プロローグ1:わたしと犬、そして先輩
つたない作品ですが、楽しく読んでいただければ幸いです。
【ゆら】
ふ、ふわおおおおおおおぉぉ~!
声もなく立ちすくむ、わたし。
「君は、本当に美しいね」
彼が‥‥先輩がささやく。さっきより音程の下がった、じんわりと染み込んでくる柔らかいバリトン。
「遠くから立ち姿を見ただけで、君が特別だとわかった。歩くときの優雅な仕草を見て、声をかけずにいられなくなった」
先輩との顔の距離は、体温が伝わるまでには少し遠く。
でも、こんな近くから男の人の顔を見るなんて、思春期と呼べる年になった後では初めて。
心臓の鼓動が早い。頬に血が昇ってくる。
風の音を、やけに大きく感じる。
視界の端を、軽く開かれた先輩の掌が登ってくる。怯えさせないようにゆっくりと。
「けど、近くから君の深いまなざしを見て、すごく迷った。僕なんかが君にいきなり話しかけていいのかって。ぶしつけだろうって」
肌が近づく。触れる前から温かな先輩の手。見なくても分かる、すぐそばに、もっとそばに、
そっと、右手の指先が左耳の付け根あたりに触れ、そのまま小さな円を描いて撫でる。
「ひっ‥‥」
びりびりっ、と背筋に電流が走った。
あのっ先輩、その手つき、全然迷ってないですけど。
上げようとした声は喉で引っかかる。
「君は、とても綺麗だ」
先輩は愛おしそうに見つめている。
♦ ♦ ♦ ♦
高校一年生の春、入学式から数えて二つ目の週末。わたしは先輩と出会った。
後から考えれば、運命の出会いといえなくもない。
その日わたしは、四月になって沈むのを嫌がり始めた夕日に照らされながら、川べりの懐かしい道を歩いていた。
わたしの住む市は、人口の拡大とともにその中心を移動させていて、今の家のあるあたりを〝まだまだ田舎″だとするなら、昔住んでいた場所に近いここは〝田舎になってしまった″地域だ。たった数年の間に住宅が減り、空き地や空っぽの駐車場が増殖して、記憶にあるより大地を平べったくしている。
まだ明るいのに、広い視界の中に人影はまばらで遠く、なんだかわたしは胸を開いてほっと息ができる気持ちになった。
‥‥‥わたしべつに暗い子じゃないですよ?
志望校でけっこう高望みをしたので、受験勉強は大変だった。無事に合格したものの、気を抜くと始業後たちまち成績が沈没するのは目に見えている。入学式までの期間は予習復習に励んだ。
そして皆さんもご存じであろう、進学後の一か月は、学生にとって外交と諜報の戦場だ。もしもここでコケたり選択をミスったりしてしまうと、後々まで響く。下手をすると三年間の暗黒時代を甘受する羽目になる。
もともとメンタルの強さに不自由しているわたしは、新しい環境での死闘十日ばかりにしてすでにぐったりで、普段の出不精をかなぐり捨てたい心持になっていたのだ。
だから、油断してしまっていたのかもしれない。
もうすこし歩いたら引き返そう。帰りの電車の時間もあるしね。
そんなふうに考えながら足を運んでいると、風とわたしたちの影が流れていく方向、意外なほど近い距離に、歩み寄ってくる背の高い人の姿を見た。まだ丈の低い雑草に覆われた土手を、大股で登ってくる足取りには、はっきりとわたしたちを目指す意思がうかがわれた。
むむ?
たぶん身長は一八〇センチくらいで、眼鏡をかけていて、私が今月入学したばかりの高校の男子の制服を着ていて、薄手のジャケットと学生鞄を左手に持っている。襟章の色は二年生の青。
その男子生徒は正面の位置で立ち止まると、まっすぐにわたしの目を見たまま微笑んだ。
「こんにちは。君、うちの学校の一年生だよね?」
おおう、良いお声。
あれ、でもまて、どうしていきなりわたしの身分が分かったの? 今日わたしは、一度帰宅して、私服に着替えてから外出したのだ。市内に高校は五つある。一つは水産高校で生徒がほぼ男子オンリーなので除外しても、あてずっぽうなら確率は四分の一だ。
だれだろこの人。制服の着こなしはまったく崩れてなくて、二年生ということも併せて考えると、あまりうるさい校則のないわが校では四角四面に属する部類。眼鏡も個性に乏しい濃紺のセルフレームで、見る限りアクセサリーの類は身につけていない。髪も染めてもいないし長くもない。肝心の顔立ちは、真っ向から陽を受けているせいで、明るさに細部がとんでしまってかえって見づらい。直感的に判断した限りでは、まあまあの整い具合、だと思う。
でも声はいい。すごく良い。発音がはっきりしていて、ハキハキというより柔らかくてまっすぐな話し方だ。真摯で優しい感じがする。
情報が足りない。風向きがせめてもう少しこう‥。
わたわた。凄い挙動不審になるわたし。臆病な気質なんだよ悪いか。
けど、以前どこかで聞いたぞ、この声。どこだっけ? 新一年生が入学後のわずかな間に耳にする上級生の声とは? 部活の勧誘合戦? そんな騒がしい状況じゃなかったような。
「‥‥あ。生徒会、の?」
わたしの洩らした呟きを聞き取って、驚きつつも笑顔になる男子生徒。
「おぉ。凄いね。会長とかは大抵一目で覚えてもらえるんだけど。僕の事がすぐ分かる人は珍しい」
入学式で司会進行をしていたから。声で分かったのです。
「改めて。生徒会書記の香坂悠斗といいます」
生徒会の人だから新入生の顔を覚えていた、ということですかね。
いかに唐突な接近遭遇とはいえ、礼儀としてこちらも自己紹介しなければいけないんでしょうね。礼儀として‥。
「わたしは花伏ゆら、です。あの、えと、初めまし、て? お見知りおき、を?」
礼儀がよくわかんないです。
「花伏さん、だね。それで花伏さん、会ったばかりで変だと思うだろうけど、折り入って君にお願いがあるんだ」
「はあ」
わたしの乏しい反応も逸らしがちの視線も蹴散らすかのように、香坂先輩の笑みがぐうっ、と深くなり、上半身が十五度ぐらい前傾した。近くなった眼鏡の向こうの目が‥‥熱っぽいです! めちゃめちゃ輝いています! え? え!?
「どうか、撫でさせてほしい!」
は!?
「僕に撫でさせてほしい。花伏さんの連れている、そのとてもとても綺麗な犬を!」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
♦ ♦ ♦ ♦
そして場面は冒頭に戻る。
そよ風の吹く春の川辺。夕焼けが舞台を金色に染めている。
「君は、おおもとはラブラドール・レトリーバーなのかな? でもこんな感じでバランスしている犬種はこれまで見たことがないよ。神秘的な佇まいだとさえ言える。
耳も口元も脚も尾も、なにもかも完璧だけど、君を完璧以上にしているのは、その知的な目だ。君はきっと、世界の秘密のすべてを胸の中に隠しているんだね‥‥」
つややかな毛並みの黒い犬を、しゃがんで犬目線になった香坂先輩が千言万語を尽くして熱く熱く褒めたたえている。右手で頭を撫でている。犬の方も目を細め、頭の角度を変えてどこを撫でて欲しいか先輩に伝えている。人と犬との、麗しい交感の情景である。
黒い犬の左後ろ脚に寄り添うように棒立ちになったわたしは、棒立ちのまま‥‥。そのまま、必死に真正面から語られる愛の言葉に、頭を撫でられる感覚に、反応するのをこらえていた。
あの先輩、その犬、わたしの脚なんですけど。
正確には、脚から生えた犬なんですけれど。