~PARADOX~
病院の消灯時間がだいぶ過ぎて常夜灯の小さな光が満ちた頃、その病室のスライドドアが音もなく開いた。一人分が通る時間だけ開いて、静かに閉まっていく。
足音を消した男が白いベッドに横たわる男に近付き、その脇に置かれたスツールに腰を掛けた。
「起きてる?」
涼やかな問い掛けに、眠っていたはずの小柄な影がひらりと手を振って答えた。
「まだ終わんねぇのかよ」
低い声は、長く発声していないせいで掠れている。せき込み始めた男に、備付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを出して渡してやった。
「さすがにね。メインディッシュに乗るはずの獲物はなかなかしぶといよ」
「いい加減、寝てるだけはきついぜ?」
いてて、と漏らしながらベッドに起き上がり、癖のない長い髪を後ろに流した。柔らかなベッドはその分の体重を受け止める。
「身体はどうなの?」
「健太郎が頑張ったんだろうな。拘縮はあんま感じねぇが元通りってわけにゃいかねぇな」
ペットボトルから直接水を含み、その温度に慣らしながらゆっくりと飲み込む。冷えた塊が胃に落ちていく感覚が、ひどい刺激に感じられた。
「さっさとリハビリしてぇんだけどな」
「刑事さんたちが頑張ってくれてるからたぶん、もう少し」
「あの時みてぇに日和んなきゃな」
想いに耽った基樹は、“あの時”を思い出しているのだろう。珍しく眉間に皺を寄せて渋い顔をしていた。
「お互い、いらねぇ遺産を押し付けられたな」
深緋に話を聞かされてから、父の仕事を、計画を知ろうと初めて人を騙して、こんな計画に顧客がいるのかと絶望した。しかもそう言った人間は大体金も権力も持っているのが世の常だ。
犠牲になる子どもがこれからも出てくる。そんなことはさせたくない。だが、顧客を含めて一網打尽にしないと歯止めはかからないだろうと、基樹は人知れず覚悟を決めた。
あの時は相手が一枚上手で、監査を中止に追い込まれて、基樹は基樹で動きが取れなくなった。
「けど、ボクとキミができてるって話は必要だった?」
だいぶひどい人間だよね、ボク。ベッドの上でストレッチを始めた瑠璃に呆れた声が掛かる。常夜灯のオレンジ色の光に薄い唇が嗤ったのが見えた。
「ノリに乗って家の鍵までよこした人間がよく言うよ」
「梢は初手で逃げられなかったんだからキミが守ってくれなきゃ危なかったでしょ。それとは話が違うと思うけど?」
「他から目ぇ逸らすならそのくらいインパクトのある話がちょうどいいんだよ。フジがオレのとこに来ちまったんだからしょうがねぇだろ」
先に基樹のほうに行っていれば、また違った筋書きが出来上がっていただろう。藤枝をその手の輩から守るためには、どうしても手元に置く必要があった。
一度は警察に頼ったが、いつの間にか県内に戻ってきてしまっていたと知った時は絶望した。名前が変わっていたことだけは僥倖だったか。
「お前から話を聞いたときは頭がイカレたかと思ったぜ?」
仰臥する男と倒伏する女を前にした記憶をお互いに思い出す。
市内の局番から電話があったのは、昼前だった。スポーツジムでシャワーを浴びた直後だった瑠璃は不審に思いながらも「はい」と応答して、聞こえた声に背筋が冷えた。
『瑠璃、助けて』
「基樹?」と呼び掛けて、息を飲んだ。違う。もうこいつは基樹じゃない。と自身を戒めた瞬間に、『瑠璃聞いて。ボクはボクだ。全部深緋先生に聞いて、助けてもらった』と焦りを含んだ声が続いた。
『お願い助けて』
住所を聞いて雨の中バイクを走らせた。その部屋に飛び込んで吐きそうになったのは事実だ。高校二年生。まだ、十七になる前だった。
「止められなかった。一旦帰したけど、あいつら、子どもを連れ戻しにまたやって来る」
「どういうことだよ。何がどうなってる」
「この人の子どもは、研究室で創られた子なんだよ。不妊治療に通ってた奥さんを母体として利用したんだ」
育てる間に持った違和感は取材の時に確信に変わったのだろう。それを脅迫のネタにするには相手が悪かった。基樹の蒼白になった顔が、絶望の目が、瑠璃を見上げた。
聞きたいことは山ほどあった。お前が基樹だとどうやって証明する。何故優樹や蒼一でなく、オレに助けを求める。何故、何故―――?すべて悪魔の証明だ。何一つ、今ここで証明できること等ない。
ないはずだった。無理だと拒否して警察に通報すれば済む話だ。携帯を操作するオレの手を、基樹が止めた。
「信じられないのは分かる。俺だって立場が同じなら証拠が欲しい」
動揺した時にしか出てこない基樹の一人称と、これならどう?と見せられた携帯のテンキーで打ち込まれた三桁に、彼が彼なのだと理解した。
表示された三桁は、この国の、もう一つの緊急通報システムへの番号だ。
「そろそろ進路調査にくらい書いたかな?でも、キミが目指してたのはここの救助機動部隊だろ」
頭を振った。誰にも知らせていない。基樹にしか…。そして基樹は、秘密と言ったそれを誰かに話す奴じゃない。
瑠璃にはそれだけで十分だった。それでも少しだけ、断ち切る時間が必要だった。グローブを外して、ナイフを手に取って、テーブルに突き立てた。オレの、それまでとこれからの墓だ。
一瞬、年下の女の子の顔がよぎった。全身で好意を訴えてくるその子が、他の誰かと幸せになればいいと、その時は思った。
「…何が欲しい」
未練など残してはいられないと、基樹を見据えた。昔から考えるのは基樹で実行はオレだ。蒼一が来る前からずっと。オレを巻き込んだなどと基樹に思わせてはならない。オレは、オレの意思でここにいるのだ。
「時間が欲しい。悪魔の巣窟を一掃する」
「コレは?」
「子どもが帰ってくる前にこれだけを世間に知らしめられる?」
「やれって言うならやるさ」
着衣を交換しながら「これからお前は正幸だ。オレもそのつもりで接するし、お前もオレに情を見せるな」と確かめ合った。顔の見えない敵と対峙するとき、お互いがお互いを敵と思っていなければ綻びそうだった。
警察に悪魔の尻尾を引っ張られて下手にかき回されるより、オレがやったと思わせたほうがまだマシだということで、部屋を破壊して、総てを欺く生活が始まった。
基樹は瑠璃を研究室から出してやりたかったようだが、旭と茉莉亜は従順な瑠璃を手放したがらなかった。遺伝子研究をしていた旭は、茉莉亜と二人で女児を作り上げた。茉莉亜が二人目を望めない身体になっていたと、誰かから聞いた。
そして、あの血液検査でその結果が敵に知られてしまった。
理事長のスペア。久幸が基樹の次にと創ったクローン。遺伝子が同じでも正幸や基樹には全く似ていなかったため、油断していた。瑠璃が、あるいは理事長がその手綱を握っていると思わせておかなければ基樹の意思を無視してそれが行われる危険があった。理事長の名を騙って、誰かが兵隊を増やし続けていたからだ。
その誰かが笹原だということは薄々勘付いていたが、証拠を掴むまでには至らなかった。
気の遠くなるほどの時間を稼いで、ようやく、その輪郭がわかるようになってきた。
そんな中で浅葱は宝箱を開けて、基樹たちの勝負はそれからだった。騒ぎを起こして魑魅魍魎の目を引き付け、警察がその身に及んでいるわけではないと見せつけた。
捜査の初期段階で渡した小野寺家のパソコンのデータは役に立ったのか、その捜査は最終局面を迎えている。
藤枝に渡したのは、ホームビデオや写真だけのデータだ。中身を別の媒体に移しながら、なぜこの人たちが、と悔しくなった。オレたちに社会的な発言力があればこんな回り道はしなくて済んだのにと、何度歯がゆい思いをしたか。
「フジには話したのか?」
「キミが寝こけてる間に、それ以外はね。親の黒い部分を見せつけられるのはボクだけでいい」
足を組み直した基樹の言葉は強い覚悟を持っていた。こうなったら何を言っても無駄だ。
ため息を一つ。疑問も一つ。
「オレが起きてんのは知ってんのか?」
「それを知ってるのは病棟のスタッフと警察の上層部だけ。っていうか、キミが飲む必要なかったのに」
「アルコールでとどめ刺したのは何処のどなたでしたっけ?」
「キミはあれくらいじゃ意識も飛ばないだろ?囮が必要だったの」
「ちょうどいいじゃねぇか。守りの要だったオレが動けねぇんだ。いい餌だろ」
基樹に囀られては困る人間はどんな手を使っても口を封じに来るだろう。だが、本邸は現在警察の保護下にあり、更に家の中には敵意に敏い蒼一がいて、その守備力は家の中まで干渉出来なかった頃とは比べるべくもない。
同時に、実行役であった瑠璃が意識不明であれば基樹が逃走する可能性もなく、意識不明の間は瑠璃の警備も最低限で済む。
警察にはその捜査力を向けてほしい相手がいる。それは公権力でさえ一筋縄ではいかない相手だ。
「梢が煽ってくんの、どうにかしてくんねぇかな」
ベッドに倒れこんで、頭の後ろで手を組みながら瑠璃が天井を見上げた。可笑しそうに笑った基樹が立ち上がって、背を向けた。
「今度梢を泣かせたら、塀の中からでも容赦しないからね」
「…やっぱり入んなきゃなんねぇのかよ」
「主犯は死んでても、主犯を殺したのはボクだよ。実行が深緋先生だとしてもね」
彼は父に尊敬を抱いていた。だからこそ基樹は父の様になろうとその進路を定めたのに、その彼を苦悩させるようなことをさせているなど、許しがたかった。
どうすれば彼を助けられる?ただ逃がしただけでは、逃げ続けることになってしまう。その身を守りながら、父から、この腐った場所から解放するには、どうしたらいい?
罪悪感で頭を抱える深緋に、基樹はずっと囁き続けた。悪いのはあなたじゃない。あなたはボクに言われてそれをしているだけだ。責任はあなたじゃなく、ボクにある。あなたは人質を取られて、仕方なく従っているだけだ。
父の中身に違和感を持ったのは古い日記を開いた時だ。読解が難しいほどの悪筆は父のものだと思っていたのに、それは正幸が生まれるはるか前から連なっていた。同時に弟たちも巻き込んでいたことを知って、自分のしたことは間違いじゃなかったのだと自分を騙した。
義弟たちを巻き込むまいと思ったのに、結局自分の力だけでは及ばなかった。
「なぁ、やっぱりオレも…」
「それはダメ。キミはあの時未成年だったし、その後の事件だって情状酌量の余地は充分あるんだから」
「じゃあね」涼やかな声は印象を残さず消えた。Tシャツ姿の背中は、細かったが頼りないことはなかった。全てを背負うと決めた男は、来た時と同じように静かに出ていった。
「…ガンコな兄貴だよ、ほんと」
誰にも聞かれない低い独り言が、ただ広い病室に霧散していった。
※
数日後、一人の政治家が地方で殺害された。日本どころか世界中に衝撃が走ったそのニュースの影に紛れて複数人の政治家や官僚が警察に身柄を拘束され、常磐会の名前はやはり世間から消えていった。
原案は中学生のころ。
基樹がいて、瑠璃がいて、名前は変えたけど、藤枝と浅葱と梢と深緋がいました。
十年以上動けなかった彼ら。
蒼一、美琴という二人のおかげで話が動き出し、完結したのが一年前。
公開まで悪あがきのように加筆修正を繰り返し、ようやく日の目を見ることができました。
誕生日おめでとう!
九月からは番外編FREAK OUTを更新していきたいと思います。
誰がどんな恐怖を味わうのか、嘘つきたちの裏側をお楽しみください。




