第42話 紙片の言葉
表紙の隅に添えられていた文字は、この世界のものではなかった。
かすれかけた細い筆跡。
花模様に紛れるように、小さく書かれている。
思わず目を凝らす。
(……日本語?)
胸がわずかに高鳴る。
見慣れていたはずの形。
けれど、この世界で目にするはずのない文字だった。
(美……咲……)
思わず指先が止まる。
「どうかしましたか?」
公爵夫人の静かな声に、はっと顔を上げる。
「……名前、のようです」
「名前?」
「この世界の文字ではありません。けれど……私には読めます」
公爵夫人の瞳がわずかに揺れた。
「何と書かれているのですか」
もう一度、表紙へ視線を落とす。
消え入りそうな筆跡を確かめるように、そっと唇を動かした。
「――美咲」
静かな室内に、その名だけが小さく落ちた。
公爵夫人はすぐには言葉を返さない。
その名に覚えはないのだろう。
けれど、ただの落書きではないと感じたのか、視線がわずかに鋭くなる。
『名を隠した、か』
セラの声が静かに続く。
『目立たぬ位置に残している以上、意味はあるだろう』
私はそっと文字の辺りを撫でた。
(……?)
紙の感触が、途中でわずかに変わった。
指で触らなければ、見逃してしまいそうな小さな違和感。
見返し紙の端がほんの少し浮いている。
「どうしました?」
「……何か、入っているかもしれません」
机の上に置かれていた細身のペーパーナイフへ手を伸ばす。
慎重に先端を浮いた紙の隙間へ差し入れた。
古い糊を傷めないよう、少しずつ。
紙がわずかに持ち上がる。
その奥に、薄く折られた小さな紙片が見えた。
思わず息を呑む。
「これは……」
指先でそっと摘まみ、崩れぬよう慎重に引き出す。
長い年月を経たのだろう。
小さな紙はわずかに黄ばんでいた。
指先に力を入れすぎないよう気をつけながら、そっと折り目を開く。
古びた紙は想像以上に薄く、わずかな力でも裂けてしまいそうだった。
『慎重にな』
セラの声が低く響く。
小さく息を整え、紙を広げる。
そこに並んでいたのは、やはりこの世界の文字ではなかった。
細く整った筆跡。
一文字ずつ、確かめるように綴られている。
(……やっぱり、日本語)
「読み上げます」
私の言葉に、公爵夫人が息を呑む。
「……帰りたい」
静かな室内に、自分の声だけが落ちた。
一呼吸置いて、次の行を読む。
「でも、帰れない」
公爵夫人は何も言わず、その続きを待っている。
私はそっと次の文字を追った。
「ルシエン様は私の王子様」
思わず、わずかに喉が詰まる。
「愛している」
その一言だけで、紙に残された想いの温度が伝わってくるようだった。
「けれど、あの方が見ているのは“聖女”でしかない」
そこで、かすかに息を呑む。
「わかっている」
短い言葉なのに、静かな諦めが滲んでいた。
公爵夫人の視線が紙へ落ちる。
私は続ける。
「それでもいい」
指先がわずかに震える。
「みんなが幸せになるなら、私にできることは、この世界を守ること」
室内の空気が静かに沈んでいく。
最後の行へ視線を移す。
「短い間だけでも――愛されている夢を見ていたい」
思わず、小さく息が漏れた。
そして、一番下に残された最後の文字を読む。
「アナスタシア。あとはお願いね……以上です」
読み終えた瞬間、沈黙が落ちた。
長い年月を越えて残された想いが、古い紙の上に静かに息づいているようだった。
「……これは」
公爵夫人の声も、どこか低く沈んでいた。
私は紙片を見つめたまま、小さく息を吐く。
「“美咲”という名前の人が残したものだと思います」
『名と文が繋がったな』
セラが静かに呟く。
(ルシエン様……聖女……アナスタシア様……)
こうして文字として残されているのを見ると、もう疑いようがない。
聖女。
この世界へ召喚された少女。
その名前は、美咲。
ふと、視線が絵本の入っていた箱の中へ向いた。
紙片の下に、もう一枚、薄い板のようなものが重なっている。
そっと持ち上げる。
それは小さな肖像画だった。
「……え」
思わず声が漏れる。
描かれていたのは、十代後半ほどの若い女性。
柔らかな髪の流れも、整った輪郭も、静かな眼差しも――
あまりにも見覚えがあった。
(……セレーネ様……?)
一瞬、本気でそう思った。
けれど、違う。
纏う雰囲気がわずかに異なる。
それでも、目元も口元も驚くほどよく似ていた。
「それは、アナスタシアよ。セレーネにそっくりでしょう?」
顔を上げると、公爵夫人が静かに微笑んでいた。
その微笑みには、どこか懐かしさのようなものが滲んでいる。
もう一度、肖像画へ視線を戻す。
十代後半ほどの若い女性。
穏やかな眼差しの奥に、どこか芯の強さが感じられた。
「……はい。とても、よく似ています」
思わずそう答えると、公爵夫人は小さく頷いた。
「本来なら、残っているはずのない肖像画なの。幼い頃のもの以外は、すべて処分するよう王家から命じられたそうよ」
公爵夫人の視線が、静かにその肖像画へ落ちる。
「当時のリチャード伯爵が、この一枚だけは何とか手元に残したいと、密かに手に入れて――ここへ隠したのだと聞いているわ」
『……思い出さないか』
セラが静かに言った。
私は肖像画から目を離せずにいる。
『以前、アメリアが話していたことだ』
「アメリア……?」
『歴史の授業で聖女の最期が語られたとき――黒髪の娘が叫んだ件だ』
その瞬間、脳裏にあの日の言葉が蘇る。
――“ちがう! 間違ってる!”って叫んだらしいの
――“あなたは知っているはずでしょう”って
視線がもう一度、肖像画へ落ちる。
セレーネ様によく似た、十代後半の少女。
そして、紙片に残された名前。
美咲。
「……まさか」
「……どういうこと?」
公爵夫人の声が静かに落ちる。
私は紙片と肖像画を見比べながら、ゆっくりと言葉を探した。
「ミラベル様の中にいるのは――たぶん、聖女です」
「聖女……」
「召喚された少女、美咲」
公爵夫人の表情がわずかに強張る。
「そして、セレーネ様を……アナスタシア様だと思っているのかもしれません」
「セレーネを……」
小さく呟いたあと、公爵夫人は息を止めるように黙った。
「以前、セレーネから聞いたわ」
静かな声だった。
「突然、“あなたは知っているはずでしょう”と詰め寄られたと」
視線が肖像画へ落ちる。
「何を言われているのかわからなかった、と」
ふいに、セラが顔を上げた。
『……外が騒がしいな』
金の瞳が扉の向こうをまっすぐ見つめている。
私は思わず耳を澄ませたが、何も聞こえない。
この部屋には結界が張られている。
外の音も気配も遮られていて、人の耳ではほとんど届かないはずだった。
「何かわかるの?」
『気配が乱れている』
低い声が返る。
『人の動きが増えた。わずかだが、魔力の流れも慌ただしい。一度出た方がいい』
「……そういたしましょう」
公爵夫人が小さく頷いた。
丁寧に紙片と肖像画を箱へ戻し、棚へ収めて扉へ向かう。
鍵が静かに回り結界が解かれる。
部屋を出ると、再び静かな魔力が張り巡らされた。
廊下へ出た瞬間、屋敷の空気がわずかに変わっているのを感じた。
遠くを行き交う使用人たちの足音が増え、どこか張りつめた気配が漂っている。
そのままサロンへ向かうと、扉の向こうに一人の男性の姿があった。
王宮から戻ったばかりなのだろう。まだ外套も脱がぬまま、こちらへ視線を向ける。
穏やかな面差しに、やわらかな空気を纏った人だった。
けれど、その立ち姿には自然と人を落ち着かせるような静かな品がある。
隣に立つ公爵夫人と並ぶ姿が、どこかよく似合って見えた。
公爵夫人が静かに口を開く。
「主人のアーサー――オルディアス公爵です」
紹介を受けた男性は、やわらかく目元を和らげた。
「初めまして。イグナリエル伯爵令嬢。話は聞いているよ」
私は姿勢を正し、深く礼をした。
「初めまして。お招きいただき、ありがとうございます」
「そんなに堅くならなくていいよ」
アーサー様はやわらかく微笑んだあと、静かに本題へ移る。
「ちょうど王宮から戻ったところなんだ。ソレイユ寮の火事で、ローゼンベルク嬢とフォスター嬢が王宮へ避難して来た」
「王宮に……」
思わず声が漏れる。
「火元がローゼンベルク嬢の部屋だったそうでね。本来なら何があったのか詳しく聞きたいところだったが、もう夜も遅い」
その声音は穏やかなままだった。
(ミラベル様の部屋が火元……)
「今日は王宮で用意した部屋に休んでもらっている。話は明日、改めて聞くことになるだろう」
そう告げると、アーサー様は私たちへ穏やかに視線を向けた。
「こちらも今日は遅い。続きはまた明日にしよう」
静かにそう言い残し、そのままサロンを後にする。
扉が閉まると、公爵夫人がゆっくりと私へ向き直った。
「今日ここで話したこと――あなたのことも含めて、主人に伝えてもよろしいかしら。絵本のことも」
「もちろんです。構いません」
そう答えると、公爵夫人はやわらかく頷き、近くに控えていた侍女へ視線を向ける。
「客間へご案内して」
「かしこまりました」
侍女に案内され、客間へ向かう。
扉が開くと、そこには見慣れた姿があった。
「……オルガ」
伯爵家から同行していたオルガが、静かに一礼する。
「お待ちしておりました、リーナ様」
その姿を見た瞬間、張りつめていた気持ちが少しだけ和らいだ。




