ライトの中の声
顔認証に失敗しました。
白い画面に、黒い文字。
朝の光。
蝉の声。
カーテンの隙間から差し込む、見覚えのある夏。
八月二十五日。
僕はスマホを握りしめたまま、叫んでいた。
「うああああああっ!」
声が、自分のものじゃないみたいだった。
喉が裂ける。
胸が潰れる。
目の奥に、白いライトが焼きついている。
黒い川じゃない。
今度は、白いライトだった。
車道。
人の波。
二十五番スピーカー。
御堂の声。
黒瀬先輩の手。
ミカの叫び。
ミナト。
車のライトの中で、ミカは僕の名前を呼んだ。
僕は手を伸ばした。
指先が触れた。
今度こそ掴めると思った。
でも、間に合わなかった。
鈍い音。
人々の悲鳴。
アスファルトの上に倒れたミカ。
少し離れた場所に落ちた青いヘアピン。
生きたい。
ミカは、そう言った。
確かに言った。
なのに。
「……っ、う」
僕はベッドから転げ落ちた。
背中を床に打ちつける。
痛い。
痛いはずなのに、頭の中ではまだライトが光っている。
「ミナト?」
階下から母さんの声がした。
足音が近づいてくる。
「ミナト、どうしたの!」
ドアが開く。
母さんが部屋に飛び込んできた。
顔が青い。
でも、僕には母さんの顔も、部屋の壁も、机の上の宿題も、全部が遠かった。
「ミカが」
声が震える。
「ミカが、また」
「ミカちゃん?」
「車が」
「車?」
「ライトが、白くて、僕、手が、届いたのに、また」
言葉にならない。
喉の奥で壊れていく。
母さんが僕の肩に触れようとした。
僕は反射的に身を引いた。
触られたら、またミカの手が離れる気がした。
「ごめん」
僕は言った。
「ごめん、違う、母さんじゃない」
「ミナト、落ち着いて」
「落ち着けない!」
叫んだ。
母さんがびくっと震える。
その顔を見て、胸が痛んだ。
でも止まらなかった。
「二回死んだんだよ!」
言ってしまった。
言っても伝わらないことを。
言っても母さんには分からないことを。
「橋から落ちて、今度は車で、ミカが、僕の目の前で、二回も」
母さんは何も言えなかった。
当たり前だ。
こんなことを言われて、何を返せばいい。
僕はスマホを見る。
震える指で日付を確認する。
八月二十五日。
午前七時十二分。
また戻っている。
ミカの死を抱えたまま。
二回分の死を、全部覚えたまま。
「……ふざけんな」
声が漏れた。
「何回、見せるんだよ」
スマホを投げつけそうになって、やめた。
ミカに電話しなければ。
生きているか、確かめなければ。
でも、指が動かない。
電話をかけたら、ミカも覚えていると分かる。
橋から落ちたことだけじゃない。
車のライトを見たことも。
体が動かなかったことも。
痛みも。
最後に生きたいと言ったことも。
全部。
ミカが、全部覚えていると分かってしまう。
それが怖かった。
でも、かけないほうがもっと怖い。
僕は通話ボタンを押した。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
心臓が喉まで上がってくる。
四回目で、音が切れた。
『……ミナト』
ミカの声だった。
生きている声。
でも、その声は、前よりもさらに壊れていた。
「ミカ」
『生きてる』
ミカは先に言った。
『私、生きてる。今、部屋にいる。床じゃない。車道じゃない。川でもない。部屋にいる』
「ミカ」
『でも、ライトが消えない』
息が止まった。
『目を閉じても、白いの。車のライト。すごく近くて、動かなきゃって思ったのに、体が動かなかった。足が固まって、声も遅れて、ミナトの手が見えて、触ったのに』
電話の向こうで、ミカが息を吸う音がした。
泣いている。
でも、泣き崩れないように必死に言葉を繋いでいる。
『痛かった』
その一言で、僕は何も言えなくなった。
『橋の時は、寒かった。落ちて、水が見えて、息ができなくて、怖かった。でも今度は、痛かった。音がして、体が変な向きになって、ミナトの声が遠くて』
「やめて」
僕は言った。
情けない声だった。
「ごめん、ミカ、聞かなきゃいけないのに、ごめん、でも」
『聞いて』
ミカの声が震える。
『聞いて、ミナト。聞いてくれないと、私、また一人で死んだことになる』
その言葉で、僕は唇を噛んだ。
血の味がした。
「聞く」
『私、車に轢かれた』
「うん」
『黒瀬先輩が、こっちが安全だって言った』
「うん」
『腕、掴まれた』
「うん」
『私、やめてって言った。私が決めるって言った。でも、人が押して、声が聞こえなくなって、車道に出た』
「うん」
『ミナトが来た』
「行った」
『手、伸ばしてくれた』
「伸ばした」
『触った』
「触った」
『でも、間に合わなかった』
僕は目を閉じた。
涙が落ちる。
「ごめん」
『謝るなって、前も言った』
「でも」
『ミナトのせいじゃない』
「僕はまた掴めなかった」
『違う』
「違わない」
『違う!』
ミカの声が強くなった。
『ミナトだけが掴めば助かる話じゃないんだよ、これ』
その言葉に、僕は息を止めた。
『白石先生を止めても死んだ。橋から落ちなくても死んだ。町の声を変えようとしても、御堂さんに上書きされた。黒瀬先輩は助けようとして、私を車道に出した』
ミカは泣きながら、でもはっきり言った。
『誰か一人を止めれば終わる話じゃないんだよ』
分かっていたはずだった。
でも、二回目の死で、ようやく骨まで染みた。
一周目、白石先生の手。
二周目、二十五番スピーカーと黒瀬先輩の誘導。
死因は変わった。
でも、結果は同じ。
朝倉ミカ死亡記録、固定完了。
「ミカ」
『何』
「今度は、黒瀬先輩をちゃんと見る」
『うん』
「責めるだけじゃなくて、逃がさない」
『うん』
「助けようとしてることも、間違えてることも、兄のことを隠してることも、全部」
『うん』
「名前で呼ぶ」
ミカは、少しだけ黙った。
それから、小さく言った。
『私も言う』
「何を」
『黒瀬先輩に、言う。私を助けたいなら、私の声を聞いてって』
その声は震えていた。
でも、生きていた。
「会える?」
『会う』
「怖い?」
『怖い』
「うん」
『でも、部屋にいたら、ずっとライトが見える』
「神社?」
『うん。三架神社。前と同じ』
「行く」
『電話、切らないで』
「切らない」
僕は立ち上がった。
足はまだ震えていた。
でも、行かなければならない。
ミカが生きている場所へ。
*
台所に降りると、冷やし中華があった。
麺。
きゅうり。
錦糸卵。
ハム。
トマト。
唐揚げ二つ。
八月二十五日の朝。
何度でも、皿の上に戻ってくる夏。
僕はそれを見た瞬間、息が詰まった。
車道の白いライト。
青いヘアピン。
アスファルト。
全部が重なって、冷やし中華の皿が歪んで見えた。
「ミナト?」
母さんが言った。
さっきの叫びのせいで、まだ心配そうな顔をしている。
「朝ごはん、食べられる?」
「無理」
「そうよね。顔、真っ青だもん」
「母さん」
「何?」
「僕の名前、もう一回言って」
母さんは少しだけ目を揺らした。
でも、すぐに言った。
「瀬名湊斗」
その声で、少しだけ足元が戻った。
「ありがとう」
「何があったの?」
僕は答えられなかった。
でも、何も言わないのも違う気がした。
「友達を助けに行く」
「ミカちゃん?」
「うん」
「危ないこと?」
「危ない」
母さんの顔が強張る。
僕は続けた。
「でも、行かないほうがもっと危ない」
「ミナト」
「帰ってくる」
僕は言った。
「ミカも連れて、帰ってくる」
母さんは、しばらく僕を見ていた。
それから、冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を一本渡してくれた。
「持っていきなさい」
「ありがとう」
「あと」
「うん」
「ちゃんと怖いって言いなさい」
僕は母さんを見た。
「今、顔が全部怖いって言ってる」
「……うん」
「怖い時に大丈夫って言う子は、大丈夫じゃないから」
母さんの言葉は、妙に今の僕たちに必要なものだった。
ミカも。
レンも。
白石先生も。
黒瀬先輩も。
みんな、怖いと言えなかったから間違えた。
「言う」
僕は答えた。
「怖いって言う」
*
三架神社の裏に、ミカはいた。
制服ではなく、薄いパーカーを羽織っていた。
青いヘアピンは、ちゃんと髪に留まっている。
それを見た瞬間、胸が詰まった。
まだ落ちていない青。
まだライトに照らされていない青。
まだ、生きているミカの青。
「ミカ」
呼ぶと、ミカが振り返った。
目が赤い。
顔色は悪い。
でも、立っていた。
僕は走り寄った。
今度も、止まれなかった。
ミカを抱きしめる。
ミカも、僕の背中を掴んだ。
前より強く。
「痛い」
僕が言うと、ミカは泣きながら言った。
「痛いくらいがいい」
「前も言ってた」
「覚えてる」
「全部?」
「全部」
その言葉が、重い。
完全に残っている記憶。
橋も。
川も。
車道も。
ライトも。
痛みも。
全部。
ミカは僕から少し離れた。
「私、二回死んだ」
自分で言った。
言葉が震えていた。
「でも、今、生きてる」
「うん」
「これ、救いじゃない」
「うん」
「地獄の再提出」
「言い方」
「でもそうでしょ」
「うん」
僕は頷いた。
「都合のいい救済じゃない。ミカの死を、もう一度防ぐための猶予」
「猶予」
ミカはその言葉を繰り返す。
「あと何回あるんだろうね」
「分からない」
「分からないって、怖いね」
「怖い」
僕はちゃんと言った。
母さんに言われたことを思い出す。
「怖い。ミカがまた死ぬのが怖い。手が届いても間に合わないのが怖い。何を止めても別の死に方になるのが怖い」
ミカは僕を見ていた。
「うん」
「でも、怖いままやる」
「うん」
「今度は黒瀬先輩のことを、ちゃんと聞く」
「うん」
「安全って言葉で、ミカの声を消させない」
ミカは青いヘアピンに触れた。
「私も、消されない」
その時、足音がした。
レンだった。
黒いリュック。
赤いヨーヨー。
そして、顔色がひどく悪い。
神社の石段を上がってきた彼は、僕たちを見るなり、立ち止まった。
「覚えていますか」
いつもの問い。
でも、声が震えている。
僕は答えた。
「全部」
ミカも言う。
「全部」
レンは目を伏せた。
「僕もです」
彼は拳を握る。
「車のライト。御堂の声。黒瀬先輩が腕を掴んだこと。朝倉先輩が『私が決めるって言ったでしょ』と叫んだこと。事故の音。全部覚えています」
ミカの顔が少し白くなる。
でも、逃げなかった。
「レンくん」
「すみません」
「謝らなくていい」
「でも、言う必要がありました」
「うん」
レンは僕を見る。
「一つ、はっきりしました」
「何」
「死因を潰すだけでは足りません」
その声は冷静だった。
でも、冷静というより、冷たくならないように必死に抑えている声だった。
「白石先生の接触経路を下げた結果、群衆誘導補正が上がった。二十五番スピーカーを対策した結果、御堂が直接上書きした。黒瀬先輩の善意が、車道側導線と結合した」
「結合って言い方が嫌すぎる」
ミカが小さく言う。
「でも、正しいです」
レンは言った。
「クロノグラフは、ミカ先輩の死亡記録を閉じるために、使えるものを使う。人の沈黙も、善意も、恐怖も、町の放送も」
「次は何を使う?」
僕が聞く。
レンは少し黙った。
「おそらく、旧体育館」
ミカの肩がわずかに震える。
「火災記録」
「はい」
レンは赤いヨーヨーを握った。
「姉の記録です」
その言葉には、重い痛みがあった。
「三周目の目的は、黒瀬先輩の真意を暴くことです。でも同時に、僕の執着も危険になります」
「レンくん」
「僕は、姉の記録を取り戻したい。でも、一人で扉を開けたら、火災記録が再発する可能性が高い」
「前に言ったでしょ」
ミカはレンを見る。
「一人で扉を開けないで」
「はい」
「今度も言う。何回でも言う」
レンは目を伏せた。
「ありがとうございます」
「でも、私も言う」
「何をですか」
「私を助けるために、私の声を聞いて」
ミカは、レンにだけでなく、僕にも言っているようだった。
そして、まだここにいない黒瀬先輩にも。
「白石先生にも言った。黒瀬先輩にも言う。レンくんにも言う。ミナトにも言う」
「僕にも?」
「当然」
ミカは少しだけ笑った。
「ミナトも、私を助けたいあまり、私を置いて走りそうだから」
「……やりそう」
「自覚あるならよし」
「よくはない」
レンが端末を開いた。
画面には、新しい表示が出ていた。
> LOOP:03
> 対象:朝倉ミカ
> 死亡記録:未固定
> 前回死亡経路:群衆誘導補正
> 次回死亡経路:再計算中
> PHASE 3:火災記録再発 上昇
> 黒瀬リョウ:関連経路 上昇
「黒瀬リョウ」
僕はその名前を見た。
「やっぱり」
「怪しく見えるように動くはずです」
レンが言う。
「ただし、黒幕ではありません」
「分かってる」
僕は奥歯を噛んだ。
分かっている。
黒瀬先輩はミカを殺そうとしたわけじゃない。
白石先生と同じだ。
助けようとして、間違えた。
でも、間違えた結果、ミカは死んだ。
だからこそ、ただ許すわけにはいかない。
ただ責めるだけでも足りない。
正しさの形を、壊してでも聞かなければならない。
*
僕たちは、その足で三架高校へ向かった。
八月二十五日の補習。
もう何度目の夏休み最後の一週間なのか、分からなくなってくる。
校門をくぐると、蝉の声がうるさかった。
校舎は前と同じように静かで、廊下のカーテンは熱い風に揺れている。
でも、僕たちはもう初日じゃない。
二回の失敗を全部抱えている。
二年三組に入ると、何人かの生徒が机に突っ伏していた。
変わらない光景。
でも、僕の中では何も変わらないものなんてない。
ミカは窓際の席に座った。
ラムネ瓶を机に置く。
からん、とビー玉が鳴る。
誰かを見つける音。
その音を聞いた瞬間、ミカが少しだけ顔を伏せた。
「どうした?」
「車道で、ヘアピンが落ちた音と似てた」
「……そっか」
「でも、これも音だから」
「うん」
「怖い音にされたままは嫌」
ミカはラムネ瓶を指先で軽く弾いた。
からん。
今度は、自分で鳴らした音だった。
「朝倉ミカ、生存確認」
僕が言うと、ミカは小さく笑った。
「継続中」
白石先生が教室に入ってきた。
アイスコーヒーを片手に。
氷は溶けている。
先生は一瞬、僕たちを見て、足を止めた。
彼はループを覚えていない。
でも、何かを感じている。
前回、彼は自分の手を止めた。
その記憶はないはずなのに、彼の右手は少し震えていた。
「先生」
ミカが先に呼んだ。
白石先生は、少しだけ身構える。
「何だ」
「怖いです」
教室の何人かがこちらを見る。
白石先生の目が揺れる。
「……そうか」
「でも、今日は先生を疑いに来たんじゃないです」
「朝倉」
「先生に、また助けてって言わせに来ました」
白石先生は言葉を失った。
この言い方では、周りには意味が分からない。
でも、先生には届いたのだろう。
彼は目を伏せ、低く言った。
「補習のあと、準備室に来い」
「はい」
前より早い。
白石先生は、もう沈黙から逃げきれない場所まで来ている。
授業はほとんど頭に入らなかった。
化学式。
黒板。
蝉の声。
白石先生の乾いた冗談。
全部が、同じなのに違う。
僕はノートの端に、無意識に書いていた。
> 一周目:橋
> 二周目:車道
> 三周目:火災?
> 黒瀬リョウの正しさ
> 安全な場所という罠
その文字を見たミカが、小さく言った。
「死因メモ、嫌すぎ」
「ごめん」
「でも、消さないで」
「いいのか」
「うん。名前をつけないと、勝手に記録される」
ミカは自分のノートにも書いた。
> 私は生きたい。
その字は少し震えていた。
でも、消えなかった。
*
補習後。
廊下の向こうから、黒瀬リョウが歩いてきた。
前と同じ。
整った髪。
爽やかな笑顔。
夏服の清潔な白。
でも、僕たちにはもう、その笑顔の奥が見えている。
兄の罪を隠す人。
ミカを守ろうとして、ミカの声を聞かなかった人。
安全な場所を勝手に決める人。
「朝倉さん」
黒瀬先輩は言った。
「少し、いいかな」
前と同じ言葉。
ミカは、今回は逃げなかった。
僕の手も握らなかった。
自分の足で、一歩前に出た。
「いいです」
黒瀬先輩が少し笑う。
「ありがとう」
「ただし」
ミカは言った。
「腕は掴まないでください」
黒瀬先輩の笑顔が、わずかに揺れた。
「腕?」
「はい」
「僕が、何かしたかな」
「まだしてません」
ミカの声は震えていた。
でも、真っ直ぐだった。
「でも、私は覚えています」
黒瀬先輩の表情が変わった。
完全な記憶はない。
でも、夢を見る人だ。
花火の夜の悪夢を。
白いライトを。
青いものを。
「何を?」
黒瀬先輩が聞く。
ミカは青いヘアピンに触れた。
「車のライトです」
黒瀬先輩の顔から、血の気が引いた。
「……夢で見た」
彼は呟いた。
「花火の夜。人混み。車道。ライト。誰かの腕を掴んでいた」
「私です」
ミカは言った。
「黒瀬先輩が、私の腕を掴みました。こっちが安全だって言って」
「僕が?」
「はい」
「そして?」
ミカは一瞬、目を閉じた。
僕は止めたくなった。
でも、ミカは自分で言う必要がある。
「私は死にました」
廊下の空気が、凍った。
黒瀬先輩は何も言えなかった。
白石先生が教室の扉の前からこちらを見ていた。
レンは廊下の角に立ち、端末を握っている。
「黒瀬先輩」
僕は言った。
「今度は、あなたの正しさを聞かせてもらいます」
黒瀬先輩が僕を見る。
「正しさ?」
「ミカを僕から遠ざけようとする理由。ミカを安全な場所に連れていこうとする理由。兄のことを隠す理由」
黒瀬先輩の目が鋭くなる。
「兄?」
「黒瀬悠真」
その名前を出した瞬間、スマホが震えた。
> 黒瀬悠真:関連記録浮上
> 雨宮サキ:記録復元準備
> 黒瀬リョウ:防衛反応
黒瀬先輩は、もう笑っていなかった。
「どこまで知っている」
「一度、全部聞きました」
レンが角から歩いてきた。
「あなたから」
「雨宮くん」
「雨宮レンです」
レンの声は低い。
「雨宮サキの弟です」
黒瀬先輩は目を伏せた。
「……そうか」
ミカが言った。
「先輩。私を助けたいなら、私の声を聞いてください」
黒瀬先輩はミカを見る。
「君は、瀬名くんの近くにいると危ない」
「それも聞きます」
「君は死亡候補になっている」
「それも知っています」
「なら」
「だからって、私を勝手に動かさないでください」
ミカの声が少し強くなる。
「私は避難物じゃない。矢印でもない。朝倉ミカです」
黒瀬先輩は黙った。
廊下の向こうで、蝉の声が聞こえる。
夏は、同じ顔で続いている。
でも、もう同じ会話ではない。
「場所を変えよう」
黒瀬先輩が言った。
「話す」
その声は、爽やかではなかった。
少し掠れて、少し弱くて、初めて年相応に見えた。
「ただし」
ミカが言う。
「今度は、私もいます」
黒瀬先輩は頷いた。
「分かった」
「それと」
「何?」
「安全な場所は、私も一緒に決めます」
黒瀬先輩は、今度はすぐに頷かなかった。
その沈黙だけで分かる。
彼の中にはまだ、手放せない正しさがある。
ミカを守るためなら、自分が決めるべきだという考え。
それが、三周目の危険になる。
僕はスマホを見る。
> LOOP:03
> 黒瀬リョウ:関連経路 上昇
> PHASE 3:火災記録再発 上昇
> 死亡経路:再計算中
火災記録。
旧体育館。
安全な場所という罠。
まだ八月二十五日なのに、次の死因はもう口を開けている。
僕はミカの横に立った。
レンも、反対側に立つ。
白石先生が少し離れて続く。
黒瀬リョウは、僕たちを見て、ゆっくり息を吐いた。
「分かった。話すよ」
その言葉を聞いた瞬間、遠くの町内放送が鳴った。
ざり。
ノイズ。
『八月三十一日……』
僕たちは全員、足を止めた。
『旧体育館……』
ミカの手が、青いヘアピンに触れる。
レンの顔が青くなる。
『火災記録……再照合……』
放送はそこで途切れた。
廊下には、蝉の声だけが戻る。
黒瀬先輩が低く言った。
「旧体育館?」
レンが答えた。
「あなたの正しさが、そこへつながるかもしれません」
ミカは震える息を吐いた。
それでも、前を見た。
「じゃあ、聞こう」
彼女は言った。
「今度は、全部」
八月二十五日。
三周目の初日。
白いライトの記憶を抱えたまま、僕たちは黒瀬リョウの正しさへ踏み込んだ。




