ブリッジのルール—知らなくていいこと
船の上には、いろいろなルールがある。
中には、知らないほうがいいこともあるらしい。
その頃、ロンドンでは――
ハワード邸に、一本の連絡が入っていた。
レイコの両親、エヴァンスとキョウコからだった。
応接間には、午後のやわらかな光が差し込み、穏やかな空気が満ちていた。
「それなら、久しぶりにパーティーでもしましょうか」
マリア夫人が、楽しげに言う。
その声音には、娘を迎える母のような、あたたかな弾みがあった。
「うむ。それはいいな。」
ハワード提督も静かに頷く。
その表情は淡々としていながら、どこか機嫌がよかった。
⸻
数日後。
紅海の現状について各所とやり取りを続けていた提督に、一本の電話が入る。
相手は、リヒトの父――ヴァルナー大将だった。
短い近況のやり取りの後、提督が切り出す。
「ご子息の件ですが――」
わずかな沈黙が落ちる。
受話器の向こうにある感情を、互いに測るような間だった。
やがて、大将は低く言った。
「……それなら、亡き母に会いに来るよう、伝えてくれ」
「……それだけですか?」
「ああ」
それだけの、短いやり取りだった。
だが、言葉を削ったぶんだけ、かえって滲むものがある。
通話はそれで終わった。
受話器を置いた提督は、小さく息をつく。
「素直じゃないな」
思わず、苦笑が漏れた。
同じ頃、クリスタニア。
ブリッジでは、フレデリクが静かに口を開いた。
「船長を、少し休ませるべきだと思う」
その一言で、空気がわずかに引き締まる。
「このところ、顔に疲れが出ている。倒れられては困るからな」
無駄のない言葉だった。
余計な感情を交えず、それでも必要なことだけは外さない。
三井がすぐに頷く。
「そうっすよ。サウサンプトン着いて、翌日折り返しでしたし。ここから先、まだ長いですしね」
「……賛成や」
栗栖が短く言う。
谷屋も腕を組んだまま頷いた。
「無理させる必要はない」
意見は、驚くほど早く揃った。
誰もが、同じものを見ていたのだ。
⸻
その結果。
リヒトは、数日の休暇を取ることになった。
その場所は――
レイコの部屋。
それが決まったとき、誰も余計なことは言わなかった。
ただ、言わないだけで、全員きちんと理解していた。
⸻
数日後。
ブリッジに戻ってきたリヒトは――どこか、違っていた。
無駄がない。
判断が、やけに速い。
張り詰めていた鋭さはそのままに、どこか深いところで整っている。
神経を削って立っていた男が、今は芯から満ちた静けさをまとっているようだった。
三井が、ちらりと横目で見る。
「……なんか今日、キャプテン無敵じゃないっすか?」
誰も答えない。
いや、答えられない。
答えた瞬間に、何かが終わる気がした。
それでも三井はめげない。
「肌ツヤもいいし……何食ったらそんなに元気になれんすか?」
その瞬間、ブリッジの空気が止まった。
ぴたり、と。
機器の電子音だけが、妙に遠く聞こえる。
フレデリクが、静かに言う。
「……聞くんじゃない」
低く、しかし確実に制止する声だった。
そこには副長としての理性と、ひとりの大人としての諦めが、半々で滲んでいた。
——収まった、はずだった。
「えー、なんすかそれー!」
三井が食い下がる。
悪気がないぶん、なおさら止めづらい。
「教えてくださ――」
その瞬間。
勢いよくドアが開いた。
「おい、三井」
谷屋だった。
戻ってきた一瞬で、すべてを察した顔をしている。
「――○×△⬜︎※♯!!」
反射だった。
「お前マジで空気読めっ!」
機関主任の谷屋が一歩で距離を詰める。
腕を掴み、そのまま口を塞ぐ。
動きに一切の無駄がない。
あまりにも自然で、もはや訓練された救難対応のようですらあった。
「むぐっ!?」
「お前は知らなくてもいいんだっ!」
低い声。
しかしその実、かなり必死である。
遅れて、栗栖が言う。
「……貴様!キャプテンのあれこれ聞いたらあかんて!!」
「むぐぐ……っ!」
なおも抵抗する三井に、栗栖は呆れたように目を細めた。
「このお子ちゃまが」
短い一言だった。
だが、それがいちばん効いた。
ブリッジが、完全に静まり返る。
誰もが視線の置き場に困っていた。
三井だけが口を塞がれたまま、何がいけなかったのか本気で分かっていない顔をしている。
⸻
「……三井ぃ…」
低い声。
リヒトだった。
静かである分、余計に怖い。
それ以上は、誰も言わなかった。
言える空気でもなかったし、そもそも言う必要もなかった。
三井はようやく、自分が触れてはいけない海域に全速力で突っ込んだことを、ほんの少しだけ理解した。
⸻
その頃。
レイコは――
動けなかった。
すべてを知る必要はない。
知らないほうが、平和なこともある。




