第1話 空き家で冒険 1
【ゆら】
わふわふ。
くんかくんかくんか。
わふわふ♡
「‥‥分かりやすすぎるでしょ」
香坂先輩からわたしが犬のお散歩セットを贈られた日(つまりわたしが先輩にぐーぱんちした日)の夜である。
わたしは自宅の二階にある自分の部屋で、ローテーブルに向かって明日の授業の予習をしていた。別に真面目だからではない。無趣味で遊ぶ相手がいなくて、学校の偏差値で背伸びしてたらこうなるのです。
ここは気候が温暖な地域だけど、まだ四月。日没後はそれなりに冷え込む。寝巻に使っている、焦茶色の厚めのパイル地のワンピースにどてらを羽織って、毛糸のソックスとひざ掛けを装備してシャープペンシルを握るわたしの傍らで、黒いデカい犬が腹這いになって、前脚の間に抱え込んだ小さなトートバッグの匂いを楽しげに嗅いだり、シャベルをかじってみたりしている。
感覚を共有しているわたしの口が、試合後のボクサー並に鉄の味でいっぱいだからやめろ。
出会って、褒められて、プレゼントを貰ってお気に入り。
‥‥チョロイン気取りか!
「言っとくけどあんたが舐めてるシャベル、先輩はあんたの糞を掬わせるつもりでわたしに贈ったんだからね」
ちなみに、今わたしの右脚からでろんと体の前半分を出しているこの犬は、いっさい飲み食いをしないし排泄もしない。でなかったら、いくらなんでも一緒に暮らす家族の目から、ビッグサイズの秘密を隠し通せない。
ペットがいないはずの部屋にドッグフードと犬用のトイレだけ置いてあるなんて、怪しすぎるでしょ。
ただ抜け毛はあるので、部屋のカーペットに念入りにコロコロをかけるのは、もはや毎日の習慣となっている。
ふんっ、と鼻を鳴らし、うらやましいのかとでも言いたげにじろりとこちらを見る犬。
わーむかつく~!
コイツほんとにどうしてくれようかと思っていたわたし(の、犬)の耳に、妙な音が届いたのはその時だった。
わたしの家は、南に海岸線を持つデルタ地形に築かれた町の、北寄りの郊外にある。
周囲はほとんど木立と畑と田んぼで、夏の夜はカエルの鳴き声が凄い。
街灯はまばらで、家同士はかなり離れている。花伏家のお隣は、百メートルほど先にある山戌さんのお宅だ。
山戌さん一家は三世代が同居していて、農業をしているお爺ちゃんとお婆ちゃん、サラリーマンの旦那さんとパート勤務の奥さん、小学生の兄妹の六人家族。
旦那さんの帰宅が遅くなることはたまにあるけれど、この時間帯には大抵もう寝静まっている。
今しがた聞こえてきたのは、窓のレールをサッシが滑るような音だ。
犬が出っ放しだったので、この一時間ほどの間、周辺に人や車の出入りがないことは分かっている。
争いごとの気配も聞いた覚えはないし、ドロボーさんという目はなさそう。でも気になるよね。
わたしは立ち上がって山戌邸の方角を向いた窓に近づき、レースと遮光、二枚のカーテンをそっとまくった。灯りが付いているこの窓の様子は、遠くからでもはっきり窺えるはずだ。
うぉう、凄い満月!
外を覗いて、わたしは驚く。
日に日に緑が濃くなっていく耕作地交じりの景観が、真っ白な月光で明暗二色にくっきり塗り分けられていた。誇張抜きで、新聞が読めそうな明るさ。
視線を上げると、天頂よりいくぶん下がった位置で、真円を描く巨きな衛星が冷たい光を地上に降り注いでいる。気圧されてしまうくらいの存在感。
空気がきれいで市街地の照明もそこそこ遠く、天体観測には好条件な立地だが、今夜ほど豪勢な月光のシャワーは珍しい。
天文には詳しくないが、もしかしてこれがスーパームーンというものだろうか。
しばらく呆けていたわたしだが、当初の目的を思い出して、山戌さん宅に意識を向けた。
山戌さんの家は二階建て。この辺では普通の事だが、車三台が入るガレージがあり建物も大きい。わたしの部屋との間には低木の茂みがあるだけだし、明るいので隅々まで見て取れる。
庭に面した大きな引き違い窓が開いている。そこからにゅっと手が出てまず地面に靴を置き、次いで白っぽい服の人影が姿を現した。これだけ距離があっても分かる。小さい。
山戌家の御長男じゃありませんか。
人懐っこい子で、わたしと道ですれ違うとはきはきした声で挨拶してくれる。小学校の四年生で、名前は確か速太くん。
その速太くんは、ぶきっちょな仕草で靴を履き窓をそっと閉じて、赤土の上を歩き出した。庭を横切り木々の間に分け入っていく。姿が見えなくなる。
‥‥これはちょっと放っておけませんな。お隣のお姉さんとして。
わたしはカーテンを閉じ、足音を殺して階下に向かった。
しまった、犬を引っ込めてる時間がない。
♦ ♦ ♦ ♦
幸い、家族に目撃されることはなかった。というか寝てるのを聴覚で確認して行動しました。
着替える暇もなかったので、わたしの格好は寝巻のワンピースにどてら姿のままだ。速太くんが不整地へ突入したのは見ていたので、足元にはトレッキングブーツを選択した。
玄関は通らず、お隣さんを見習って居間の窓から静かに外に出る。
空気が冷たい。
風にさらされる左脚と、黒犬がくっついている右脚の温度差が変な感じ。
近所にはまだ起きているひともいるだろう。自分が速太くんの夜間外出を見つけたことに鑑みて、さっさと木陰に入る。満月の光は枝を縫って林の底まで差し込んでいて、影が濃くなりすぎて却ってものが識別しづらいほどだった。
そして、犬はわたし以上に夜目が効く。共有する視覚は、昼間とほぼ遜色がない。
ずんずん進んで、最後に彼の姿を見た場所へ着いた。
犬が地鼻(地面に鼻をくっつけるようにして嗅ぐこと)を使う。
スタンプを押したように明瞭に、速太くんの匂いが草の上の足跡に残っている。木立の中に踏み分け道があって、それを辿って歩いていったらしい。
子供っぽい体臭は、僅かな恐怖・緊張・強い高揚のブレンド。慌てている様子はない。あと、多分手ぶら。
あれれ~?
お姉さん的にはですね、速太君が家族に隠れてどこかに子猫でも隠していて、夜陰にまぎれて餌をやりに出たのかなー、くらいな予測を立てていたのだが。
猫缶その他の食物の匂いもないし。用事があって外出したわけじゃない、ってことかな?
木々の間には空気が滞留していて、匂いが残りやすい。けれど風がない分、今速太くんがどこにいるのかは測りづらい。
わたしが脚から犬を生やしているところを目撃されると困るので、直接接触するのは避けたい。彼だって、闇から湧いたような真っ黒でデカい犬を連れた女と、いきなり月夜の森で出会いたくはないだろうし。
静かに呼吸して自前の耳を澄ますと同時に、犬の聴覚に相乗りする。
耳朶が垂れた犬種は、実は音の来た方向を探るのがそれほどうまくない。が、性能に劣るとはいえ高い位置にあるわたしの耳と、合わせて四つのセンサーで捉えれば、精度の高い空間把握が可能になるのだよ。
頭の中に、音響から再現された周囲の立体的なイメージが構築される。硬い下草が踏まれて折れる音。浅めで早めの息遣い。衣擦れと、ズボンの裾に擦れる葉が立てる響き。
前方に二百メートルあたりか。速太くんはわたしが今いる木立をもう抜け出して、開けた耕地を移動していた。
後を追い木々が生えているエリアの端まで来て、茂みにまぎれたまま、わたしは視線を動かす。
ここらは水田地帯だが、まだ水は張られずに、乾いた土が成長の早い春草を乗せている状態だ。畦道に囲まれて四角く整備されたたくさんの区画が、一帯が田んぼだということを示している。
月光は変わらず煌々と明るく、視界は広い。
水路に沿って上流から、田の一枚ごとに段差が付いた広い斜面を、速太くんが駆けていた。
走る、走る。
校庭のトラックでするような走り方ではなく、去年の稲の切り株などででこぼこな地面の上を、ジグザグに走ったり、ぴょんと跳ねたり。
駆けずり回る、という言葉そのままの、盲滅法でちょっと乱暴な、仔犬のような疾走だった。
速太くんは腕をいっぱいに広げ、てーっっと加速して、畦道の側面を飛ぶように登る。
大きく呼吸しながら、ぐるぐると回る。興奮した子供っぽい笑顔。それが時々、ふっと真顔になって、不可思議なものを見るように乱れた前髪の間から頭上の月と、満月に照らされた景色を見つめている。
きっと速太くんがいま目にしているのは、月の光がもたらした異界だ。
夜なのに明るい。それだけのことで、普段見慣れた野山の景色が、いつもとは似て非なるものに変わることがある。
陽の光には映らない何かが、陰の輝きの下で世界を満たしているように感じることがある。
満月に窓越しに呼ばれていると思える瞬間が、今夜彼に訪れたのだろう。そして男の子は、お月様と遊びに出たのだ。
走り回っていた速太くんが不意に立ち止まった。
天を仰ぐ。将来さぞイケメンに育つだろうくっきりした顔立ちの、大きな瞳の芯に月が浮かんでいる。するすると冷たい夜気を吸い込むと、わたしが見守る中、
「わお、おおおお─────────んっ!」
喉いっぱいに、夜空に向かって吠えた。
途端に近隣の──といっても、数百メートルから一キロほどは離れているが──家々から、時ならぬ飼い犬たちの遠吠えが湧きおこる。
声にはどれも迫力がある。なにせ猪や鹿が出没する片田舎、屋内犬なんてヤワなものは飼われていないのだ。
速太くんは嬉しそうに、そして少しだけ狂暴に笑って、ふたたび吠え返した。
「わう、わおお─────────ん!」
子供そのものだった自分の中に、育っていくものを誇示するみたいに。
‥‥か、可愛い~っ!
わたしの方はというと、胸がどきどきして、思わず声が出てしまいそうだった。
あーもーっ、可愛いぞ速太くんっ!
きみの″はじめての冒険″に無断で付いてきて、こっそり遠くから覗いたりしてごめん。
でも、きみのワクドキを、初めて親狼の庇護を離れて原野に出た仔狼みたいな、危なっかしい可愛カッコよさを目撃できて、お姉さんは幸せだよ。
黙ってお墓まで持っていくから、どうかわたしの記憶にだけ、今夜の出来事を仕舞わせてほしい。
可愛いなぁっ!
そうやって勝手にわたしが興奮したりしているうちに、家犬たちとの吠え合いを終えた速太くんは、ふんす、と鼻で息を一つして、改めて歩き出した。
‥‥んん? そっちはきみの家の方角じゃないよ?
おーい?
彼の一夜の冒険は、これで終幕とはいかないらしい。
わたしは距離を保ち草木に身を隠しながら、小さな背中を追いかけた。