プロローグ7:犬脚少女の憂鬱(後)
【ゆら】
入学後二か月弱が過ぎた頃の昼休み風景です。
「ごちそうさまでした」
小さく感謝の言葉を唱えて軽く手を合わせ、わたしは空になったお弁当箱と箸入れを包んだ。今日もおいしかったです。
机を挟んで座っていた朽銘美輪さんに会釈して、包みを手に教室を出た。お弁当箱をすすぐためだ。
昼休み中なので廊下は騒がしい。各学年の教室が収まる東2棟・西1棟と、購買や食堂がある東1棟には特に生徒が集中していて、手洗い場も混んでいる。わたしは人気を避けて西2棟に向かった。
時間はあるので腹ごなしのつもりでのんびり歩く。犬は相変わらず太腿のあたりをうろうろしている。名前も知らない高校生男女のプライバシーが匂いの帯になって、空気中を漂っているのがわかる。
(‥‥と、なに話してたの? お兄ちゃん)
おや。
(別に僕は‥‥)
(言い返すとかダメだよ。むつみ、本気で怒っちゃうよ?)
階段の吹き抜けが伝声管のように働いて、上階の音を運んできた。人間の耳には意味をなさないささめきが、犬の聴覚を介してわたしの中で明瞭に再構成される。位置まで分かる。この反響の具合はあれだね、この棟の三階から屋上へ上がる途中にある謎スペースだね。
なぜかはわからないが、踊り場にある目立たない隙間を通ると、階段の下にある三角形の空間に入り込むことができるのだ。西2棟の屋上は立ち入り禁止なので、前を通りかかる人間は事実上いない。
わたしがどうしてそんな場所を知っているかというと、四月に校内のぼっちポイントを捜したことがあるからだ。香坂先輩から犬の糞お持ち帰りセットをプレゼントされた日に思いついたことを、実行したのである。
暇を見つけてうろうろして、よさげな死角を発見したら犬の鼻でひとの出入りを確認。中にはタバコの匂いがしたり、使用後それほど経ってない避妊具が落ちてたりする密かな人気スポットもあった。
地道な探索の結果、いくつか人目に付かない有望な所の目星がついたのだが、その中で今ふたりがいる階段の隠れ場所はやや良──ごく僅かだが利用者あり──の評価だった。
そして、ふたりというのは、クラス委員の知念睦さんとハゲ村先生のことである。
♦ ♦ ♦ ♦
【知念睦】
昼休みにお友達との食事の輪を抜け出して、少し前にお兄ちゃんが教えてくれた秘密の場所に、メールでお兄ちゃんを呼び出しました。
だれにも見られないように気を付けて、西2棟の三階からさらに上に昇ります。踊り場の一見すると壁の段差のような部分には、人ひとりがやっと通れる幅の間隙があって、そこを二~三メートル進んでいくと階段の裏側に回り込むことができるんです。
直角三角形に長方形を組み合わせた壁を持った、コンクリートで囲まれた誰もいない空間。校舎の外壁にあたる奥の方は、意外なくらい天井が高くなっています。
便利なんですけど‥‥。意味不明な構造ですよね。
完全にデッドスペースなのに、背伸びしてかろうじて手がかかるくらいの位置に嵌め殺しの小窓があって、そこから外の光が入ってきます。もしかすると校舎が作られた時点では、ここにもなにか使い道が考えられていたのかも。
──まあ、それはどうでもいいのです。大事なのは、今いるのがむつみたちしか知らない場所だってことですから。
「‥‥こういうのは感心できないよ、知念」
「ふたりの時は″むつみ″だよ、お兄ちゃん」
大きな体を斜めにして壁の間をすり抜けてきたのは、この学校で歴史の先生をしているむつみの再従兄。一回り年上の彼のことを、むつみはお兄ちゃんって呼んでいます。
「校内でふたりきりになるだけで拙いんだよ、‥‥むつみ」
困り顔のお兄ちゃんに頭を優しく撫でられると、口元が勝手にニマニマしてしまうけど、それを見られないように正面から両手を回して抱き付きました。
「──さっき木戸さんと、なに話してたの? お兄ちゃん」
「別に僕は‥‥」
「言い返すとかダメだよ。むつみ、本気で怒っちゃうよ?」
おでこをネクタイにグリグリ。
お兄ちゃんが、あまり女子受けしない容姿だと言われてることは知ってます。でも、それもむつみにはちょうどいい感じ。好きな男のひとが眉目秀麗で女のひとにに大モテだったら、自分はきっと嫉妬で発狂しちゃうから。
物心つく前からよく家に遊びに来ていた優しい再従兄のお兄ちゃんが、高校の先生になるって聞いた時には、″綺麗な高校生のお姉さんにお兄ちゃんを取られちゃう!″って慌てたものですよ。えへへ恥ずかしい。
「ごめんよ、むつみ。不安にさせたかい」
「不安だとか、そんな訳ないよ。腹が立っただけだよ」
ひどく無意味で、でも何よりも大事なお喋り。むつみのこと、上手にあやしてね。
掌が頭から背中まで下りてきて、ほぐすようにさすってくれています。体がぽかぽかしてきました。気付かれないように、こっそり内腿を擦り合わせちゃう。
わざと子供っぽくなるよう意識した上目遣いで、お兄ちゃんの顔を見上げます。目を細めてこちらを見ていて、すこし頬が紅潮しています。
「だからね、ちゃんとむつみのご機嫌取って? お兄ちゃん」
♦ ♦ ♦ ♦
【ゆら】
普段はですます調ではきはき話して、控えめに微笑みながらクラス委員のお仕事をきっちりこなしてくれる知念さんの、まるで幼児退行したかのような喋り方と、超甘々に甘えた態度。
ハゲ村先生を慕いきっているのが、手に取るようにわかる。
そんで、性的な意味で昂ぶってますな。双方ともに。
わたしがうへえ、とか思うのは筋が違うというものだろう。あれは彼女と彼が好いた相手だけに晒している(つもりの)、親も知らないような一面のはずなのだから。
ところで出歯亀というのはあれですな、明治の昔に女性の殺害容疑で逮捕された、女湯の窃視常習者の亀太郎というひとが、出っ歯だったことが由来の言葉だそうですな。意味は″のぞき野郎″。
‥‥ええ、ええ。おっしゃりたいことはわかります。
でも、わたしの脚の犬は、生物が先天的に備えた能力の発露です(たぶん)。みなさんがなぜか宇宙服を着て体臭を遮断することもせず往来を歩きまわっていたとしても、人間の聴覚だけを基準に隠れて密事に励んでいたとしても、わたしの責任にされては困るんです。
わたしはさっさと階段の近くを離れたのだが、犬は知念さんとハゲ村先生の秘密の逢瀬に興味を引かれたらしい。ヤツが聞き耳を立てるせいで、甘噛みとしか表現しようのない恋人トークが、やがて粘っこい水音と喘ぎ声に移行するまでの、色々すべてが伝わって来て、本当に何の嫌がらせだ。
結局、五時間目ぎりぎりになって教室に戻ってきた知念さんは、昼食を抜いたにもかかわらず抜群の血色のよさで、授業中には頬杖をつくふりをして、先刻の生々しい匂いがべったり付いた指先を陶然としながら嗅いでいた。
彼女、軽い匂いフェチなんだよね‥‥。週に二日ぐらいは朝からハゲ村先生の家に押しかけて、″友好的な男女の取っ組み合い″をしてから、わざとシャワーを浴びずに学校に来るんだよね‥‥。別にいいけどね‥‥。
教師と教え子が一線を越えまくっていることについて意見のあるひともいると思うが、学校ではやめとけという点以外、わたしにはとやかく言うつもりはない。
だって先生が教師の立場を利用して迫ったわけでもないし。どう考えても親公認のお付き合いだし。ハゲ村先生が責任を取らないことも、知念さんが責任を取らせないこともないだろう。男女の仲の先行きなんて誰にも分からないけどさ。
なにより、あんな美人さんに迫り倒されて、十六歳の誕生日まで我慢し続けたハゲ村先生には感心するね。マジ賢者。散々じらされていた(本人の主観)知念さんはそれで一気に開花してしまって、夜討ち朝駆けを仕掛ける毎日になったわけだが。
常時ではないといえ、犬の感覚を持って外を歩くと。人々はガラス張りの建物の中を裸で歩き回り、自分がどこにいて何を食べてだれと性交したか、全身にステッカーを貼り付けて広告しているように思えてくる。
知念さんたちのあれこれなんて、わたしが聴いたり嗅いだりした中では可愛いものだよ。
知念さん、ハゲ村先生こと岡田先生、末永くお幸せに。
え? 本名が岡田なら、ハゲ村の「村」はどこから来たんだって?
‥‥いやだなお客さん。犬の鼻があったからって、すべての謎が解けるわけじゃないんですよ。
「はあー‥‥‥」
我知らず、ため息をついてしまうわたし。
みんながそれぞれ自分なりの″普通″を生きているだけだというのに、犬が鼻を利かせ耳を澄ませるだけで、わたしは余計な内情を勝手に知って勝手に気疲れしてしまうのだ。
ああ、本当に面倒くさい。
♦ ♦ ♦ ♦
おまけ。木戸さんとハゲ村先生が昼休みの始めに廊下で何を話していたかというと。
木戸「やー先生、本返すの遅くなっちゃってスイマセン。はい」
岡田「構わないよ。読んでみてどうだった? 木戸は現代史が苦手だって言ってたから、もしかして詰まらなかったかな」
木戸「んー。そうでもないけど。後半で、ブレトンウッズ体制の確立した当時と今の国際状況を安易に結び付けてたところは、ちょっとなーって思った。一九四四年当時のアメリカのGDPは世界全体の半分を占めるとまで言われてたわけじゃん? 今の中国は割合でいったらその三分の一もないでしょ。資金の流れの説明まで含めて、いまいち納得いかなかったかなー」
岡田「経済学から見た現代史なら、学校の図書室にもいい本がある。国際基軸通貨の移り変わりに触れたタイトルなら例えば‥‥」
木戸「待っててメモるから‥‥。へえー。ふーん‥‥。ところでさ私、郷土史に詳しいひとを紹介してほしいんだけど‥‥」
木戸さんは歴史が大好きな歴女なのでした。