進路変更 ― 待ち受ける大帝国
海は、静かに見えている時ほど油断ができない。
見えるものよりも、
見えないもののほうが、ずっと厄介だ。
進路は、自分で決めているつもりでも——
それが本当に選んだ道かどうかは、分からない。
得体の知れない恐怖が、ブリッジに残っていた。
消えきらない違和感だけが、機器の微かな音のあいだに沈んでいる。
その静けさを切るように、通信が入る。
「本社、運航管理部より」
栗栖が読み上げた。
「現在、喜望峰付近に中心気圧960ヘクトパスカルの低気圧が発達中。最低気圧は950、あるいはそれ以下になる見込み」
一瞬で、空気が張り詰める。
先ほどまでの“得体の知れない何か”とは違う、
これは明確に、現実の脅威だった。
「……やばいですね」
三井が小さく呟く。
谷屋が即座に言った。
「巻き込まれたら終わるぞ。このサイズで950まで落ちたら、船体が持っていかれる」
誰も否定しない。
それは経験則ではなく、ほとんど確信に近い言葉だった。
リヒトはモニターを見たまま、短く言った。
「本社」
「はい」
数秒後、回線が開く。
「クリスタニア、ヴァルナーだ。喜望峰ルートは取らない。ポートサイドに入る。入港手配を依頼する」
わずかな間。
その判断の速さに、誰も口を挟まない。
「ポートサイドなら情報収集は可能だが、どう判断する」
短い沈黙。
本社の声が返る。
「クリスタニアはポートサイドにて待機。運航指示があるまで動くな。情報は逐一共有せよ」
それだけだった。
余計な説明はない。
だが、それで十分だった。
「了解」
通信が切れる。
三井が小さく言う。
「……つまり、そこで集めろってことっすね」
「そうだ」
リヒトは視線を外さない。
「周辺の船は?」
「はい」
栗栖がすぐに操作に入る。
数秒後。
「……ポートサイドに、クルーズ船一隻」
「どこだ」
「DMC所属、……Alluring」
一瞬、空気が止まる。
先ほどの“異常”とも、低気圧とも違う種類の緊張が、静かに差し込む。
三井が目を見開く。
「え、あの……ヴィクトリア船長の?」
栗栖が続ける。
「現在、停泊中」
リヒトは何も言わなかった。
ただ、わずかに視線が落ちる。
ほんの一瞬。
だが、それは確かに、意識の向きが変わった証だった。
⸻
その頃。
黒い巨船は、静かに佇んでいた。
風も波も、そこだけが切り離されたように穏やかだった。
「待っているわ、ヴァルナー。……お祝いをしましょう?」
その声は、誰にも届かない。
だが、確かにそこにあった。
まるで、彼が来ることを最初から知っているかのように。
嵐は、遠くからでも形が分かる。
だが、人が起こす波は見えない。
それでも確実に、近づいている。




