Day2, Oct. Γνῶθι σεαυτόν.
注意:投稿者は泣く子も黙る文系大学生なので、理系分野への知見はカスです。
「呼んだだけなら最初から呼ぶなや! です!」
つい地の文の私が出てしまった。
昂った心は、一晩を経て静ま――るわけもなく、だからこそこうして後輩に八つ当たりしているのである。
「食堂の床拭き、エマだけでもう半分はやったんっすけど」
「そんなことを今問題にしているのではありません」
「同一労働同一賃金の原則を守れー!」
「それは学園にでも言ってください」
けれどもそんなわけのわからない理論を持ち出せば間違いなく首が飛ぶだろう。
そんな与太話はともかく、アイツの言うところだと、そろそろ――
「クリスティーナさん、おはようございます」
朝の気だるい、だけど心地よいまどろみをぶち破ったのは、「また『公子様』が会いたいと言っている」という知らせだった。
しかも朝の清掃時間に。
普通に邪魔なので時間帯をずらせないかと訊いたが、「私はただの連絡係だから。厨房係で忙しいんで後はよろしく」と言い残してアイツは部屋を出ていってしまった。
そして、今のこの襲来に至るわけである。
「まだ清掃中ですので、お部屋にてお待ちになっていただかないと」
「床拭きは半分終わっているじゃないですか」
そう言って、イレーネは湿った床板の方を指さす。
「そういう屁理屈は公子様譲りですね。床掃除だけで事前準備は終わらないんですよ」
「では、また来ますね」
そう一言残して、来た道を帰っていった。
――イレーネに気を取られて気づかなかったけど、男の子も一人来ていた。
確かあの子は、昔海峡警備隊に絡まれてたバルテルス君?
「はえー、トレヴァ市長の息子さんっすか」
「物知りですね」
「船上使用人っていうのは常に話題に飢えている生き物なんすよ」
公子様に関することなら殊更、とエマは付け加えた。
気づけば床拭きはほとんど終わっていた。
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今日の当番の時間も終わり、バックヤードで休憩中。
それほど仕事をしていないのに、何故か疲れた。
「今、お時間よろしいですか」
「ふぇ!?」
天下のヒエルソリア生が文盲じゃどうしようもない。
「学生さんだからって何をしたっていいわけじゃありませんよ。入口の貼り紙が読めなかったのですか」
イレーネは不思議そうな顔で答える。
「エマさん曰く、『今は他に誰もいないから大丈夫』と」
確かにそうだけれど、これじゃ気が全く休まらない。
私の周りにはどうやらフレネミーが多いらしい。
「昨日はすぐ帰らせましたけれど、どういう心づもりだったのしょうか」
「あなたがどのような人か見たかっただけですよ。それも済んだので、今日はお話でもしようと」
意外にも、私はその言葉から他意を感じなかった。
アイツみたいな気軽さも感じなかった。
「あなたが私をどう思っているのかは知りませんが、私は一緒に話していて面白い人間ではありませんよ」
「ヨハンはあなたといつも楽しくお話していると言っていましたが......」
「認識に齟齬があるようです。公子様の言葉を真に受けているようではまだまだですね」
その言葉を言い切るのを待たずに、イレーネは近づいて来る。ちょっと挑発しすぎたかな、と反省させられるくらいの距離だ。
薄化粧ではあるものの、淡い柑橘系の香りがする。
「ここは一つヨハンの真似事をしてみましょうか。あなたの認識をこそ矯正してあげましょう」
イレーネはそう言って、はめごろしの窓の方に視線を向ける。
「あの海の名前、分かりますか?」
「シュヴァルツェス海ですけど、それがどうかしたんですか」
「どうして、『黒い海』なのでしょうか」
言われてみれば、考えたこともなかった。
窓の向こうに広がる海は、気持ち良いくらいに青々としている。
「見当もつきませんね......」
「やっぱりこんなクソみたいな質問でも考えてくれるんですね」
なら聞くなや......
「ちょっと黒っぽいかららしいですよ、海水が」
「休憩時間も終わりそうなので、そろそろお暇させていただきま――」
「エマさんから休憩時間は1時間と聞いていますが、もしかしてあなた、チステード語話者ではないのですか?」
そうだとするなら今私達は何語で話しているのだろうか。
そして本格的にエマとの関係を見直さないといけない。
浮かせた腰を渋々元に戻す。
「早く話を続けてください」
こうなったらヤケだ。公子様の真似事がしたいんだったら徹底的に付き合ってやる。
「じゃあ、奥のキッチンが見えるとこまで行きましょうか」
結局立つんかい!
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使用人のバックヤードは細長い間取りになっている。
十中八九その他の部屋を配置して余った空間に作っただけなのだと思うが、意外と機能的で、二階の大体の主な作業場所に行きたいなら、ここを経由するのが近道だ。
もちろん、キッチンもその一つ。
「あそこの生け簀、見えますか?」
「あまり騒がないでください。ここは本来関係者以外立ち入り禁止なので」
キッチンとバックヤードを隔てる壁は板を立てつけただけの簡単なものなので、床との間に数cmの隙間がある。
私とイレーネはその隙間からキッチンをのぞき込んでいる、ということになる。
「一つ気になるのですが、こんな格好になるまでするべきことなのですか」
もしここに無関係の他人が通りかかったとしたら、床にうつ伏せになった女が2人仲良く横に並んでいる様子を目撃するだろう。
「『~するべき』と語れるほど切羽詰まってもいないでしょう」
そうイレーネはぴしゃりと私の異論を跳ねのけた。
「あの魚が泳いでいる水槽を見てください」
活〆した新鮮な魚を供給するのも当艦のサービスであります。
「ただの水槽じゃないですか、これがどうかしたんですか?」
「その隣に真水が入った水がめがありますよね?」
こう会話していると、人を小馬鹿にしたような、意に介していないような態度をとるイレーネが、奇天烈な姿勢をとっているのがおかしく思えてくる。
でも、そんな感情でさえも、イレーネから与えられた偽物のようにも思えてくる。
私はイレーネの色々な面を見ているはずなのに、彼女の素顔は全然見えてこない。
公子様は......どうなんだろう......
―—なんていう思考を打ち消すかのように、私は水槽の近くでせわしなく作業する人間に目を向けた。
アイツだった。
もうこの時点で、皿の時といい、なんとなく嫌な予感がする。
「ありますね」
「それを水槽に入れるとどうなると思いますか?」
どうなるって言ったって、海水魚は淡水に棲めない。それだけの話だ。
「魚が死にます」
「では、それはなぜ?」
海水魚だからです、と答えてみても意味がないのは何となく分かる。でもそれ以外の答えが見つからないから黙るしかない。
そうして床に立てた顎が痛んでくるころに、イレーネは話し始めた。
「キーとなるのは密度です。一般に、密度が高い物体は沈み、低い物体は浮きます」
「密度ってなんだっけな?」と用語の理解に手間取っているうちに、助け舟を出された。
「うんちを想像してください」
――と思っていたが、助け舟どころか泥船だったようだ。
泥で例えたことをすぐに後悔した。
「えー、大便?? がどうかしたんですか?」
「クリスティーナさんは、ゆるいうんちと硬いうんち、どちらが水に浮くと思いますか?」
学校にこんな子いたなぁ。性別と容姿は別として。
一回も話しかけたことないけど。
「それは、まあ、ゆるい方? ですかね?」
「そうです。そのゆるいうんちを真水に置き換えて考えてください」
「あの、一つ言いたいことがあるのですけど」
「そして硬いうんちを海水に――はい、なんでしょうか」
「わざわざその言葉を使う必要あります?」
イレーネはさも当然かのように答える。
「前に話したときはこれでウケたのですが」
まあ、当然か。カップにパンツ詰めるような人が近くにいるわけだし。
「そこまで言うならまともに話しましょうか。
要するに、重い海水は下に沈み、軽い淡水は上に浮くように固定され、下層へと魚の呼吸に必要な酸素が行き渡らなくなる、ということですね」
最初からこう言ってほしかったけれど、合点がいった。
「それと同じことがシュヴァルツェス海でも起きている、ということですか?」
「はい。海峡から流れ込む海水が塩分濃度が高い方です」
イレーネは顔をこちら側に向け、話し始める。二人で見つめ合う形になった。
「海底近くが極度の低酸素状態になることで、なんやかんやで特殊な気体が発生します。それと反応して鉄は錆びつくかのように黒色に変わるわけです」
そう語るイレーネの目は、ただひたむきに理屈を語ることにしか向いていなかった。
近づいて、落ち着いて初めて分かる整った顔立ちに、少し驚く。
でも、私はそれと似た感情を知っていた。
自分の内面へと意識が完全に引き込まれそうになる。
しかし、そうはならない。イレーネは突然立ち上がって言う。
「まあ、魚が死ぬ理由は別にあるんですけどね」
......。
「じゃあこれまでの話はいったい何だったんですか」
休憩時間を無駄話にくれてやるほど私はおおらかではない。
しかし、イレーネは私のそんな怒りなど意に介さず、きっぱりと言い放った。
「『あなたの認識をこそ矯正してあげましょう』と言ったつもりです。どうです、私との会話は退屈でしたか?」
話題は、どうでもよかった。
中身も、しょうもなかった。
でも自然と、退屈ではなかった。楽しかった。
「ヨハンとの会話は、どうだったでしょうか」
どう、と言われたって......
「私、やっぱりあなたとは仲良くなれなさそうですね」
立ち上がろうとする私の前を遮って、イレーネはそう言った。
私がそれに反応する前に、彼女は何かを言いかけた。
「でも、あなたのことを――」
が、キッチンから悲鳴が漏れた。声色的にアイツだ。
今朝適当に応対されたのもあって特に心は痛まなかったが、中をもう一度隙間から覗いてみると、料理用の食塩を鷲掴みにして水槽にぶっこんでいた。
噂で聞いた程度の話だが、その日以降の魚料理は、身がシナシナしてまずかったらしい。
私は賄いの魚料理をあえて食べなかったので、何ともなかったのだが。
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船の上、男が2人、座っている。
地中海へと続く海路には、10月ではあるもののまだ強い日差しが降り注いでいる。
彼らの服は、濡れていた。
手元には、スーツケースが握られている。
「なぁ、結局ここの船には公子様がいるってことでいいんだよな?」
退屈しのぎの材料の紛失をみすみす見過ごすわけもなく、何とか自力で救出した。
しかし彼らにはなぜ公子がクリスティーナのいる船へと向かわないのかが不可解であり、それゆえにできることと言えば甲板に寝そべることしかできなかった。
単に服を乾かしたいだけとも取れる。
「お前も見てただろ? その方向にいったらこの船しかなかったんだから」
「そんなことは分かってる。この船の名前が『連絡船スンシポ』なのも知ってる。
でもよ、俺たちが乗る予定の船は前乗ったのと同じやつだろ? 『スンシポ』ってなんだよ? 明らかにチステード船じゃねーよな?」
そう言って、足をジタバタさせる。
周知の事実をわざわざ質問にしたところで、その答えが返ってくることはない。
「行き先は学園領エスケンデレイヤかぁ。残骸を預けるアテが外れちまったなぁ」
「やっぱり海に捨てる?」
「今度はお前だけ海に放り投げてやる」
それを聞いた一人が、ピタリと足を止めて訊く。
「エスケンデレイヤで何をするんだ? 別に俺たちが受ける授業もないよな?」
「......観光、とか?」
「というか! 俺たちと公子様って同じ学年だろ? だったらそんなとこに用なんてあるか?」
「用って......まさかこれに関係するのか?」
アタッシュケースへ向けられた視線は、未知への怯えの色も孕んでいた。
だが、生来の無鉄砲さがそれを塗りつぶす......までには至らず――
「なら、なおさらケースの中身が見つかったらマズいんじゃないか?」
二人はひっくり返った蟹のように、手足をバタつかせた。
蟹は、真っ直ぐ正面には進めないのである。
何人かに名前を付けていないのは、単に面倒くさいからです。
「アイツ」は同僚の女の子を指すので、適当な名前を付けてやってください。
機内ちゃんでもいいです。
ゆる募ということにさせてください。
ここでの活〆は、生け簀にいた魚を殺すことです。
日本伝統の脳髄を潰すやつではないです。




