~Kの場合~
いて座の見える時期が終わろうとしていた。
南の空に南斗六星の一部が確認できる。空には他の星座も多く見えるのに、わずかに顔を覗かせるてんびん座がやけに目に付くのはきっと己の心境のせいなのだろうと、彼は思った。
裁きを受けるのは己か彼か。もしくはその両方か。
深緋篤志―――コキアケアツシ―――は、宇宙を身近にして育った。自宅近くにロケットの打ち上げの施設があり、イベントがあると一人でもそれを見に行った。
望遠鏡を買ってもらってからは夜になると何時間もそれをのぞき込み、星の煌めきに夢中になった。恒星、惑星、衛星、星雲、流星群。人の手の及ばない先にある美しい造形は、もどかしい憧憬を彼の中で募らせていくには十分な魅力を持っていた。
それが変わったのは、中学だ。“理科”と総称された学習要綱の中に、その写真はあった。
光学顕微鏡で撮られた、ニューロンと呼ばれる脳の働きを司る神経細胞だ。光学的着色がなされているとはいえ、その輝きには宇宙に通ずる美しさがあって、ともすれば手に触れられるそれに彼はまたのめりこんだ。
その興味が暴走しなかったのはひとえに当時の恩師のおかげで、彼の興味を正しく理解し、正しく導いた。そのため、変人と囁かれたものの友達は多く、大学時代には恋人と呼べる関係の女性もいた。
医学部を志望したのは実は使命感からではなく探求心からで、理学部でなかったのは己の手でその宇宙の広がりを作り上げたかったからだ。脳神経外科という世界に己の居場所を定めたのも、彼にとっては自然なことだった。
人体の神秘に己の意思を投じる。小宇宙における異物を取り除き、深淵に光が出現する様は芸術のようで。達成感と興奮が汗とともに噴き出す感覚は何物にも代えがたかった。
そんな彼が基樹に会ったのは、先輩に声を掛けられて就職した常磐会のレセプションパーティの会場で、彼がまだ赤ん坊の時だった。赤子を抱いた正幸は幸せそうで、それは後継を望む周りからのプレッシャーから解放されたためでもあったのだろうと同年代の彼は思った。
長じてからは母親が企画したスタッフ向けのイベントも義弟とともによく手伝っていた。
その時には彼らの幼馴染たちもいて、屈託のないその関係はこちらがうらやましく感じるほどだったのだ。働き始めてから自分で買った望遠鏡を、夏の、あるいは冬の夜空に向けて彼らに覗き込ませれば、無邪気に感動してくれた。
常磐会という医療法人は働くうえでも居心地がよく、自分でも驚くほど長く勤めることになった。また、最先端の医療を施すための設備や研究施設も充実しており、経営者である正幸の医学への造詣の深さには感服したものだ。
だが僕は、彼が一線を越えるのを止められなかった。
ひそかに集めたそれらに関する資料を、病院内の執務室のデスクに並べる。乱雑に積まれた自身の学術関連の本や資料の中に埋もれたそれの異質さに、いったい誰が気付くだろう。これをどこに公表すれば彼は…彼らは止まるだろうか。
そんなことを考えた夏の日の夜半。ドアを、誰かがノックした。
「理事長からのお届け物です」
深緋の誰何に答えたのは若い女性のような声だった。時間と差出人にげんなりしながら席を立ち、鍵を開けようとドアに近付く。サムターン錠を回そうと手を伸ばして、けれど一瞬早く外側から開いたそれに心臓が跳ねた。間を置かずドアが開いて、小柄な人影がするりと室内に入り込む。
入ってきた人影が後ろ手に鍵を掛ける音がして。
「御無沙汰してます、深緋先生」
「瑠璃…くん?」
自信が持てなかったのは、己が知っている彼とは様子も雰囲気もかけ離れていたからだ。無邪気に笑っていた彼からは思いもよらぬほどうすら寒くなるような笑みを唇の端に乗せる。
その笑い方は、あの理事長と共通する狂気を思わせた。
「四代目から、プレゼントです」
手渡されたのは、A四の用紙がそのまま入る定形外の茶封筒だった。糊付けされていないそれから中身を取り出して愕然とする。コピー用紙いっぱいに印刷されたのは、望遠で隠し撮られたらしい父と母の写真。年老いた彼らが、実家の縁側で客人とにこやかに茶を飲んでいる。その相手は目の前にいる瑠璃だ。
そんな用紙がステープラーで止められて数枚。
眩暈を覚えて、応接用のソファの背もたれに手を付く。
「とてもお元気でしたよ。たまには帰っておいでと、言付かりました」
朗らかで、いいご両親ですね。
そんなことを理事長は言いたいのではないのだろう。僕が反抗しようとしたのをくみ取って、彼は先手を打ってきたのだ。逃げられはしないのだと。だが、なぜ瑠璃くんは彼に付き従うのか。
「瑠璃くん、彼はもうキミの知っている基樹くんじゃ…」
顔を上げて言い掛けた言葉は、いつの間にか手の触れる距離に近付いていた瑠璃の左手に塞がれて続かなかった。狂気を孕んだ眼が、唇が、笑みの形に歪み、反対の手の人差し指を立てて自分の唇に当てて見せる。大仰なその動作から、目が離せない。
「Shhhh」
小首を傾げ、声を潜めて薄い唇がわずかに動いた。切るのが手間なのか、肩口に届くほどに伸びた髪の隙間から耳を飾るピアスが見える。その色は、ラピスラズリか。
「ダメですよ、センセ。それは知っている人が知っていればいい」
中性的な彼は微笑むと女性のようだ。あるいはその淡いパープルのTシャツもそう思わせる一助を担っているかもしれない。切れ長な目は父親を、薄い唇は母親を思い出させる。妖艶ささえ滲ませて、まだ二十歳に届かない彼は狂気の言葉を続けた。
「紺野先生亡き今、物語の語り手はあなただけ。できれば手放したくない、だそうです」
どうしますか?と小首を傾げる瑠璃の視線が深緋のデスクに向く。そこにあるのは…。
父母と引き換えにそれを寄越せというのか。
「手ぶらでは帰れないんですよ、オレも」
体温の触れる距離に瑠璃が詰め寄る。耳に寄せられた唇から発される低い声が印象を残さず霧散する。
どうするか、など。
歯を食い縛り、ふらつく身体を押してデスクに置いた資料を封筒に詰めて瑠璃に押し付けた。「ありがとうございます」なんて言われる筋合いはない。
「先生が思い悩む必要はないんですよ。悪いのは全部、理事長なんですから」
襟に隠していた細いチェーンを指で絡げ、出して見せる。その石の色は瑠璃のためだけの青だ。
「オレが見てますから、変なことしないでくださいね」
おやすみなさい、とすばしっこく鍵を開けて部屋から滑り出た瑠璃は、また鍵を掛けていった。無邪気な彼らを大人たちは歪めたのだと。けれど逃げられもしないのだと思い知らされる。
顔を覆って、暗闇に逃げ込む。救いはないのだろうか。
三代目にその手術が可能か?と問われたのはもう十五年ほど前になる。深緋は可能だと即答した。他の臓器移植とは一線を画したそれは技術的にも倫理的にも難しいものだったが、その手術におけるそれらは考慮していなかった。
させてもらえなかった、というのは言い訳だろうか。そういった印象操作が、彼は得意だった。
剃髪した二人の身体が麻酔を掛けられて目の前に並んでから、血の気が引いていくのが分かった。踏みとどまれなかったのは手術室の外からこちらを威圧してくる彼のせいか、はたまた持ち前の探求心と己の技術力への挑戦か。
準備の終わった手術室は後戻りを許さない。
術具を受け取った彼は知っていた。もう二度と、術後のあの幸福感を味わうことはできないのだと。
それから数年に一回の頻度で幾度かの手術を施した。技術への信頼が高まった頃、理事長室で「次が最後の対象者だよ」と教えられた。渡された用紙で確認して言葉が詰まる。
「何か問題?」
驚愕で顔を上げた先の視線は子どものように無邪気で何が問題なのか見失いそうになる。言葉を探しながら喘いで、見つからなくて窒息しそうになる。転がり始めた彼の狂気は止められないのか。
「問題ないでしょう?今までと同じだよ」
そうじゃない。もう一人の彼の意思はどうなる。彼の命はどうなる。今までも救えなかった子たちの顔が、浮かんでは消える。
何も言わない深緋に、「やめる?」と声が掛かって、彷徨っていた視線を理事長に戻した。首を傾げた理事長に先ほどの無邪気な視線は最早ない。彼の胸の内を暴くようなそれは何よりも残酷だ。
「やめたいならやめてもいいよ」
それは狂暴なまでの誘惑だった。だが。
彼がやめても理事長は止まらないだろう。前任者にそうしたように、彼の代わりを探し、また練習を重ねる。不要となった彼の末路は考えなくても分かった。酸素を探す魚のように口を開け閉めして、ようやく「やります」と声を絞り出す。
「よかった」
相好を崩した理事長を見ていられなくて、目を伏せた。
何も考えずに技術だけを追い求めればこれほどまでに科学とは、医療とは残酷なのか。細かく歯の根が合わないのは単純な恐怖だ。一部の人に言わせれば創造主と命への冒涜。ないまぜになったそれらが遠慮なく彼を蹂躙する。
「そうだ、技術的なことが知りたいのなら旭に案内させるけど?」
頭を横に振ることでそれを辞退し、必死にこの問題の最適解を探す。彼の意思を、彼の命を守るためにはどうすればいい。浮かぶのは、彼、基樹くんの笑顔だ。彼は、他の子ども…蒼一くんや梢ちゃん、先ほど名前の挙がった金山旭の長男・瑠璃くん、あるいは他の家の子どもたちとなんの変わりもない。その子の未来を、僕は守り切れない。
いつの間にか握りしめた拳の中で渡された資料が丸まっていた。
二人の顔写真を見比べればなるほどよく似ている。
だが、これを公表したところで誰が信じる。その脳を挿げ替える計画があるなどと。
否、挿げ替えですらない。乗り換えだ。理事長に指示されたのは一人分の手術で、残された基樹くんのことなど微塵も考えていない。
ならば…。
それが最適解なのか彼には分らなかった。それでも彼ができるのはそれしかなかった。
そして、手術は成された―――…。
彼は、事実を知るものにその証を渡した。スーツを着用しネクタイを締めてしまえば見えないそれは、飼い犬の証だ。裏切ることは許されず、涼やかに笑う男に言われるがまま各々の仕事をした。
それは公にしてはならない類の手術だったり、以降に第三段階と呼ばれることになる研究だったり、お互いの監視だった。
終わりが見えないまま、深緋はただもがき続けた。