町内放送は嘘をつく
八月二十七日の朝、町内放送のチャイムで目が覚めた。
顔認証より先に、町に起こされる朝。
最悪だ。
『こちらは、三架町……』
窓の外から、少し割れた音が聞こえてくる。
『本日、三架町納涼花火大会に向けた放送設備の点検を行います。試験放送が流れる場合がありますので、ご注意ください』
僕は布団の上で固まった。
放送設備。
点検。
試験放送。
二十五番スピーカー。
群衆誘導補正。
車道側導線。
その言葉たちが、一斉に頭の中で起き上がる。
「……朝から物騒すぎるだろ」
スマホを見る。
八月二十七日。
ちゃんと進んでいる。
戻ってはいない。
それだけで少し息ができる。
でも通知欄には、もうクロノグラフの文字があった。
> LOOP:02
> 対象:朝倉ミカ
> 死亡記録:未固定
> 次回危険予測:
> 8/31 23:41
> 第三橋車道側
> 群衆誘導補正
朝から人の死亡予定を表示してくるスマホ。
文明、そろそろ一回反省してほしい。
ミカからメッセージが来ていた。
> 起きた。
> 町内放送で心臓が朝礼した。
> 生きてる。
僕はすぐ返す。
> 起きた。
> 心臓、出席確認。
> こっちも生きてる。
すぐ既読。
> 今日、町の声と勝負だね。
> うん。
> 町の声を奪い返す。
> かっこいい。
> でもミナトが言うと、ちょっと無料版の反乱っぽい。
> 無料版にも権利はある。
> じゃあ今日は課金しといて。
> 命がかかってるので。
> 私の台詞。
少し笑った。
笑えたことに驚いた。
でも、次のメッセージで胸が重くなる。
> 車道、怖い。
僕は画面を見つめた。
ミカは、もう自分の死を隠さない。
一周目で落ちたことも。
二周目で車道側に押し出されるかもしれないことも。
怖いと、ちゃんと言う。
それは強さだ。
でも、強くならなくていいはずのところまで、ミカは強くならされている。
> 怖いまま来て。
> 一人で怖がらせない。
送信する。
少し間があって、返事。
> 予約完了。
*
朝食はトーストだった。
冷やし中華ではない。
この時点で世界に感謝状を送りたい。
「今日も出かけるの?」
母さんが聞いた。
「うん。学校と、川沿い」
「川沿い?」
母さんの声が少し硬くなる。
「花火大会の準備?」
「そんな感じ」
「ミナト」
「うん」
「第三橋には近づきすぎないでね」
僕はパンを持つ手を止めた。
「母さん、第三橋のこと覚えてるの?」
「覚えてるっていうか……」
母さんは少しだけ眉を寄せた。
「昔から、あそこは何となく嫌なの。事故があったとか、危ないとか、町内会でも何度も話が出てた気がする」
「三年前?」
「たぶん。いや、もっと前からかな」
たぶん。
母さんの記憶は曖昧だ。
でも、完全に消えているわけではない。
町が記録を隠しても、人の中には染みみたいに残る。
嫌な場所。
避けたい橋。
思い出せない事故。
そういう形で。
「母さん」
「何?」
「僕の名前、言って」
母さんは少し呆れたように笑った。
「また?」
「うん」
「瀬名湊斗」
ちゃんと呼ばれた。
その声が、胸の奥に留まる。
「ありがとう」
「最近、それ流行ってるの?」
「存在確認キャンペーン」
「何それ、町内放送で流す?」
「それはやめて」
言ってから、少しだけ苦笑する。
今日は本当に、町内放送で名前を流す話をしに行くのだ。
ただし、僕の名前ではない。
ミカの名前を。
朝倉ミカは生きていると、町に言わせるために。
*
午前十時。
三架高校の放送室に、僕たちは集まった。
僕。
ミカ。
レン。
白石先生。
黒瀬リョウ。
放送室は小さな部屋だった。
壁には吸音材。
古いミキサー。
マイク。
棚には文化祭の放送台本や、体育祭の古い進行表が積まれている。
窓の向こうには、誰もいない校庭が見えた。
夏休みの学校は静かだ。
でも、この部屋だけは、声の置き場みたいに妙な圧があった。
「学校の放送室と町内放送は、完全には別系統です」
レンが言った。
黒いノートを開き、端末を机に置く。
「ただし、花火大会当日は学校側の臨時本部から、町内放送の一部へ接続できるようになります。ボランティア本部の補助回線です」
黒瀬先輩が資料を机に広げた。
「去年も使った。迷子案内とか、救護テントの案内とかね。今年は第三橋周辺の誘導が重点項目になってる」
「その誘導が、ミカを車道側へ押し出す」
僕が言うと、黒瀬先輩は目を伏せた。
「そうなる可能性が高い」
「たぶん禁止」
ミカが言った。
声は硬い。
黒瀬先輩は少しだけ苦笑した。
「そうだね。高い」
ミカは資料を見た。
第三橋から車道側へ流す赤い矢印。
神社側広場へ逃がす青い矢印。
その二つが、地図の上でぶつかっている。
「私、矢印に殺されるの嫌なんだけど」
「言い方」
僕が言うと、ミカは唇を引き結んだ。
「でも、そうでしょ。誰かが引いた矢印で、私が車道に出される」
白石先生が低く言った。
「人を守るための線が、人を殺すことがある」
「先生の手と同じですか」
ミカが聞く。
空気が一瞬、止まる。
白石先生は逃げなかった。
「ああ」
短く答えた。
「俺はお前を遠ざけようとして、落とした。今度は町がお前を遠ざけようとして、車道へ押すかもしれない」
「じゃあ、遠ざけるんじゃなくて」
ミカは地図の上に指を置いた。
「私がどこにいるかを、ちゃんと見てもらう」
レンが頷く。
「はい。単純な避難ではなく、生存認識を増やす必要があります」
「つまり?」
「朝倉先輩の名前を流します。さらに、車道側へ誘導しない音声を流す」
レンはノートを読み上げた。
「候補文です」
> 朝倉ミカは生きています。
> 第三橋周辺の皆さん、車道側へ出ないでください。
> 押さずに、神社側広場へ移動してください。
> 係員は青いヘアピンの少女を確認してください。
> 繰り返します。
> 朝倉ミカは生きています。
「青いヘアピンの少女」
ミカが自分のヘアピンに触れる。
「目立ちすぎない?」
「目立たせる必要があります」
レンが言った。
「外部認識が増えれば、死亡記録の固定率を下げられる」
「でも、町内放送で『朝倉ミカは生きています』って流れたら、普通に怖くない?」
僕が言う。
「迷子放送よりだいぶホラーだぞ」
「だから公的な案内に混ぜる必要があります」
黒瀬先輩が言った。
「僕の声、先生の声、それから可能なら町内会側の誰かの声。学生の悪ふざけではなく、正式な誘導に見せる」
「正式に見せる、じゃなくて正式にする」
ミカが言った。
黒瀬先輩はミカを見る。
「どう違う?」
「私は、隠れて助かりたくないです」
ミカの声は震えていた。
でも、はっきりしていた。
「勝手に町内放送を乗っ取るんじゃなくて、ちゃんと私の名前を出してください。私が生きてるって、堂々と言ってください」
白石先生が小さく息を吐いた。
「堂々とやれば、御堂が止めに来る」
「隠れてやっても、御堂さんは止めに来ますよね」
ミカは白石先生を見る。
「だったら、私の名前を隠さないほうがいい」
その言葉に、誰もすぐには反論できなかった。
前の周回まで、僕たちはずっと隠されたものを追ってきた。
サキさんの名前。
黒瀬悠真の罪。
白石先生の沈黙。
僕の仮登録。
ミカの怖さ。
隠した結果、全部が歪んだ。
なら、今回は隠さない。
たとえ、それが危険でも。
*
白石先生は、机の上に両手を置いた。
「当日、俺は朝倉から五メートル以上離れる」
「先生」
ミカが眉を寄せる。
「必要なら、誰かに見張ってもらう。俺の手が動いたら止めろ」
「先生、それだと」
「俺は危険因子だ」
「そういう言い方、やめてください」
ミカの声が強くなった。
白石先生が口を閉じる。
「先生が怖いのは本当です。前に先生の手で落ちたのも覚えてます。だから怖いです」
ミカはまっすぐ言った。
「でも、先生を危険物みたいに遠ざけるだけなら、それも同じじゃないですか」
「同じ?」
「私を避難物みたいに扱うのと同じです」
黒瀬先輩の顔が少し動いた。
たぶん、それは彼にも刺さった。
「危ないものは遠ざける。守りたいものは囲う。安全な場所に置く。そうやって本人の声を聞かないから、おかしくなる」
ミカは自分の胸に手を当てた。
「先生は、近づかないだけじゃなくて、ちゃんと私を見てください。怖いなら怖いって言ってください。動きそうなら動きそうって言ってください」
白石先生は、目を伏せた。
「教師が生徒に言う言葉じゃないな」
「じゃあ、夏の特別補習ってことで」
「補習の内容が重すぎる」
先生の声が、少しだけいつもの乾いた冗談に戻った。
ミカも少し笑った。
「命がかかってるので」
「便利な言葉だ」
「かなり便利です」
白石先生は、ようやく小さく頷いた。
「分かった。距離を取るだけじゃなく、声を出す。俺が危ないと思ったら、自分で言う」
「はい」
「ただし、朝倉も言え」
「何をですか」
「怖い。止めて。助けて。近づかないで。そういうやつだ」
ミカは少しだけ目を伏せた。
「言います」
「聞く」
白石先生は言った。
「今度は」
その「今度」は、白石先生にとってはただの言葉かもしれない。
でも、僕たちにとっては違う。
一度失敗した夏の、二度目の今度。
*
録音を始めた。
レンが端末を操作し、学校のマイクを二十五番スピーカー用の仮音声に変換する。
前回は、僕、ミカ、レンの三声だった。
今回は違う。
町の声を奪い返すためには、個人の声だけでは足りない。
先生の声。
ボランティア本部の声。
見ていた人の声。
そして、ミカ自身の声。
まず、僕がマイクの前に座った。
赤いランプが点く。
僕は息を吸う。
「朝倉ミカは生きています」
自分の声が、ヘッドホン越しに戻ってくる。
変な感じだ。
でも、逃げない。
「第三橋周辺の皆さん、車道側へ出ないでください。押さずに、神社側広場へ移動してください」
続いて、ミカ。
彼女はマイクの前に座ると、少しだけ唇を噛んだ。
「朝倉ミカです」
自分の名前を、自分で言う。
前より、はっきりと。
「私は生きています。押さないでください。車道に出ないでください。私も、みんなと一緒に神社側広場へ行きます」
その声は震えていた。
でも、震えたまま届く声だった。
次にレン。
「雨宮レンです。記録確認。朝倉ミカは生存中。群衆誘導を神社側広場へ変更します」
「名前、入れるの?」
ミカが聞く。
レンは頷いた。
「姉の弟としてではなく、僕自身の声も残します」
それは、小さな変化だった。
でも、たぶん大事な変化だった。
次に白石先生。
先生はマイクの前で少し固まった。
「慣れないんですか?」
僕が聞くと、先生は苦い顔をする。
「授業で喋るのと、命の放送は違う」
「名言っぽい」
「名言にするな」
先生は深く息を吸った。
「三架高校、白石です」
声は少し低い。
でも安定していた。
「第三橋周辺の皆さん、車道側へ出ないでください。神社側広場へ移動してください。朝倉ミカさんを確認した方は、押さずに道を開けてください」
最後に、黒瀬リョウ。
彼はマイクの前に座ると、いつもの爽やかな声を出そうとして、一度止まった。
「黒瀬先輩?」
ミカが呼ぶ。
黒瀬先輩は小さく笑った。
「いつもの声で言うと、また人を動かそうとしてるみたいになる」
「今も動かす放送ですよ」
レンが言う。
「そうだけど」
黒瀬先輩は少し考えてから、マイクに向き直った。
今度の声は、いつもの爽やかさより少し弱かった。
「花火大会ボランティア本部、黒瀬リョウです。第三橋周辺の皆さん、係員の指示に従い、車道側ではなく神社側広場へ進んでください。朝倉ミカさんは避難対象ではありません。生きている参加者です。押さないでください」
ミカが目を見開いた。
「今の」
「避難対象じゃない」
黒瀬先輩はマイクから離れて言った。
「言っておくべきだと思った」
ミカは少しだけ笑った。
「はい。言っておくべきです」
レンが端末を操作する。
> 上書き音声:仮登録
> 音声数:5
> 生存認識:増加予測
> 群衆誘導補正:競合中
「競合中」
僕が画面を見る。
「勝ってないのか」
「まだ仮登録です」
レンが言う。
「本登録には、本部認証と、町内放送側の承認、もしくは非常時の手動割り込みが必要です」
「町内放送側の承認って」
ミカが言う。
レンは頷いた。
「はい。管理者、御堂です」
空気が重くなる。
「じゃあ」
ミカが言った。
「御堂さんにも、聞かせよう」
白石先生が顔を上げる。
「朝倉」
「隠しても止められるなら、先に言います。私は死にたくない。私は生きてる。私は避難物じゃない。そういう放送を流すって」
「危険だ」
「分かってます」
「御堂は、お前を人として見ない」
「だから、人として話します」
ミカはまっすぐだった。
怖いのに。
いや、怖いからこそ。
「処理って言われたら、名前を言います。朝倉ミカですって」
その言葉を聞いて、僕は思った。
ミカはただ守られるためにいるんじゃない。
ミカ自身が、この記録と戦っている。
*
午後、僕たちは町役場の防災管理室へ向かった。
黒瀬先輩が事前に「放送内容の確認」として連絡を入れていた。
普通なら高校生が簡単に入れる場所ではない。
でも、花火大会ボランティア本部の代表である黒瀬先輩と、学校側担当の白石先生が一緒なら話は別らしい。
町役場の二階。
防災管理室。
扉の前に立つだけで、胸が重くなる。
ここが、町の声の喉だ。
御堂は中で待っていた。
白髪混じりの髪。
細い眼鏡。
役場の腕章。
穏やかな表情。
まるで、町の安全を心から考えている大人の顔。
でも僕たちは、知っている。
この人は、人を「処理」と呼ぶ。
「白石先生。黒瀬くん。それに、生徒さんたちも」
御堂は静かに笑った。
「放送内容の確認と聞いています」
「はい」
黒瀬先輩が資料を出す。
「第三橋周辺の誘導について、車道側導線ではなく、神社側広場へ流す案を提出したいです」
御堂は資料を受け取り、ゆっくり目を通した。
表情は変わらない。
「理由は?」
「車道側は、花火終了後に送迎車と作業車が入ります。人の流れが乱れた場合、接触事故の危険があります」
「それは計画上、係員で制御します」
「制御できない場合があります」
「できるように計画しています」
柔らかい声。
でも、壁みたいだった。
御堂は資料の中にある録音原稿を見つけた。
そこで、初めて目が少し動く。
「朝倉ミカ」
御堂が名前を読んだ。
ミカの体が強張る。
僕は隣で手を伸ばしかける。
でも、ミカは自分で一歩前に出た。
「はい」
御堂がミカを見る。
「あなたが、朝倉ミカさんですね」
「はい。朝倉ミカです」
ミカは自分の名前をはっきり言った。
スマホが震える。
> 外部認識を検出
> 朝倉ミカ:生存認識増加
> 固定率:一時低下
御堂の視線が、一瞬スマホへ向いた。
見えているのか。
あるいは、分かっているのか。
「この文面は、混乱を招きます」
御堂は言った。
「特定個人の名前を放送に乗せる必要はありません」
「あります」
ミカが言う。
御堂の目が、少し細くなる。
「なぜ?」
「私が、そこにいる人だからです」
「誘導に必要なのは個人名ではなく、集団の流れです」
「私は集団じゃありません」
ミカの声は震えた。
でも、負けていなかった。
「朝倉ミカです」
御堂は、しばらくミカを見ていた。
そして、微笑んだ。
「若い方は、自分の名前を大事にする」
「大人はしないんですか」
僕が言うと、御堂がこちらを見る。
「瀬名湊斗くん」
名前を呼ばれた。
ぞっとした。
「君も、名前には敏感でしょうね」
「ええ」
僕は答えた。
「出席簿から消えると困るので」
白石先生が少しだけ僕を見た。
御堂は表情を変えない。
「記録上の不安定さは、事故につながります」
「不安定なのは、僕たちじゃなくて町の記録じゃないですか」
言った瞬間、防災管理室の空気が冷えた。
黒瀬先輩が息を呑む。
白石先生は止めなかった。
御堂は静かに資料を机へ置いた。
「町の記録は、町を守るためにあります」
「人を消しても?」
レンが言った。
声は低い。
「雨宮サキを消しても?」
御堂の目が、初めてはっきり変わった。
「その名前を、どこで」
「雨宮レンです」
レンは言った。
「雨宮サキの弟です」
御堂は黙った。
その沈黙は、認めたようなものだった。
スマホが震える。
> 雨宮サキ:外部認識を検出
> 御堂:関連記録浮上
> 雨宮サキ:記録復元率 60% → 63%
レンは続ける。
「姉は処理ではありません」
「……」
「記録から消された人間です」
御堂は、ゆっくり息を吐いた。
「不完全な記録は、町を危険に晒します」
「だから誰かの死で閉じるんですか」
ミカが聞いた。
御堂は答えない。
答えないことが、答えだった。
白石先生が一歩前に出た。
「御堂さん。三年前、俺は見ていました」
御堂の顔が、わずかに硬くなる。
「白石先生」
「雨宮サキは、放送を戻そうとしていた。町に記録させようとしていた。あなたはそれを止めた」
「混乱を防ぐためです」
「その結果、雨宮サキの名前は消えた」
「必要な処理でした」
その言葉が出た瞬間、ミカが小さく息を呑んだ。
レンの拳が握られる。
僕も、奥歯を噛んだ。
必要な処理。
またそれだ。
人の名前を、そんなふうに呼ぶな。
「朝倉ミカは処理じゃない」
僕は言った。
「雨宮サキも処理じゃない。黒瀬悠真の罪も、白石先生の沈黙も、僕の仮登録も、全部、なかったことにはできない」
御堂は僕を見た。
「君たちは、記録の重さを知らない」
「知ってます」
ミカが言った。
「私は、自分が死ぬ記録を見ました」
御堂の表情が止まる。
「橋から落ちました。全部覚えています。だから、もう勝手に処理されたくない」
ミカは震える声で、それでもはっきり言った。
「私は、朝倉ミカです。生きたいです」
スマホが強く震える。
> 朝倉ミカ:自己生存宣言
> 固定率:低下
> 御堂:直接介入準備 上昇
下がった。
でも、同時に上がった。
御堂が直接動く危険。
御堂は、穏やかな顔に戻った。
「放送案は、こちらで検討します」
「却下ですか」
黒瀬先輩が聞く。
「検討です」
「それは却下と同じです」
「黒瀬くん」
御堂の声が少しだけ低くなる。
「お兄さんのこともあります。慎重に行動しなさい」
黒瀬先輩の顔が白くなった。
兄。
黒瀬悠真。
御堂はそこを突けば、黒瀬先輩が黙ると知っている。
でも今回は、黒瀬先輩は完全には黙らなかった。
「兄は、間違えました」
声は震えていた。
それでも、言った。
「黒瀬悠真は、三年前、御堂さんに従って雨宮サキの放送を止めた」
スマホが震える。
> 黒瀬悠真:外部証言を検出
> 雨宮サキ:記録復元率 63% → 67%
御堂の目が冷たくなる。
「今日のところは、お引き取りください」
それは、会話の終わりだった。
でも、こちらも十分だった。
御堂は止めに来る。
そのことが、はっきり分かった。
*
役場を出ると、ミカが大きく息を吐いた。
膝が少し震えている。
僕はすぐに横に立つ。
「大丈夫じゃない?」
「大丈夫じゃない」
ミカは言った。
「でも、言えた」
「うん」
「処理って言われた時、めちゃくちゃ怖かった」
「うん」
「でも、私の名前言えた」
「聞こえた」
ミカは少しだけ笑った。
「よかった」
レンは端末を見ている。
「御堂の直接介入準備が上がりました」
「悪化?」
黒瀬先輩が聞く。
「ある意味では」
レンは答える。
「ただし、隠れていた危険が表に出たとも言えます」
「見えないよりはまし」
白石先生が言った。
「見えない手は止めにくい」
先生がそれを言うと、少し重い。
でも正しい。
僕は役場の二階を見上げた。
窓の向こうに、防災管理室がある。
あそこが町の声の喉。
でも、町の声は御堂だけのものじゃないはずだ。
町にいる人の声。
名前を呼ぶ声。
見ていた人の証言。
生きたいという声。
それも、町の声だ。
「奪い返すっていうより」
僕が呟くと、ミカが見る。
「何?」
「返してもらうんじゃなくて、みんなで言うしかないんだな」
「町の声を?」
「うん」
「じゃあ、声量勝負?」
「ミカの声量なら勝てる」
「失礼。私は品のある大声だから」
「品のある大声って何」
「高級スピーカー」
ミカは少し笑った。
レンが真顔で言う。
「二十五番スピーカーより性能が良いなら採用します」
「レンくん、冗談?」
「半分本気です」
「怖い」
*
夕方、僕たちは再び二十五番スピーカーの点検箱へ向かった。
第三橋手前。
白い古いスピーカーが、電柱の上で沈黙している。
その沈黙が、逆に怖い。
何も言わない口ほど、何を言い出すか分からない。
三本のハズレ棒を差し込む。
かちり。
点検箱が開いた。
レンが端末を接続する。
画面にログが流れた。
> SPEAKER25:仮開放
> 上書き音声:仮登録済
> 町内放送承認:保留
> 本部認証:未取得
> 緊急割込:使用可能
> 管理者:御堂
「保留」
ミカが言う。
「御堂さん、やっぱり通してない」
「想定内です」
レンが言った。
「最終的には緊急割込を使うしかない」
「それって、乗っ取り?」
僕が聞くと、レンは眉をひそめる。
「言葉が悪いです」
「じゃあ何?」
「正当な緊急避難です」
「言葉が強い」
黒瀬先輩が資料を覗く。
「本部認証は僕が取る。当日、本部端末から僕のIDで承認を入れる」
「御堂に止められたら?」
「その時は」
黒瀬先輩は少しだけ笑った。
「兄の名前を使う」
前なら、彼はそんなことを言わなかった。
兄を守るために黙った人が、今は兄の名前を表に出す準備をしている。
それは、黒瀬先輩にとってかなり痛いことのはずだった。
レンは短く頷く。
「お願いします」
「命令じゃないんだ」
「依頼です」
「少し進歩したね」
「あなたもです」
黒瀬先輩は苦笑した。
白石先生が、点検箱の横に立った。
「俺は当日、この近くにいる」
ミカがすぐ顔を上げる。
「近く?」
「五メートル以上は離れる。ただし、放送と人の流れを見られる位置にいる」
「動きそうになったら?」
「言う」
「先生が?」
「ああ」
「本当に?」
「疑うのは正しい」
白石先生は自分の右手を見た。
「俺も俺を疑っている。だから、疑ってくれ」
ミカはしばらく先生を見ていた。
そして頷いた。
「分かりました。私も言います。怖かったら怖いって」
「それでいい」
レンが端末に音声を登録する。
僕たちの声。
ミカの声。
レンの声。
白石先生の声。
黒瀬先輩の声。
すべてが、一つのファイルにまとまる。
> OVERRIDE_AUDIO_02
> TITLE:朝倉ミカ生存誘導
> STATUS:待機
「タイトル、もう少しどうにかならない?」
ミカが画面を見て顔をしかめる。
「実用性重視です」
「私の生存がファイル名になってる」
「重要です」
「そうだけど」
僕は少し笑った。
「じゃあ、ミカ命名版は?」
「えー」
ミカは少し考える。
「町の声を奪い返すやつ」
「そのまま」
「分かりやすいでしょ」
レンは無表情で操作した。
> TITLE:町の声を奪い返すやつ
「本当に変えるな」
僕が言うと、レンは真顔で答える。
「朝倉先輩の意思を尊重しました」
「急に律儀」
ミカは笑った。
怖さの中でも、少しだけ笑った。
その笑い声を、僕は覚えておこうと思った。
町の声に押し流されないために。
*
登録が終わった瞬間、点検箱の画面が赤く明滅した。
> 管理者確認
> 御堂
> 緊急チャイム:予約確認
> 8/31 23:41
> SPEAKER25:優先制御
「緊急チャイム」
レンの声が低くなる。
「前回、一周目でも出ていた」
白石先生が言う。
「二度目として使うつもりか」
「はい」
レンは画面を睨んだ。
「町内放送の承認を保留したまま、緊急チャイムでこちらの音声を潰す気です」
「町の声を奪い返す前に、町のチャイムで上書きされる」
ミカが呟く。
青いヘアピンが夕方の光を受けて、少しだけ赤く見えた。
僕は画面を見た。
八月三十一日、二十三時四十一分。
前回、ミカが落ちた時刻。
次に、ミカが車道側へ押し出されるかもしれない時刻。
「チャイムより先に、名前を流す。物理的な流れも変える」
僕は自分の手のひらを強く握りしめ、みんなの顔を見回した。
「御堂さん一人の声に、僕たちの声で割り込むんだ」
レンが静かに端末を握り直した。
「町の声を増やすんですね」
「そう」
ミカは頷いた。
「御堂さん一人の声じゃなくて、みんなの声にする」
スマホが震えた。
> 生存経路候補を検出
> 朝倉ミカ:外部認識増加
> 群衆誘導補正:競合中
> 御堂:直接介入準備 上昇
上がっている。
御堂も、こちらの動きに反応している。
でも、生存経路候補も出た。
それだけで、少しだけ前に進めた気がした。
*
夜、家に帰る前に、僕とミカは神社側広場へ寄った。
八月三十一日には、ここが避難先になるはずの場所。
今はまだ、何もない。
草の匂い。
街灯の白い光。
遠くの川の音。
ミカは広場の真ん中に立って、周囲を見回した。
「ここに立つんだ」
「怖い?」
「怖い」
「やめてもいい」
「やめない」
即答だった。
「私、自分の足でここに立つ」
「うん」
「でも、手は握って」
「握る」
「人が押してきたら?」
「支える」
「ヘアピン落ちたら?」
「拾う」
「車道側に行きそうになったら?」
「止める。でも理由を言う」
ミカは少し笑った。
「合格」
「本合格?」
「仮合格」
「本合格は?」
「九月一日」
昨日と同じ答えだった。
でも、何度聞いても胸が痛い。
九月一日。
普通の朝。
冷やし中華じゃない朝。
ミカが「生きてる」と送ってくる朝。
そこへ行くために、僕たちは町の声と戦う。
ミカは空を見上げた。
「町内放送ってさ」
「うん」
「小さい頃は、ただの夕方の音だった」
「ああ」
「帰りなさいって言われてるみたいな音」
「分かる」
「でも今は、殺される合図みたいに聞こえる」
僕は何も言えなかった。
ミカは青いヘアピンに触れた。
「だから、戻したい」
「何を?」
「町内放送を、ただの夕方の音に」
その言葉が、静かに胸に残った。
町の声を奪い返す。
それは、御堂から放送権限を奪うことだけじゃない。
町の声を、処理の音ではなく、帰る場所を知らせる音に戻すこと。
ミカが生きて帰るための音にすること。
「戻そう」
僕は言った。
ミカがこちらを見る。
「町の声も、夏も」
「うん」
「九月一日に」
「うん」
ミカは小さく笑った。
「じゃあ今日の確認」
「はい」
「朝倉ミカ、生存確認、継続中」
「瀬名湊斗、存在確認、継続中」
僕たちは、夜の広場で名前を呼び合った。
その声は小さい。
でも、確かにあった。
帰り道、町内放送のスピーカーが一瞬だけ鳴った。
ざり。
ノイズ。
そして、誰のものとも分からない声が混ざった。
『八月三十一日……二十三時四十一分……』
僕たちは足を止めた。
『第三橋……車道側……』
ざり、と音が乱れる。
ミカの手が、破れそうなほど僕の袖を掴んでいた。
次の瞬間、放送は普通のチャイムに戻った。
『本日の試験放送は終了しました』
町は、何もなかったみたいに静かになった。
インカメラに弾かれたあの朝と同じ冷たさで、スピーカーが僕たちを『存在しないもの』として見下ろしている。
「……あっちは、本気だ」
「じゃあ、こっちも」
ミカはスピーカーを見上げる。
そして、はっきり言った。
「朝倉ミカは、生きています」
スマホが震える。
> 朝倉ミカ:自己生存宣言
> 生存経路候補:維持
> 群衆誘導補正:競合中
まだ勝っていない。
でも、消えてもいない。
町の声は、まだ御堂のものだ。
けれど、僕たちの声も、少しずつそこに混ざり始めている。
八月二十七日の夜。
二十五番スピーカーは、静かに僕たちを見下ろしていた。
その白い口が、八月三十一日に何を言うのか。
僕たちはまだ知らない。
でも、もう黙って聞くだけでは終わらせない。




