第30話 『父親の説得』
和真くんと別れ、私は本日泊まる旅館にチェックインした。
この辺りは戸倉上山田温泉という温泉地帯。
私が「長野についていく」と言ったらすぐに和真くんがこの旅館を押さえてくれた。
なんと源泉かけ流しの宿だ。
大浴場も、那須塩原の時と違って男女で分かれている。
私は早速、夕食の前に温泉に向かうことにした。
「長野……いいところじゃん」
「美人の湯」とも呼ばれている戸倉上山田温泉は
ほのかに硫黄がかおる泉質で、いかにも温泉に来たという気分にさせてくれる。
温泉につかりながら、私は和真くんと、彼のお父さんについて思い出していた。
二人の話し合いがうまくいくように、祈った。
◆
橘和真は叶梨と別れて、タクシーに乗って自宅まで戻った。
山間の国道をしばらく走らせると
このあたりの基幹病院である橘総合病院の建物が目に入る。
9年前に元々あった「橘内科医院」を元手に、父親が開院した病院で
建物もまだ比較的新しい。
その病院の建物をぐるっとまわった裏側に、和真の自宅はある。
こちらは祖父の代に有名な建築家によって建てられたアールデコ様式をモチーフにしたモダンな外観だ。
元々は祖父母と2世帯で暮らしていたため部屋数も多いが
今は父が一人で住んでいる。ハウスキーパーが週に数回出入りする程度だ。
二階の自分の部屋にあがると、掃除は定期的にされているようだったが
浪人時代そのままで残っていた。
本棚に収まったままの医学部の赤本や問題集を見ると懐かしい気持ちで胸がいっぱいになる。
そしてベッドに横たわり目を閉じる。
大学を卒業したらすぐに長野に戻って実家の病院で医師の道を歩み始めるというのが、当たり前だと思っていた。
繰り返し父親に言われてきたからだ。
小学生時代、台風の夜 父に命を救われてから
彼は父親に対して尊敬と感謝の感情を抱いていた一方で、
「助けてもらった」という負い目から父親に我が儘を言うことができなくなっていた。
シングルファザーと院長の二足の草鞋を履いている忙しい父親に対しての遠慮もあったかもしれない。
「和真、帰っているのか」
父親がドア越しに、声をかける。病院から戻ってきたようだった。
ふと時計に目をむけると針は19時を指している。
「晩飯にしよう、寿司を取っておいた」
――いよいよ、話し合いだ。
和真はごくりと唾をのんだ。
◆
自室を出て、1階のリビングに降りると食卓には大きな寿司桶が並んでいた。
和真が帰省した時はいつもこの店の寿司か、鰻だ。
和真がダイニングにつくまえに、父親はすでに箸をつけていた。
なんて切り出そうか悩んでいると、先に父親が口火を切った。
「柊さんのお嬢さんとはうまくいかなかったのか」
秋に父親が組んだ縁談の話だ。
「はい、向こうは卒業後も東京に残りたかったようですし」
そして和真は少しだけ間をおいて
「俺も好きな人がいましたので」
と言った。
父親はそうか、とだけ言った。
「卒業後に戻って来る準備はできているのか」
和真は緊張で体が固くなる。
「そのことなんですが」
箸をおいて、父親に向き合った。
「サブスペシャリティまでの専門医を東京で取りたいと思っています」
「サブスペシャリティまで?」
父親は怪訝そうに肩眉を上げた。
「あと10年くらいは東京にいたいという事か?」
否定も肯定もされていない、ただ尋ねられているだけなのに、和真は父親の重圧を感じていた。
膝の上の拳を固く握りしめる。
「うちは地域の基幹病院だ」
「はい」
父親は口元に寿司を運びながら話し続ける。
彼はいつも時間に追われているため、食べるのが早い。
今日もこの後はすぐに病院のほうに戻るのだろう。
「長野の医療を背負うなら、早くから地盤を固めないといけない」
「分かっています」
「お前はナルコレプシーという持病だってある。ほかの病院でまともに働けると思うのか」
「……」
和真は言葉が詰まった。
ナルコレプシーは一生付き合っていかないといけない不治の病だ。
今は学生なので、許容してもらえている部分が大きい。
何も言えなかった。
「ですが東京で、いろんな症例をみたいんです。外の病院のやり方も知りたい。
そのうえでちゃんと戻ってきます。外で経験を積むのは病院にとっても悪いことではないはずです」
そう言った和真の顔を、父親は値踏みするように見た。
「……好きな人の影響か」
図星だった。
その安直さを指摘されるような、鋭い声に彼には聞こえた。
ここで負けてはいけない、和真はそう思った。
硬く結んでいた唇をほどいて、しっかりと父親の目を見据えて、彼はこういった。
「そうです、彼女と一生一緒にいたいんです」
嘘のない言葉だった。
そんな彼を見て、父親は小さくため息をつく。
「もう一度、よく考えなさい」
そして席を立って、再び職場に戻っていった。
「あ……」
その背中をただ見送る。
いつもそうだ。
父親と話すときは、和真は何も言えなくなる。
まるであの台風の夜に叱られた、10歳の少年に引き戻されるような気持ちになるのだ。
次回の更新は5/14(木)夕方以降の予定です。
お楽しみに!!




