第1話 錬金術師
「――《錬金術師》です」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の十五年間は、終わった。
「……は?」
間の抜けた声が漏れた。
聞き間違いかと思った。
だが、目の前に浮かんだ半透明の文字は、何度瞬きをしても変わらない。
【職業:錬金術師】
礼拝堂が、しんと静まり返っていた。
つい先ほどまで聞こえていたざわめきが、嘘のように消えている。
「……錬金術師?」
誰かが呟いた。
それを皮切りに、押し殺した声があちこちから聞こえてくる。
「本家の長男が?」
「おい、聞こえるぞ」
「だって……アーサー様だろ?」
「始祖様と同じ名までいただいているのに……」
「戦闘職ですらないのか」
小さな笑い声。
喉の奥が、ひどく乾いた。
俺――アーサー・レイヴェルトは、王国でも名の知られた武門、レイヴェルト家の長男だ。
レイヴェルト家の歴史は古い。
始祖は千年前、世界を救ったとされる三大賢者の一人。
《戦士の賢者》アーサー・レイヴェルト。
その名を与えられた俺が、何を期待されていたのか。
考えるまでもない。
五歳から剣を握った。
八歳から騎士団の訓練に混ざり、十二歳の頃には騎士見習いなら相手になる程度には剣を振れるようになっていた。
父から褒められたことなど、ほとんどない。
それでも、一度だけ。
『お前ならば、レイヴェルトの名を汚すことはあるまい』
そう言われた日のことは、今でも覚えている。
嬉しかった。
だから今日まで剣を振ってきた。
《騎士》。
《魔剣士》。
あるいは、それ以上。
何らかの戦闘職を授かり、いつか父の跡を継ぐ。
それが俺の人生だと思っていた。
なのに。
《錬金術師》。
剣を握るための職業ですらなかった。
「……もう一度だ」
低い声が響いた。
父だった。
振り返る。
その顔を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
父は怒っていなかった。
怒鳴ってもいなかった。
ただ――。
落胆していた。
俺にも、はっきり分かるほどに。
「もう一度、判定してくれ」
「レイヴェルト卿。お気持ちは分かりますが、天職の神託が誤ることはございません」
「念のためだ」
父は神官を睨むように見た。
「もう一度頼む」
「……承知しました」
神官が再び俺へ手をかざした。
淡い光が身体を包む。
やがて。
同じ文字が浮かび上がった。
【職業:錬金術師】
父の眉間に深い皺が刻まれた。
しばらく表示を見つめ。
拳を握る。
「……そうか」
それだけだった。
怒鳴られるより。
その一言の方が、ずっと堪えた。
「まあ、アーサー」
横から声がした。
従兄弟のカイルだ。
さきほど《騎士》を授かったばかりで、随分と機嫌がいい。
「そんな顔するなよ。錬金術師だって立派な職業じゃないか」
慰めるような声音。
だが、口元が笑っている。
「俺たちが怪我したときには、薬でも作ってくれればいい」
後ろで誰かが吹き出した。
「カイル」
父が低く名前を呼んだ。
「……っ」
カイルの笑みが消える。
「申し訳ありません、伯父上」
父は答えなかった。
だが。
俺の耳には、もう周囲の声はほとんど入っていなかった。
頭が。
割れそうだった。
「っ……!」
突然、視界が歪む。
こめかみの奥に、焼けるような痛みが走った。
「兄上?」
少し離れた場所にいた弟、レオンが一歩こちらへ出る。
「兄上、大丈夫ですか?」
だが、それどころではない。
頭の中へ、知らない光景が流れ込んでくる。
いや。
違う。
知らないんじゃない。
知っている。
夜でも明るい街。
馬のいない車。
手のひらに収まる薄い板。
剣なんて握ったこともない男。
仕事から帰って、飯を食って、風呂に入り。
夜中まで画面を睨んでいた。
一年。
二年。
何年も。
飽きもせず、一つのゲームをやり続けていた。
「……待て」
俺は頭を押さえた。
俺はアーサー・レイヴェルト。
十五歳。
レイヴェルト家の長男。
だが。
それだけじゃない。
俺には、もう一つの人生があった。
そして、その人生で。
何度も見た文字がある。
ゆっくりと顔を上げる。
もう一度、目の前の表示を見る。
【職業:錬金術師】
心臓が跳ねた。
「…………」
知っている。
この職業を知っている。
いや。
知り尽くしている。
前世で俺が狂ったように遊んでいたゲーム。
その中にも、《錬金術師》は存在した。
そして――人気がなかった。
戦闘能力が低い。
育成には金がかかる。
素材集めも面倒。
専用の錬金道具まで必要になる。
何より、調合システムがやたらと複雑だった。
初心者向けの攻略情報には、決まってこう書かれていた。
――最初の職業にはおすすめしません。
そりゃそうだ。
素材には品質があり、属性があり、取扱値があり、潜在性まである。
さらにレシピ調合とは別に存在する、
《自由調合》
素材を自由に組み合わせ、新しい錬成物を生み出すシステム。
可能性が多すぎて、ほとんどのプレイヤーが途中で投げた。
だからこそ。
一部の廃人は、その底なし沼に喜んで沈んでいった。
俺も、その一人だった。
「……は」
息が漏れた。
まずい。
笑いそうになった。
父はあんな顔をしている。
親戚連中は俺を憐れんでいる。
カイルなんて、人生で初めて俺に勝ったとでも言いたげだ。
なのに。
無理だった。
《錬金術師》が弱い?
違う。
扱いにくいだけだ。
面倒な条件を一つずつ理解して。
何度も試して。
失敗して。
ようやく出来上がったアイテムが、ゲームの常識をぶっ壊す。
俺はそれを知っている。
そして何より。
サービス終了の日まで、錬金術の全ては解明されなかった。
「……当たりじゃねえか」
「何?」
父が怪訝そうに俺を見る。
「いえ」
俺は慌てて口元を引き締めた。
「なんでもありません」
「……?」
父の眉が寄る。
隣ではレオンまで心配そうに俺を見ていた。
そりゃそうだ。
外れ職を引いた直後に笑い始めたら、頭がおかしくなったと思われても仕方ない。
でも。
止められなかった。
胸の奥で。
さっきまでとはまったく違う鼓動が鳴っていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕食は、葬式みたいだった。
食器の触れ合う音だけが、やけに大きく聞こえる。
父も。
母も。
レオンも。
誰も口を開こうとしない。
俺も黙って肉を口へ運びながら、戻ってきた前世の記憶を整理していた。
この世界は、あのゲームとよく似ている。
《職業》
《スキル》
《レベル》
幼い頃から見てきた魔物や薬草にも、記憶と一致するものがある。
ただし、全部ではない。
今の国王の名前を知らない。
ゲームには存在しなかった街だってある。
なら。
どこまで同じなんだろう。
「アーサー」
不意に父が口を開いた。
俺は顔を上げる。
「はい」
父が食器を置く。
母の手も止まった。
「話がある」
来たか。
「家督はレオンに継がせる」
「……!」
レオンが勢いよく顔を上げた。
「僕に、ですか?」
「ああ」
「ですが、父上。僕はまだ職業判定すら受けていません!」
「分かっている」
「なら、なぜですか!」
普段、父に声を荒らげることのないレオンだった。
母が驚いたように息子を見る。
それでもレオンは止まらない。
「兄上はずっと、この家を継ぐためにやってきたんですよ! 僕は兄上の代わりになりたいなんて、一度も――」
「代わりではない!」
父の声が食卓を打った。
レオンの肩が跳ねる。
「アーサーが別の道へ進む。それだけだ」
「でも……!」
「レオン」
俺が呼ぶ。
弟が振り返った。
目が完全に納得していない。
「いいんだ」
「よくありません!」
即答だった。
「兄上はいつもそうです!」
「何が?」
「自分で納得したら、それで全部終わったみたいな顔をするところです!」
「……そうか?」
「そうです!」
そこまで強く言われるとは思わなかった。
「少しくらい相談してください」
「次から気をつける」
「次がないから言ってるんです!」
思わず笑った。
「なんで笑うんですか!」
「いや、悪い」
「まったく……!」
レオンが頬を膨らませて座り直す。
母が困ったように俺たちを見て。
父はこめかみを押さえた。
「……話を戻すぞ」
「はい」
父は一度息を吐くと、俺を見る。
「領都の錬金工房に話を通す」
「錬金工房?」
「ああ。騎士団へ納める治癒薬や解毒薬を作っている。工房長にも悪いようにはさせん」
なるほど。かなり恵まれた話だった。
仕事もある。
住む場所にも困らない。
家の庇護も受けられる。
父なりに、俺の将来を考えてくれている。
「そこで錬金術を学べ。腕さえあれば、いずれ工房を任せてもいい」
母の表情が少しだけ和らいだ。
「それがいいわ、アーサー。あなたならきっと――」
「……すみません」
母の言葉を遮った。
父が眉を寄せる。
「何だ?」
「工房には入りません」
「…………」
母が瞬きをする。
レオンも首を傾げた。
「では、どうするつもりだ」
俺は答えた。
「冒険者になります」
「冒険者だとっ!?」
父の怒声が食堂に響いた。
ガタン!
母の肩が跳ね、レオンが目を見開く。
「お前は話を聞いていたのか!」
父が机へ手をついた。
「錬金術師だぞ! 戦闘職ですらない!」
「分かっています」
「分かっていて、なぜ冒険者などという話になる!」
「素材が欲しいんです」
「素材!?」
完全に意味が分からないという顔だった。
「はい」
薬草。
鉱石。
魔物素材。
ダンジョンでしか採れないもの。
ゲームでは知っている。
でも、この世界にも同じものしかないとは限らない。
「錬金術をやるなら、色々な場所へ行って、自分で素材を見てみたいんです」
「そんなもの、工房にいれば――」
「それじゃ足りません」
「何が足りない!」
「それは……まだ分かりません」
父の顔が固まった。
「…………」
まずい。
自分で言っておいてなんだけど。
これは怒られる。
「必要なものも分からんのに冒険者になるというのか、お前は!」
「だから見に行きたいんです!」
気づけば。
俺も声を張っていた。
父の目が僅かに見開かれる。
「何があるのか分からないから、自分で見たいんです」
父と睨み合う。
こんなふうに言い返したのは。
たぶん、初めてだった。
母が不安そうに俺と父を見比べている。
レオンは口を挟むことも忘れたように固まっていた。
「……アーサー」
父が低い声で言う。
怒鳴るより。
その声の方が怖かった。
「レイヴェルト家は、千年にわたり剣をもって王国を守ってきた家だ」
「はい」
「お前は本家の長男として、《戦士の賢者》アーサーの名を与えられた」
父の拳が、ぎゅっと握られる。
「領内の工房で錬金術師として働くならばいい。騎士団を支える者として、レイヴェルト家の役に立てる」
「…………」
「だが、冒険者は違う!」
再び声が大きくなる。
「本家の長男が剣を置き、錬金術師として冒険者になる! 世間がどう見るか分かっているのか!」
分かっていた。
今日。
嫌というほど思い知らされた。
始祖の名をもらった男が。
剣を捨てて、錬金術師として冒険者になる。
父が受け入れられないのも無理はない。
俺だって。
昨日までなら同じように考えたかもしれない。
でも。
今は。
「なら」
俺は父を見る。
「家を出ます」
「――っ」
父の顔が固まった。
母が口元を押さえる。
「兄上!?」
椅子を蹴るようにレオンが立ち上がった。
「何を言ってるんですか!」
「レオン」
「嫌です!」
制止する前に返された。
「冒険者になるのと家を出るのは別でしょう!?」
「なんでいきなり家を出るんですか!」
レオンの声が震えていた。
怒っている。
でも。
それだけじゃない。
「僕は……」
拳を握り。
何かを言おうとして。
結局、俯いた。
「……そんなの、嫌です」
その声だけが小さかった。
「レオン」
今度は父が呼んだ。
弟が顔を上げる。
「座れ」
「……でも」
「座りなさい」
母がレオンの腕に触れる。
渋々、椅子へ戻った。
父は俺を見ていた。
さっきまでの怒りとは違う。
何かを測るような目だった。
「……家を捨ててまで、やりたいことなのか」
俺は答えようとして。
一瞬、言葉に詰まった。
家を捨てたいわけじゃない。
父が嫌いなわけでもない。
母やレオンと離れたいわけでもない。
今日の朝まで。
俺はここで一生を過ごすつもりだった。
父の跡を継ぎ。
レオンを支え。
この土地を守る。
それが俺の人生だった。
でも。
思い出してしまった。
《自由調合》。
何千時間やっても、底が見えなかった。
しかも。
ここはゲームそのものじゃない。
ゲームですら分からなかったものの先に。
何がある?
それを考えると。
どうしても。
胸が高鳴った。
「はい」
父を見る。
「やってみたいです」
父の眉が僅かに動く。
怒られると思った。
だが。
何も言わなかった。
長い沈黙。
やがて。
父は背もたれへ身体を預けた。
「…………そうか」
目を閉じる。
深い。
深いため息。
「……三日だ」
「え?」
「三日で支度をしろ」
思わず父を見る。
レオンも驚いたように顔を上げる。
「あなた……」
母が何か言いかける。
「決めた顔をしている」
父は俺を見たままだった。
「こうなったアーサーは、昔から聞かん」
「……そうでしたっけ」
「自覚がないのか」
少し呆れたような顔。
今日初めて。
父の表情から険しさが消えた。
「最低限の金は持たせる。工房に余っている錬金道具も、使えるものは持っていけ」
「いいんですか?」
「錬金術師から錬金道具まで取り上げるほど、私は落ちぶれてはいない」
「……ありがとうございます」
「ただし」
父の目が鋭くなる。
「家を出れば、もうレイヴェルト家の後継者ではない」
「はい」
「私がお前の失敗を尻拭いすることもない」
「はい」
「泣きついても知らんぞ」
「それはちょっと困ります」
「アーサー」
「冗談です」
父の眉間に皺が寄る。
横で母が小さく息を吐いた。
レオンだけは。
まだ笑っていなかった。
「……本当に行くんですね」
「ああ」
「僕が何を言っても?」
少し考える。
「たぶん」
「ほら。またそういうところです」
レオンが俺を睨む。
でも。
さっきほどの勢いはなかった。
「……帰ってきてくださいね」
その言葉には。
すぐ答えられなかった。
三日後。
俺はこの家を出る。
十五年間。
そんなこと、考えたこともなかった。
「ああ」
だから。
今はそれだけ答えた。
父が席を立つ。
二、三歩進んで。
足を止めた。
「アーサー」
「はい」
振り返らない。
「自分で選んだ道だ」
少し間があった。
「中途半端に投げ出すな」
「……はい」
父はそのまま食堂を出ていった。
◇ ◇ ◇
自室へ戻った。
扉を閉める。
三日後には、この部屋ともお別れだ。
寂しくないわけじゃない。
悔しくないわけでもない。
父が職業判定で見せた、あの顔も。
たぶん、しばらく忘れない。
それでも。
後悔はなかった。
むしろ。
今すぐ確かめたいことがある。
椅子に座る。
「《錬金》」
何も起こらない。
「…………」
もう一度。
「錬金」
反応なし。
「おい」
心臓が嫌な音を立てた。
待て。
まさか。
職業名だけ同じで、システムは違う?
ゲームの知識が使えない?
「……いやいやいや」
嫌な汗が背中を流れる。
だとしたら。
俺はとんでもない勘違いをしたまま、家を出る宣言をしたことになる。
どうする。
今から父のところへ行って、
『すみません。やっぱり工房で働きます』
とでも言うのか?
無理だ。
いや。
無理とか言ってる場合じゃ――。
そのとき。
視界の端に、小さな光が浮かんだ。
「……っ!」
光が広がる。
半透明の画面。
見覚えがあった。
死ぬほど見覚えがあった。
【ALCHEMY】
その下に。
二つの選択肢。
《レシピ調合》
そして。
**《自由調合》**
「…………」
あった。
本当に、あった。
「あるじゃねえか……!」
遅い。
心臓に悪い。
だが。
そんな文句も、すぐにどうでもよくなった。
迷わず《自由調合》へ触れる。
画面が切り替わる。
【自由調合】
*素材を選択してください。*
「…………」
思わず笑みがこぼれた。
ゲームですら、最後まで底の見えなかったシステムだ。
しかもここは。
俺の知らないものまで存在する世界。
なら――。
どこまでやれる?
「さて」
空っぽの素材欄を眺める。
「何から作ろうか」
俺の錬金術師としての人生は。
そこから始まった。




