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4月の午後の日差しが診察室のブラインドの隙間から細い筋となって入り込み、床に舞う埃を白く照らしていた。外は雨の気配もなく、
ただ乾燥した春の空気が街を覆っている。
佐藤健二はレジ袋に入れた折れた聖剣(模造刀)を抱えたまま、力なくパイプ椅子に腰掛けていた。先日の「唐突な対価の要求」の衝撃と
聖剣破損による自己肯定感の喪失。その影響で今の彼は、傍目には勇者どころか生気のない「ただの疲れ切った中年男性」にしか見えなかった。
「……老魔術師よ、もはや隠し通せぬ。実は俺の魂は……異世界の住人に浸食されつつあるようなのだ……」
健二は消え入るような声で告白した。パック寿司のネタだけを剥がして食べるという「知識チート」を閃いてしまった恐怖。自分の中に
自分ではない「中年の魂」が巣食っているという嫌悪感。それが今の健二を蝕む最大の呪いだった。
「奴は……俺の体を乗っ取り、邪神から授けられた『チートスキル』でこの世界を破滅に導こうとしている……。助けてくれ! このままでは
俺は、俺でなくなってしまう!!」
だが、そんな健二の悲痛な訴えに対して山岸院長は手にした文庫本をめくる手を止めることすらせず、鼻で笑いながら言い放った。
「転移者だと? バカバカしい。ケイン殿、それは君の気のせいだ。そもそも論理的に考えてみたまえ。なぜ異世界の魂がわざわざ君のような男に
転移するメリットがあると思うんだね?」
「……な、何? それは俺が勇者だから――」
「今の君は定職を持たず、聖剣は折れ、受診料すら滞納している。勇者としてはもはや『負け犬』と言っていい状態だ。そんな将来性のない個体に
わざわざ異世界から魂が転移してくると思うかね? 私ならもっと若くて未来のある『将来性のある器』を選ぶよ。君に憑依しても待っているのは
貧困生活とその先にある絶望的な老後だけだ」
健二はあまりに辛辣な老魔術師の言葉に絶句する。そしてしばらくの間、小刻みに震えた後にようやく絞り出すように声を出した。
「俺には……もはや憑依される価値すらないというのか……?!」
それは深く、そして残酷に、彼の勇者としての自尊心を抉った。自分を導いてきた老魔術師に、もはや勇者としての価値はないと明言されたのだ。健二は
ガックリと肩を落とし、視線を床に落とした。そして長い沈黙が診察室を支配する中、ふいに山岸は眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら
いつもより更に事務的な口調で健二に切り出した。
「……だがケイン殿。君がそこまで自分の価値を見失い、金銭的にも困窮しているというのなら一つ提案がある」
山岸の言葉に反応して、健二はうつろな瞳のまま顔を上げる。
「……提案だと?」
「ああ。君はここ数年で数多くの妄想……いや、数多くの『冒険』を経験してきた。その勇者としての優れた知識と経験。それを我が神殿のために
役立ててみる気はないか?」
「つまり……どういうことなのだ……?」
「実はこのクリニックには君以外にも様々な『冒険者』が次々とやってくる。だが彼らはまだ世界の常識(ファンタジー世界設定)すら覚束ない者も多い。そこで
君に次代の勇者を導く助言者、つまり『賢者』としてここで働いてもらいたいのだよ」
そう言って山岸はニヤリと口角を上げた。そして未だによく分かっていない健二を置いて話を進める。
「君の仕事は迷い込んできた新米冒険者たちの話を聞き、彼らの世界設定を壊さずに『クエスト』や『試練』を授けることだ。そして上手く行った場合には
給与の一部は滞納している君の受診料に充て、残りは現金で支払おう」
山岸の言葉に健二は混乱した。「それは……勇者を辞めてただの助言者に成り下がるということではないのか……?」そう考えるとどうしても
提案を受け入れることに抵抗があった。
「俺は……最前線で道を切り拓く勇者だ……! 俺の作った道を信じて付いて来た者たちを導かねばならんのだ!」
「ふっ、勇者ケインよ立派な志だ。だが勇者といえど、いつまでも最前線で人を導けるわけではあるまい? 引退後の勇者の人生は存在せず、ただ戦場で
果てるだけなのか? その経験を後進の育成に役立てる方が有意義なのではないか?」
「…………ッ!!」
健二はまるで眉間をデコピンされた時のような強い衝撃を受けた。
「俺に……勇者以外の生き方があったというのかッ……?!」
「そうだ。君はもう戦うには老いすぎたし、手にした聖剣も折れた。だがその豊かな経験は後進の育成に役立つ。どうだねケイン殿、このまま資本主義に
敗北したまま朽ちるか、それとも神殿の賢者として逆に資本主義を飼い慣らすか、今ここで選びたまえ」
老魔術師・山岸の背後にある窓の外では、強い春風で舞った黄砂がキラキラと光っている。健二は手元のレジ袋を強く握りしめながら言った。
「……ふん、老魔術師よ。貴公がこれほど弁が立つとはな、恐れ入ったよ」
健二は相手を讃えながらも、不敵な笑みを浮かべながら力強く宣言した。
「いいだろう! 次なる勇者たちが虚無の王に屈せぬよう、この俺が導いてやる!!」
佐藤健二の「第三の人生」が白衣を着た老魔術師の元で始まろうとしていた。それは救済なのか、あるいはさらなる深い迷宮への入り口なのか、4月の
淡い春の光の中で彼の新たなストーリーが始まろうとしていた。
「だが老魔術師よ。俺は回復系の『スキル』を所持していないが大丈夫なのか?」
「スキル? ああ、資格のことか。問題ない、私なんて医師免許すら持ってないからね」
始まりそうな佐藤健二の新たなストーリー。その破綻はすでに約束されたものなのだろうか? それはまだ誰にも分からなかった。




