爺いが日本にやって来た
爺いが日本にやって来た
休暇明けの出勤日、朝一番で支配人に呼ばれた。
「何だろう、こんな早くに?」
槇草は首を傾げながら支配人室のドアをノックする。
「入れ」支配人のくぐもった声が聞こえた。
ドアを押して中に入ると、正面の執務机に座って書類に目を落していた支配人が、上目使いに槇草を見た。メガネの上から覗く目が槇草を睨む。
「王大人の父上が、来日された」
「えっ、王先生が!」正直びっくりした。思いがけない言葉に、後が続かない。
「早速挨拶に行け」
「今、どこにおられるのですか?」
台湾でろくに挨拶もできぬまま別れて、気になっていたのだ。
「最上階のスイートルームに居られる」
「ええっ!」
「李梅君も一緒だ」
「えええっ!」
「驚いてばかりいないで早く行け!」
支配人に急かされるようにして、槇草は廊下に出た。
エレベーターを12階で降り、1215室の前に立つ。深呼吸をしてドアを三回ノックする。
「どうぞ」メイメイの声がした。
ドアを開けると広い室内の応接セットに小柄な老人が座っていた。その横のワゴンでメイメイが銀のポットからカップにコーヒーを注いでいる。
「お久し振りです、王先生、メイメイさん!」
「おお、槇草君。久し振りじゃ、元気そうで何よりじゃ」
「先生も、お元気そうで安心致しました」
「なぁに、この歳になったら生きておるのか死んでおるのか分からんよ」とても死にそうにない顔をして、王が言った。
「相変わらず、口は達者で居られます」メイメイが槇草を見る。
「メイメイさんも相変わらずお綺麗です」
「あら、槇草さん。お世辞が上手くおなりですね」艶やかに笑う。
「お世辞ではありません・・・その・・何というか」
「まあ良い、そこに座らんか?」
槇草が、しどろもどろになっていると王が言った。
「はい、有難うございます」王の対面の椅子に、浅く腰を下ろす。
「コーヒーで宜しいですか?」メイメイが槇草に訊いた。
「いえ、勤務中ですので」
「堅い事を言うな、メイメイが困るじゃろうが」
「はあ、申し訳ありません・・・では頂きます」
メイメイが白いカップにコーヒーを注いで槇草の前に置いた。
「その節は、大変お世話になりました」槇草が王に向かって頭を下げた。
「何の、こちらこそ無理を言ったな」
「いえ、そんな・・・」
「兄も槇草さんには大変感謝しておりました。お陰で兄は武術家として一回り大きくなったようです」
「私の方こそ良い経験をさせて頂きました」
「若いものは良いのぅ、爺いにそのような伸びしろは無いわい」王がいじけたように言った
「先生はそれ以上伸びられなくて結構です!」メイメイは、なんだか少し怒っている。
「最近メイメイが儂に厳しいのじゃよ、槇草君」
「当たり前です、ご無理はいけません」メイメイが王を睨む。
「どうかなされたのですか?」槇草が訝しんで尋ねた。
「あれから、稽古の量が増えたのですよ。まだ、若い者には負けられん・・・と」
「人生は最後まで修行じゃ」ぶっきら棒に王が言う。
「それで今回の福岡行きを思い立たれたのです。是非槇草さんの先生にお会いしたいと」
「無門先生にですか?」
「そうじゃ、会わせてくれんか?」
「それは構いませんが・・・」槇草はそっとメイメイを見た。
「言い出したら聞きません。どうぞ宜しくお願い致します」
メイメイは頭を下げた、まるで王の姉みたいに。
「分かりました。今夜は当直なので明日仕事が明けたら師匠のところにご案内致しましょう」
「そうですか、有難う御座います」メイメイは肩の荷が下りたと言うように、ホッと溜息を吐いた。
「私は明日の飛行機で東京に行かなければなりません」
「えっ、では先生は・・・」
「当ホテルの支配人が全て承知しておられます。では、私は仕事がありますので、一旦部屋に戻ります。槇草さんあとは宜しくお願いしますね」そう言ってメイメイは部屋を出て行った。
「美人はキツイのぅ」ドアが閉まると王が言った。
「はあ・・・メイメイさんは先生のお世話で来たのでは無いのですか?」
「違う違う、儂が息子に無理を言ったのじゃ。そしたらこのホテルの支配人に電話をしてくれての。たまたまメイメイが仕事で日本に行くと言っておったので連れて来て貰ったまでじゃ」
「なるほど・・・」
「さあ、これで儂は自由の身じゃ、あとは頼んだぞ槇草君!」そう言うと、王は快活に笑った。
槇草はまだ事態が良く呑み込めないでいた。取り敢えず支配人室に報告に行く。
「君は暫く王先生のお世話係だ」そう言って支配人は槇草を見た。「先生の用事を最優先にしろ」
「然し仕事が・・・」
「暇な者を応援に廻す。いいか、これは業務命令だ!」
この前のホテルマンズ・ミーティングもそうだったのでは無かったか。
「日・台の関係を良好に保つために全力を尽くせ」
「・・・」
「分かったら行け!」
「はい!」
槇草は再び王の部屋に戻る。
「然し、この部屋は落ち着かんのぅ」
確かに、王の小さな躰とこの部屋の対比は釣り合わない。
「槇草君、暫くこの部屋に寝泊りせんか?」
「無茶を言わないでください。私にも家庭があります」
「う〜む、残念じゃ」
「兎に角、私は支配人から先生のお世話係を命じられました。何か御用はありますか?」
「おお、それじゃ。なら君の師匠に会いたい」
「今すぐにですか?」
「うむ」
「分かりました、暫くお待ち下さい」
妙心館にも電話はある、王の部屋から電話を掛けた。
折悪しく平助は不在だったが、夕方には戻ると熊さんが言った。
「それまで、私の家にいらして下さい。汚い所ですが」
「構わんよ。君のご家族と会えるのは楽しみじゃ」
槇草は美希にも電話を入れその旨を伝えた。美希は急いで支度をしますと言った。
タクシーで十分程で自宅に着く。玄関に美希と小太郎が出迎えた。
小太郎ももうすぐ二歳、美希の横にしっかりと立っている。
「ほう、これは・・・なんとも美しい奥さんじゃ」王は美希に見惚れて言った。「メイメイとどっちが美人かの?」
「まあ、メイメイさんもお見えなのですか?」美希が訊いた。
「うむ、さっき見捨てられたがの。儂は王じゃ、台湾では槇草君に迷惑をかけた」
「美希です、主人から先生の話は伺っております。お会いできるのを楽しみにしておりましたが、まさか今日お会いできるとは・・・」
「儂も嬉しい。して、その子が一人息子の・・・」
「小太郎です」槇草が答えた。
「おお、小太郎君か。利発そうな顔をしておる」
小太郎が不思議そうな顔で王を見ていた。
「さあ、こんなところで立ち話もなんですから。狭い所ですがお上がり下さい」美希が先に立って王を居間に誘った。
卓袱台を挟んで王と槇草が座る。美希はお茶を淹れに台所に立った。
小太郎が座布団を抱えて王の前に立つ。
「ざぶ、ざぶ・・・」
「おお、ありがとう。賢い子じゃのぅ!」王が眼を細めて笑った。
夕方熊さんから電話があった、平助が戻ったのである。
「王先生、師匠が戻りました、ご案内いたします」槇草が言った。
「おお、そうか。美希さん世話になったの、小太郎また会おうな」
「ジィジ、ジィジ・・・」
「おお、爺と呼んでくれるか。これで日本に曽孫が出来た」王は破顔して席を立った。
王と平助は、妙心館の板張りで睨み合った。いきなりの展開である。
これには槇草の方が慌てた。
「ま、待って下さい!」二人の間に割って入る、「幾ら何でも早すぎます!」
「年寄りはせっかちでのぅ」
「師匠!」
「ふふふ、儂とそっくりじゃ」
「王先生・・・」
槇草は、初めて王と会った日の事を思い出した。そう言えばあの時も同じ展開だった。
「どけ、槇草。年寄りの楽しみを邪魔するでない」平助が言った。
「槇草さぁ、師匠は言い出したら聞きもはん、止めるだけ無駄でごわす」妙心館の居候、熊さんも諦め顔だ。
「そうじゃよ槇草君、無粋な事をせず、黙って見守るのが大人と言うものだ」
「誰が大人ですか、二人ともいい歳をして!」
「そこにおると怪我をするぞ」平助の気が膨らんだ。
槇草は危険を感じ飛び退く。その途端、黒い塊が平助に向かって飛んで行った。
どこにそんな力があるのか、とても爺いが跳んだとは思えない高さから蹴りが放たれた。
間一髪、平助が身を沈めてそれを躱す。刹那、今度は平助が跳んだ。
空中で身を転じながら、着地した王の後頭部に飛び回し蹴りを叩き込む。
王は、予想していたかの如く前に跳んで受身を取った。
信じられない爺い同士の空中戦である。槇草は呆然と観ているしかなかった。
平助は、立ち上がった王に向かって突進する。王も平助に向かって走り出した。
ガッ!と二つの躰がぶつかった。二人は鞠のように転がり立ち位置を変える。
息もつかせぬ連続技の攻防だ。蹴りには蹴り、突きには突き、投げには投げと互角の戦いが繰り広げられた。
終わりの見えなかった戦いは、突然終焉を迎えた。
互いの放った火の出るような拳が、空中で激突して止まったのである。
「ふ、ふふ・・・」
「ふふふふふ・・・」
「お互い、ストレスが溜まっておったようじゃな」平助が言った。
「若い者相手の手加減は、疲れるからのぅ」
「全くだ、手加減しなければ落ち込むし・・・」
「し過ぎればのぼせる」
互いに構えを解いた。
「さて、呑むか?」
「良い考えじゃ」
二人は槇草と熊さんを道場に残し、肩を組んで平助の居室に入って行った。
「今のは一体なんだったのですか?」槇草が訊いた。
「おいにも分からん・・・」
「お〜い、酒じゃ。ツマミは適当に見繕ってな!」奥から平助の声がした。
「儂は、ラッキョは嫌いだぞ!」王が言った。
身勝手な爺い達である。
「さて、酒と肴を用意したら我々は引き揚げましょう」
「じゃっどじゃっど、爺様達には爺様達の話があっとじゃろう」
「熊さん、家に来ませんか?久し振りに一杯やりましょう」
「よかとね?」
「勿論です」
「そうね、そんなら小太郎の顔ば見に行くたい」
その夜、王はホテルに戻らなかった。




