プロローグ6:犬脚少女の憂鬱(前)
【ゆら】
このところ、犬がうるさい。
わたしが小学五年生の頃に突然脚から生えてきた黒犬だが、現れるのは大抵、わたしが自分の部屋でひとりでいる時だった。これまでは。
なのに今は、校内や通学中にもちょくちょく勝手に″浮かんで″くる。
家の外では、基本的に鼻面しか脚の外に出さないし、スカートの下に隠れているのだが、だからってだれかに見つかる不安がない訳じゃない。いつもひやひやする。
そして、犬の感覚は鋭敏で過剰なのだ。役に立つ場合も多いけれど、日常生活でスイッチが入りっぱなしだと‥‥面倒くさい。
例えば。
♦ ♦ ♦ ♦
高校に入って二月程が過ぎた、ある日の四時間目の授業の終わり。つまり昼休みの始まり。
このクラスの授業は世界史で、担当はハゲ村先生だ。見た目は力士的あんこ体型の、三十手前にして頭髪ネタで教え子にいじられる気の毒なひとだが、空気が読める先生なので、昼食前の授業はいつも数分早く切り上げてくれる。
教材をまとめて教室を出ていく幅広な背中に、声をかける女子生徒がいた。
「ハゲ村せんせー、ちょっと時間くれるー?」
公然のニックネームではあるが、人前で当人を相手に口に出すとは、一年生としては大層な度胸だ。
彼女は木戸千晴さん。ちょっと派手な印象の私服に身を包んだひとだ。この学校では望めば私服の着用も許されていて、一部の生徒はかなりおしゃれを楽しんでいる。
わたしは毎日服を選ぶなんて面倒だから、制服があってありがたいと思ってるけど。
ちなみに制服っぽい市販のスカートを制服の上と合わせる、というやり方は、手軽に印象を変えられるということで入学後すぐに女子の間に広まっていた。
ハゲ村先生の腕を木戸さんが引っ張って共に廊下を行く様は一見、不良生徒が気弱な先生に絡んでいるように見えなくもない。校舎の形が五角形をしているためここ一階の通路は回廊となっていて、行きどまりというものがないのだが、二人はそのまま階段の近くで話し込み始めた。
「──朽銘さん、お昼一緒していい?」
学食や購買に向かう同級生たちがどっと抜けて、教室はガラガラになっていた。わたしはお弁当の包みを持って、おもむろに朽銘美輪さんの席へ。
彼女が頷いてくれたので、近くの適当な机と椅子を寄せ、向かい合って包みを開く。わたしのは平凡な母の手作り弁当だが(不満はないですよ)、美輪さんの昼ご飯は色とりどりの惣菜が並んだ松花堂弁当だった。毎日手がかかってるなあ。
物静かな和風少女である美輪さんは無口なたちで、食べながらの会話はほとんどない。わたしが彼女を同席相手に選んだ理由のひとつである。
静かな昼食の合間に、なんとなく室内を見渡す。
飲食物を買いに出た購買組の帰還を待っている男子たちが集まった島ができていて、四方山話に花を咲かせていた。文学少女の紙乃森栞さんは、自分の席でいつも通り文庫本をおかずにサンドイッチを食んでいる。ゲーム機の持ち込み、および携帯電話を使ったゲームの校内での利用が禁じられているため、パンをかじりながらカードゲームをしているグループもいる。
廊下を、木戸さんから解放されたらしいハゲ村先生が歩いていくのが見える。一拍おいて、机の上のお弁当箱の蓋も取らずに、頬杖をついてぼんやり外を眺めていた知念睦さんが、「先に食べていてください」と友人たちに言い置いて席を立って、携帯をいじりながら教室を出ていく。購買に行っていた生徒たちが手に手に袋を持って戻って来て、周囲は一気に騒がしくなった。
ようよう目に馴染んできた、一年三組のいつものお昼模様である。
‥‥もぐもぐごっくん。残ったお茶をすすって、ふうと一息。
胃袋を満たしたわたしは、朽銘さんに会釈して立ち上がり、机と椅子を元通り整えてから手洗い場に向かう。お弁当箱をすすいでおかないとね。
──これを、犬の嗅覚と聴覚を添えて見てみると──
木戸さんがハゲ村先生に話しかけると、体臭を顕著に変化させたひとがいた。知念さんである。まったく表情には出さないが、廊下の様子を気にしている。人間の耳の感度ではなにも分からないと思うけど。
いっぽう男子の集団の中では、大層アホらしくも浮き立ったやりとりが行われていた。
(お代官様、ご所望の銀の円盤でございます)
(くっくっく、越後屋、おぬしも悪よのう)
黒い笑顔を浮かべてケースに収まった御禁制のディスクを差し出す彼は、渾名ではなく本当に越後屋清兵衛という。ある意味、キラキラネームすら超越した名前の持ち主だ。
可聴域も精度も人間を大きく上回る犬の聴力が、遠くの会話を拾ってくる。いらないのに。
(麗しの藤宮寿々ちゃんの艶姿がこの中に‥‥!)
(鑑賞会やろうぜ鑑賞会)
(だれん家にする?)
‥‥十八禁的な動画の交換か何かだと思うでしょう? そう考えていた時期がわたしにもありました。
(俺の嫁、生駒怜華たん‥‥。はあはあ)
(瀬良江錐子さん一択! 巨NEWだけが衆生を救済する! 彼女を菩薩乳と名付け崇めよう!)
(スク水の九頭竜那由他様でご飯おかわり十杯いける‥‥)
男子の間で秘密裏に流通しているソレは、生徒会プラス一部の人気女子生徒のプライベートな姿を収めた画像集なのだ。受注生産制で、指定した女子の画像をお値段に応じたデータ容量で購入できるらしい。当クラスで商品をお求めの方は(株)越後屋商会までお問い合わせください。
どう見ても肖像権を侵害してるよね? ていうか校内で無許可の商売とかいけなくね?
ダークグレーな世界だ。しかも会話から推し測るに、クラスの女子の写真もあるらしい。
まあ知念さんしかり朽銘さんしかり、美人率高いからね三組‥‥。しかし、当人がいる(かもしれない)教室内で現物をやり取りするとか、どんだけ馬鹿なんだ男子。
(ところで越後屋、オオモリちゃんの画像はないの? あったら買うんだけど)
(彼女ガードが堅いんだよねー。ちょいマニアック路線だけどリクエスト多いし、まあプール開き後に期待ってことで?)
(入荷したら連絡よろー)
ふむ。最近人気上昇中の女子生徒は大森さんというらしい。他のクラスの子だね。
(‥‥しかしながら友よ見よ、かの女の本日の食べっぷりを。箸をつけて五分で、もう既に半分いってる)
(今日も弁当箱が壮大にデカいな‥‥。いったいあの体のどこに入るんだ)
(ラグビー部員にも匹敵する健啖ぶり。まさに大盛り‥‥)
ん? なんだか後ろ暗い商談を終えた男子たちが、ちらちらこっちを見てる風なんだけど‥‥。
きっと気のせいだね! もぐもぐごっくん。
この時。窓寄りの席にひとり腰かけた紙乃森さんは、クールな無表情でページを繰っている。見た目は完璧な文学少女である。その唇が小さく動いているのも、まるでひとり静かに詩を口ずさんでいるかのようだ。が。
(‥‥くっくっくそう来るか抉るじゃないのよイイねイイねさあ血・血・血・血だよ鮮血の季節だよ‥‥)
わたし(の犬)には聞こえてしまう。彼女のつぶやきの内容が。よく見ると、眼鏡の向こうの濃い睫毛に飾られた瞳が、油膜まみれの海面が炎火を照り返して月のない夜に輝くような、でらでらとした光を放っているのも分かる。
端的に言うと、紙乃森さんが熱心に活字に親しむのは、教養などというふわっとしたもののためではない。純粋に娯楽。率直に快楽。嗜好は過激な激辛暗黒路線。
低にして俗なるエロとグロと鬱の言葉の密林を住まいとして、彼女は日々そこに遊んでいるのだ。
別にそれはいい。誰を害しているわけでもないし、趣味は個人の自由だ。本好きには国語の成績がよくなるという余禄もあるしね。
ただ。
(そうだそうだ戦っちゃえ姦っちゃえ殺っちゃえ。もっと地獄を晒せ私の脳のその髄に‥‥! くけけけけけけかかっ!)
‥バイオレンスでジェノサイドな十八禁鬱小説でトリップとか、せめて食事中は我慢できませんか? できないんだろうなあ‥‥。
汗の匂いで分かる。彼女の頭の中は今、脳内麻薬物質でじゃぶじゃぶ言っている。
神経が興奮しやすいか否かというのは、そのひとの体質や経験、訓練によるらしい。パニックになりやすいひとやトランス状態に陥りやすいひとがいるように、紙乃森さんのエンジンはえぐい文章を燃焼することで盛大にブーストするのだ。これがもし化学合成物質由来ならば、ジャンキーと呼べるレベルで。
彼女はそれを我慢できない。そういうひともいる。
異常に興奮した人間がすぐそばにいると、犬の鼻が嗅ぎつけるせいで、こっちもうなじの毛がチリチリしてきちゃうんだけどなあ‥‥。
もういちど繰り返すが、趣味は個人の自由だ。口をはさむ気はさらさらない。
ただ、当人は隠せていると思っている秘密が、向こうから勝手にわたしの耳鼻の前に転がってこられると、たとえ関わりはなくても困っちゃうのである。
以下もそんな話だ。