プロローグ5:はじめてのぐーぱんち
【ゆら】
お腹がぺこぺこです。
目立たない所でささっとお弁当を掻き込んでしまいたかったのだが、ひとり飯に向いたスポットはどこか、なんていう情報を新入生が四月に把握しているとか、ない。
かといって、昼休みが終わる直前に教室に戻っていきなり早食いしてたら、わたしなにかしてましたと宣伝しているようなものである。
いっそ便所飯‥‥。いや、それは、それだけは‥‥。
明日からは空いた時間に校内を探索して、緊急避難場所を捜すことにしようか。そんなことを考えつつ、結局、空腹のまま教室に戻った。
「よー小花ちゃん。どこで飯食ってたの? 教室で見なかったけど」
開け放しにされた引き扉をくぐると、いきなり物理的に上から目線で話しかけてくる男子生徒がいた。
彼はクラスメートの速水広輝。早々とバスケ部に入っただけあって背が高く、なにが面白いのか、こうして時折わたしに声をかけてくる。
そしてわたしの名前は小花ではない。
「誰のことを言っているの」
「んー? もちろん君。小さい花伏ちゃんだから小花ちゃん。可愛いでしょ」
なにを抜かすのだおまえは。勝手に渾名を付けるだけで今時はイジメに認定されることすらあるのを知らないのか。しかも身体的特徴から発案するとか、デリカシーがなさすぎだろ。
‥‥わたしは断じて小さくはない。中学のクラスでは身長順で前から三分の一あたりの位置だった。なぜかこのクラスの女子の中では前から二番目になってしまっているが‥‥。
みんなが大きすぎるのだ。そうなのだ。
「勝手な呼び方とかやめて。冗談で言ってるんじゃないから」
「やめない。女の子に話しかける時ってさー、特別な呼び方をするとぐっと親しみが湧く気がしない?」
沸いているのはおまえの頭だ。
もう無視して自分の席に向かう。歩きながらチラ見すると、速水くんは嬉しそうににやっとした。しまった。
こういうのは反応しては駄目なのだ。徹頭徹尾突き放していれば、やがて相手は飽きてやめるのだ。わかっていたし、これまではちゃんとそうしていたのに。
空腹がわたしの判断力を低下させている。
途中、一緒に時折昼ご飯を食べることがある朽銘美輪さんがこちらを見ていたので、笑顔で軽く会釈する。
″教室に姿がないので気にしていました″→″ありがとう″ ″なにか理由があるのでしょうか″→″お互いそういうことは詮索しない距離感でいきましょう″
という対話をしたつもり。空気で語るぜ日本人。
さあ、空きっ腹のまま、午後イチはハゲ村先生の歴史の授業だ。‥‥集中できるかもしれないね?
♦ ♦ ♦ ♦
歴史はともかく、栄養補給を断たれたまま体育でバスケの授業とか、完全に無理ゲー。
ていうか疲労のピークの六時間目に生徒に運動をさせないでほしい。死んじゃうよ。なのに男子は楽しそうに「授業が終わったらバスケ部が来るまでの間、このまま体育館で遊んでようぜ」なんて話してるし。完全に我々女子とは別の生物なんだねーと実感する。
倒れそうだったが、そんな暇はない。
バスケは一チーム五人でやる。うちのクラスは男子十八名女子十七名なので、女子だけで三チームできる。試合は男女別。コートで二チームが試合している間、残り一チームはスコアボードを担当したりするが、基本的に座って試合を眺めている。
わたしは情報通と言われ、自称もしている田町友加里さんと同じチームに入った。そしてこの待ち時間を利用して、彼女から香坂先輩の世評を聞き出そうと思うのだ。
「うんうん。執行部書記の香坂悠斗先輩だねー。あのひとを一言で表すと、『生徒会の良心』かな?」
ことは意外なほどスムーズに進み、わたしと並んで床に体育座りした友加里さんは、舌も滑らかにしゃべり始めた。
‥‥あれー? 須崎先輩は香坂先輩について″伝令としてこき使われる一兵卒″くらいの言い方をしていたが‥。
わたしが呑み込めずにいるのを察したのだろう、友加里さんは続けて、
「うちの学校の生徒会は、優秀だし生徒にも人気抜群だけど、全体に個性的過ぎてピーキーなんだよね。
二・三年の女子のほとんどがファンだと言っても過言ではない九頭竜那由他会長は、女優ばりの美人でカリスマ性は抜群だけど、″自分の周りには美少女だけがいればいい″って公言する困った独裁者って面がある。
男子の人気が圧倒的なブロンド美人の風紀委員長・生駒怜華先輩は、清廉だけどちょっと融通がきかない。風紀委員長としては悪いことじゃないけど、交渉には向いてないの分かるよね?」
そ、そうなのか。九頭竜会長を崇めているらしい須崎先輩からは得られなかった情報がポンポン出てくるぞ。友加里さんてば凄い。
「ちなみに三年生で会計の大蔵数恵先輩は、誰にでも優しく接するんで隠れた人気者。『仏の大蔵』の異名があるくらい。会計で不正を働いたやつに対しては『閻魔の大蔵』に変身するそうだけど」
聞いてはいけない話を聞いている気がする。
「隠れファンが多いつながりでいくと、図書委員の瀬良江錐子先輩にも男子の崇拝者がいっぱいいる。なんたって全校一と言われる巨乳の持ち主さ。でっかいって正義だよね!」
いきなりぶっ込んで来たなこのひと! だがそんな道理は通らないぞ!
いろいろ控えめなわたしのボディラインを、ニマニマしながらジャージ越しに矯めつ眇めつする友加里さん。ちなみに本人のお胸はかなり豊かだ。Dはあるな‥‥。
‥‥お、大きくないからって悪じゃないやい。
「話を戻すとね、執行部には調整能力に長けたひとが他にいないんだ。九頭竜会長が前に立つと、勝つんだけど勝ちすぎちゃうのさ。副会長の川堀月夜先輩は九頭竜会長のイエスマンだって言われてるし。結果、渉外役を香坂先輩が受け持って東奔西走ってわけ。
ファンという意味での支持は特にないみたいだけど、この学校で『長』がつく仕事をしているひとたちからの香坂先輩の評価は高いよ。性格は温厚。運動はそこそこだけど成績はいいみたい。
‥‥ざっとこれくらいかな?」
「は、はあ」
「ごめんねー、先輩の好みの女の子のタイプとか、肝心なことが分かんなくて。でも今のところ彼女はいなさそうだよ?」
「そこは肝心じゃないですいらないです」
「あははっそうなの? ‥‥ところでさー」
どこからともなく使い込まれたメモ帳を取り出す友加里さん。たった今喋り倒していた時には、仕舞ったままだったのに。彼女は紐でメモ帳とつながったちびた鉛筆を握り、目が全然笑っていない満面の笑顔で、
「今日の昼休みにね、上級生の恋人たちが集まる創立記念館前の待合い広場に、″小柄で髪の長い一年生の女の子″が現れて、″どうやら誰かを捜している様子だった″って複数の目撃証言があるんだよ。
‥‥ねえ花伏さん。なにか知ってること、ないかなー?」
‥‥がくぶる。おやあ、地震ですかな~!??
♦ ♦ ♦ ♦
情報は光の速さで伝播する、という大宇宙の法則を証明した友加里さんの攻撃を、わたしは必死で躱しきり、追撃を避けるため授業が終わると最速で着替えて教室へ爆走。荷物を確保して校舎外へと脱出した。
この高校は生徒に部活動を強く推奨しているため、帰宅部に属する人口は多くない。が、それでも単独あるいは複数で校門に向かう人影がある。わたしは彼らからも離れて、昼休みと同じルートで学校の敷地の中を足取り重く北上する。
──整理しよう。
呼び出し主:香坂悠斗先輩。生徒会執行部書記で、性格は温厚で、現在彼女はいない模様。
呼び出された人:わたし花伏ゆら。秘密持ち。
場所:創立記念館前。交際中の男女が逢う場所として知られている。
用件:わたしと犬に関すること。詳細は不明。
時間:今日の放課後つまりもうすぐ。
うう‥‥。
わたしは無駄に礼儀正しい手紙の文面を見返す。
せめてメールアドレスが書き添えてあれば、″すみません、都合が悪いので今日はちょっと″とかメールで断れたのに。一方的に待ってます宣言されてるし。いっそのことすっぽかしたいけれど、考えが読めない状況で相手の機嫌を損ねるのはリスキーに過ぎる。
やはり行くしかないのかそうなのか。
気が付くと、また太腿の上に犬がぽっかり顔を浮かべていた。なんかここ数日、出現頻度が高くなってないか犬。
まあ出てきたものは活用しよう。風はほぼ真東で、微風。校舎の北側の林には、石畳敷の遊歩道が何本も走っている。記念館が風上になるようにその内の一本を選択。れっつごー。
犬の鼻が諸々の匂いを吸い込む。
イヌの嗅ぎ方はヒトとは違う。わたしたちは空気を吸って、肺から口に出す以外にはまた鼻から出すしかない。イヌは鼻の脇にある鼻翼の隙間から空気を逃がして、新鮮な空気だけを鼻の奥に当てることができる。
近くの小路の一本に、密着して立ち止まっている知らない男女。あーうん、嗅ぐまでもなくちゅーとかしてますね分かります。
創立記念館の東には、各部活の部室が入る北棟がある。放課後の始まりに支度をする者、移動する者、いろいろな音と匂いでカオスである。
この独特のぬくい蒸気の匂いは、カップ焼きそばのお湯を流しに捨てているのか。練習前の腹ごしらえか。家庭科部からはバニラエッセンスと卵と牛乳の匂い。プリンを作るのだろうか。昼休みに学食前の通路でクッキーなどを新入生に配って勧誘しているから、その準備なのかもしれないね。
北棟のさらに東は体育館・グラウンド・野球場などがまとめられたエリアで、そこからはスポーツに励む高校生たちの若々しい体臭が、春に芽吹く草木の香りとごちゃ混ぜになって、肌色の霞のように押し寄せてくる。放埓な生命の息吹に、わたしは一瞬の眩暈を覚える。
おおざっぱに周囲を俯瞰した後、嗅覚の焦点を絞っていく。匂いの分子で紡がれた極彩色の糸の奔流から、目当ての一筋を選び出す。‥‥先輩発見。
場所は記念館前、彼はじっと立っている。近くに他の人間の匂いなし。特筆すべき変わった匂いなし。昼休みに食べたお弁当の献立は卵焼き(塩味派)と煮魚と‥‥。
わたしはふうっと息を漏らした。誰かを傷つけようと意図している人間の内分泌系のパターンは、犬にとってはサイレンと同じくらいよくきこえる。嗅覚が示す香坂先輩の情緒は、とても安定している。よかった。
だがこれは、別の問題が起きる可能性を浮上させる。つまり‥‥。あれだよ、″君の愛犬も含めて、お友達から始めましょう″ってやつだよ。ペットをダシにするよくある手だよ。知恵者だよ先輩。
わたしは秘密を抱える身である。親しい人間を作ること自体に難がある。ましてそれが異性ともなると、困難は爆アゲ状態。
すまんな犬。どうやらおまえは香坂先輩を気に入っているようだが‥‥。ごめんなさいするしかないんだよ。
気合を入れなおして、創立記念館前のやや開けたスペースに踏み入る。記念館の壁に背中を預けて立っていた香坂先輩が、すぐにわたしを認めてにっこりした。それまで操作していたタブレット型端末を地面に置いて、代わりに生成り色の帆布でできた、小さめの手提げ袋を取ってこちらに歩いてくる。
──先手必勝。すまなそうな顔、準備よし。
「先輩、あの、ごめ‥」
「来てくれたんだね。ありがとう花伏さん! 僕はこれから生徒会の仕事があるから、呼び出しておいてすまないけど手短に済ませるね」
声が小さかったようです。
「この前、花伏さんと会ったとき、どうしても気になったことがって。余計なお世話かと思ったけど、受け取ってほしいんだ。はい」
「え‥‥」
差し出された手提げ袋を流れで手に取ってしまうわたし。中を覗き込むと、包装されたままの金属製のシャベルと、首輪と編み紐その他が入っている。
「‥‥? あのこれ‥‥」
「リードと、犬の糞を持ち帰る道具だよ!」
凄いイイ笑顔で先輩はいった。
‥‥いや、分かってましたけどね~? ええええ、薄々気が付いてましたよほんとですよ!?
「あの辺りは舗装してない道も多いし、今の所あまりうるさいことはいわれないと思う。でも、手ぶらで犬の散歩をしているひとには迷惑防止条例を適用しようかって動きも、ここの市議会にはあるんだよ。糞を路上に放置しますっていっているようなものだからね」
でも今日一日学校の中を歩き回って‥‥。お弁当も食べ損ねて‥‥。悩んで‥‥。友加里さんには追いかけ回されて‥‥‥。
わふわふ。
わたしのスカートの下で犬(頭だけ)が勝手にテンション上げてて、それが物凄く癇に障る。
「だからちゃんと、シャベルと袋は持ち歩いてね花伏さん。それと、道に出る時は必ずリードかハーネスを付けた方がいい。飼い主にとってどんなに賢くて信頼できるパートナーでも、他の人には分からないからね。リードを付けられるのを嫌がる犬も中にはいるけど、それは飼い主がきちんと‥‥」
先輩超ノリノリですね嬉しそうですね犬のことしか考えてないですね?
‥‥うふ。‥‥‥うふふ。‥‥‥うふふふふふ。
「‥‥だよ。あれ? 聞いてる花伏さん? !っぶぐおっ!?」
うふふ~。ぐーぱんち!!!
身長差があるので、わたしがまっすぐ突き出した拳は香坂先輩のみぞおちにもろにぶつかった。
「――えええ!? どうしたのいきなり? 僕なにかしたかい?」
「‥‥っお父さんだって殴ったことないのに~!」
「いやそれはいいことだけど!?」
当たり所が悪かったのか悶絶して驚いている先輩を置き去りに、わたしは叫びながらその場から逃走した。
暴行及び傷害の現行犯である。有罪。
‥‥わたしってばこんなのばっかりだな(泣)。