠していて、夜陰にまぎれて餌をやりに出たのかなー、くらいな予測を立てていたのだが。

 猫缶その他の食物の匂いもないし。用事があって外出したわけじゃない、ってことかな?


 木々の間には空気が滞留していて、匂いが残りやすい。けれど風がない分、今速太くんがどこにいるのかは測りづらい。

 わたしが脚から犬を生やしているところを目撃されると困るので、直接接触するのは避けたい。彼だって、闇から湧いたような真っ黒でデカい犬を連れた女と、いきなり月夜の森で出会いたくはないだろうし。


 静かに呼吸して自前の耳を澄ますと同時に、犬の聴覚に相乗りする。

 耳朶じだが垂れた犬種は、実は音の来た方向を探るのがそれほどうまくない。が、性能に劣るとはいえ高い位置にあるわたしの耳と、合わせて四つのセンサーで捉えれば、精度の高い空間把握が可能になるのだよ。

 頭の中に、音響から再現された周囲の立体的なイメージが構築される。硬い下草が踏まれて折れる音。浅めで早めの息遣い。衣擦れと、ズボンの裾に擦れる葉が立てる響き。

 前方に二百メートルあたりか。速太くんはわたしが今いる木立をもう抜け出して、開けた耕地を移動していた。


 後を追い木々が生えているエリアの端まで来て、茂みにまぎれたまま、わたしは視線を動かす。

 ここらは水田地帯だが、まだ水は張られずに、乾いた土が成長の早い春草を乗せている状態だ。あぜ道に囲まれて四角く整備されたたくさんの区画が、一帯が田んぼだということを示している。

 月光は変わらず煌々と明るく、視界は広い。

 水路に沿って上流から、田の一枚ごとに段差が付いた広い斜面を、速太くんが駆けていた。



 走る、走る。

 校庭のトラックでするような走り方ではなく、去年の稲の切り株などででこぼこな地面の上を、ジグザグに走ったり、ぴょんと跳ねたり。

 駆けずり回る、という言葉そのままの、盲滅法でちょっと乱暴な、仔犬のような疾走だった。

 速太くんは腕をいっぱいに広げ、てーっっと加速して、畦道の側面を飛ぶように登る。

 大きく呼吸しながら、ぐるぐると回る。興奮した子供っぽい笑顔。それが時々、ふっと真顔になって、不可思議なものを見るように乱れた前髪の間から頭上の月と、満月に照らされた景色を見つめている。



 きっと速太くんがいま目にしているのは、月の光がもたらした異界だ。

 夜なのに明るい。それだけのことで、普段見慣れた野山の景色が、いつもとは似て非なるものに変わることがある。

 の光には映らない何かが、つきの輝きの下で世界を満たしているように感じることがある。

 満月に窓越しに呼ばれていると思える瞬間が、今夜彼に訪れたのだろう。そして男の子は、お月様と遊びに出たのだ。


 走り回っていた速太くんが不意に立ち止まった。

 天を仰ぐ。将来さぞイケメンに育つだろうくっきりした顔立ちの、大きな瞳の芯に月が浮かんでいる。するすると冷たい夜気を吸い込むと、わたしが見守る中、

「わお、おおおお─────────んっ!」

 喉いっぱいに、夜空に向かって吠えた。


 途端に近隣の──といっても、数百メートルから一キロほどは離れているが──家々から、時ならぬ飼い犬たちの遠吠えが湧きおこる。

 声にはどれも迫力がある。なにせ猪や鹿が出没する片田舎、屋内犬なんてヤワなものは飼われていないのだ。

 速太くんは嬉しそうに、そして少しだけ狂暴ルナティックに笑って、ふたたび吠え返した。

「わう、わおお─────────ん!」

 子供そのものだった自分の中に、育っていくものを誇示するみたいに。


 ‥‥か、可愛い~っ!


 わたしの方はというと、胸がどきどきして、思わず声が出てしまいそうだった。

 あーもーっ、可愛いぞ速太くんっ!


 きみの″はじめての冒険″に無断で付いてきて、こっそり遠くから覗いたりしてごめん。

 でも、きみのワクドキを、初めて親狼の庇護を離れて原野に出た仔狼みたいな、危なっかしい可愛カッコよさを目撃できて、お姉さんは幸せだよ。

 黙ってお墓まで持っていくから、どうかわたしの記憶にだけ、今夜の出来事を仕舞わせてほしい。

 可愛いなぁっ!


 そうやって勝手にわたしが興奮したりしているうちに、家犬たちとの吠え合いを終えた速太くんは、ふんす、と鼻で息を一つして、改めて歩き出した。

 ‥‥んん? そっちはきみの家の方角じゃないよ?

 おーい?


 彼の一夜の冒険は、これで終幕とはいかないらしい。

 わたしは距離を保ち草木に身を隠しながら、小さな背中を追いかけた。

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