薬売り
薬売り
隣の店に入ると、いつの間にか席が半分ほど埋まっていた。日本人の観光客の団体がステージの方を見ながら開演を待っている。
槇草とメイメイは一番後ろの端の席に座った。
「一体何が始まるのですか?」槇草はさっきと同じ質問をメイメイにした。
その時、舞台に一人の男が現れた。この男が進行役だろう。
「観ていれば分かります」メイメイが言った。
男は黒い支那服にカンフー靴を履いている。歳は槇草と同じくらいだろうか。
「日本の皆様コンニチハ、今からお目にかけますのは、中国拳法の極意アルヨ。どうぞごゆっくりお楽しみノコトアル」
男はカタコトの日本語でそう言って舞台の袖に手を挙げた。
すると男と同じ格好をした若者が四人、それぞれに武器のようなものを持って駆け入って来た。
「そういうことか・・・」槇草は納得した。メイメイは槇草に拳法を見せようとしているのだ。
「あれ、あれは?」さっきの店に居た若者がいる。
「しっ!槇草さん。始まりますよ」メイメイは槇草を軽く睨んで舞台に目を向けた。
舞台の中央に青龍刀を持った若者が立った。周りにはランダムに竹が立ててある。
大型の青龍刀には赤と青の房飾りが付いていた。
若者は一度眼を瞑って呼吸を整えると、次の瞬間いきなり跳躍した。
前後左右上下、舞台上を飛び回りながら青龍刀を振り回す。
ビュンビュ ンと刃が風を斬る。変幻自在とはこの事か?竹は見る間に寸断されていく。
『あの刃の扇風機の中に、いったい何秒立って居られるだろう?』槇草は愕然とした。
槇草は眼で刃の動きを追うのを諦めた。すると若者の躰が刃の動きほど動いて居ないことに気がついた。『そうか、刃の動きに惑されてしまうのはマズイよな・・』
青龍刀の演武が終わった。若者は右の拳を左の手のひらで包む『包拳』の形で礼をし、舞台の後方に下がった。
続いて槍を持った男が前に出て来た。着ていた上着をサッと脱ぎ捨てる。鍛え抜かれた上半身が露わになった。
男は床に斜めになるように槍を固定し、穂先に立った。穂首には赤い布が巻き付けてあった。
『何をするのだろう?』槇草は訝った。
男はゆっくりと呼吸を整えている。精神集中が必要なのだ。
徐に、男は穂先を自分の喉に当てて両手を離した。槍で喉を貫かれそうな形である。
「ハイ!」男は気合を入れて全身で槍に向かって前進を始めた。
「きゃー!」観客席から絶叫が上がる。
しかし男は前進を止めない。返って男の力に負けて柄の方が曲がり始めた。
『うわー、エグいな』槇草は顔を顰めた。『あの槍の柄は柳の木か何かだろう、あんなに撓むなんて』
一頻り柄が撓んだところで、男はゆっくりと後退さる。
「ハイ!」男は両手を広げて大仰に頭を下げた。歓声と拍手が同時に沸き起こった。
次に現れたのは舞台上の四人の中で、一番太った男だった。両手にビール瓶を持っている
床にブルーシートが敷かれた。
男はその上でビール瓶を打ち合わせ、瓶を粉々に砕いた。
他の仲間も手伝って何本ものビール瓶が割られた。男たちはシートの両端を持ち上げてガラスの破片を中央に集めた。
『なんだなんだ、何をするんだ?』槇草には訳が分からない。
この男も上着を脱いだ。太ってはいるが贅肉ではない、相撲取りの様な躰なのだろう。
男はゆっくりとガラスの破片の上に仰向けに寝転んだ。仲間が上半身が隠れるくらいの長方形の板を腹の上にのせる。
最初の男が舞台の縁まで出て来て声を張り上げた。
「どなたか、この男の上に飛び乗る勇気のある人はいないアルか?」
観客席は静まり返っている。
「だいじょうぶアルよ。怪我しても文句言わないアルよ」男は笑いながら客席を見回した。
「俺が出る!」
馬鹿にされたと思ったのか、中年の男が立ち上がった。寝転んでいる男と同じくらいに太っている。
「俺は空手をやっているんだ。何があっても知らないぞ!」観客の男が嘯いた。
「ダイジョブダイジョブ、さあ上がって!」
観客の男は舞台に登って寝ている男を見下ろした。男はその男を見上げてニヤリと笑った。
「手加減はせん!」
観客の男は体重の割には高く跳んだ。思い切り両足の踵を板に叩きつける。
「ミシッ!」板が不気味な音を立てた。
観客の男が自分の躰から降りてから男は立ち上がり、背中を観客席に向けた。
背中には所々赤い斑点があるものの、怪我一つ無い。
「さあ、皆さんハクシュハクシュ!」
客席からどよめきと拍手が起こった。
次は先ほど槇草が会った隣の店の若者だった。
彼はヌンチャクを手にしていた。日本でもブルース・リーの映画で有名になった、二本の黒い棒を銀の鎖で繋いだものだ。槇草も沖縄で拍子木のようなヌンチャクを持たせてもらった事がある が、繋ぎは紐であった。
彼は既に上半身裸の登場、まるで肉体を誇示するかのようだった。
彼は一頻り一本のヌンチャクを縦横無尽に使って見せると帯に差したヌンチャクを抜き出した。
ダブルヌンチャク、二刀流だ。
ヌンチャクは、打った後の処理が難しい。下手をすると自分が怪我をする。
彼は仲間にタバコをくわえさせ、頭にリンゴを乗せた。
そしてその前に立つと二本のヌンチャクを同時にふるった、一瞬の早業である。
タバコは消し飛びリンゴは水平に真っ二つだ。一際大きな歓声が上がった。
また、進行役の男が現れた。
「さあ、どなたか舞台に上がってヌンチャクを振ってみるヨロシ。誰かいないネ?」
男はゆっくりと客席を見回した。「ハイ、そこのアナタ。そうアナタ、どうぞ上がるヨロシね」
男は槇草を見詰めている。槇草は戸惑った、こんな所で恥をかきたくは無い。
「槇草さん、上がっておあげなさいさっきの御礼よ。それにこんな機会は滅多にありません」メイメイが悪戯っぽく笑った。
「はあ、御礼なら仕方ありませんね・・・」槇草は渋々舞台に上がった。
「ようこそ、お名前はナニ?」進行役が言った。
「槇草です・・・」
「ほう、マキグサさん。強そうなお名前アルね」
『槇草という名前に強そうも何も無いもんだ』槇草は腹のなかで呟いた。
「では、彼と同じように動いてみるヨロシ!」
若者がヌンチャクを一本、槇草に手渡した。沖縄のものより重量がある。
若者は右手に持ったヌンチャクを後ろに振り上げて、左手を使って右脇の下でそれを受け止めた。槇草も真似をする。
次はその逆の動きだ。それを繰り返す事でヌンチャクは躰の左右を縦にぐるぐる回る。
沖縄で見たヌンチャクの『型』はもっと地味なもので、剣術の素振りに似ていた。
「さあ次は、ヌンチャクを胴に巻きつけ〜」進行役の男が言った。「横打ちネ!」
ヌンチャクがうなりをあげて横に往復する。
「最後は〜後ろから股の下を潜らせて〜前で受け取るアルよ!」
これは、下手をすると金的を打つ。槇草は冷や汗をかきながらヌンチャクを金的の前で引き取った。
客席から笑いと拍手が起こった。
「アナタ上手ネ。オリンピック出られるよ!」進行役の男が言った。
『ヌンチャクにオリンピックは無いだろう・・・』槇草は腹の中で男にツッコミを入れた。
ようやく解放されて客席に戻る。メイメイが笑顔で迎えてくれた。
「有難う。舞台が盛り上がったわ」
「ふ〜、寿命が縮まったよ」槇草はトレーナーの袖で汗を拭いた。
「さあ〜て、お立ち会いアルよ」進行役の男が言った。彼が最後の演武者らしい。
「ここに取り出しましたる青龍刀。今からこの刃の上を渡るアル!」
先程若者が使った青龍刀だ、斬れることは証明済みである。
青龍刀が地上1m程の台上に固定される。場内がシーンと静まり返った。
男は先ず、柄の上に立った。それから靴を脱ぎ右足を静かに刃の上に下ろした。
体重を右足に移す、少しでもズレると足の裏は斬れる。
『すごいバランス感覚だ、あの細い刃の上にゆるぎなく立っている』槇草は目を瞠った。
続いて左足、また右足。
今度はそのままバックした。右足左足、次の右足で床に音もなく飛び降りた。
「わー!」と歓声が上がった。男は包拳の礼をした。
男は青龍刀を右手に取って、いきなり自分の左腕を斬った。腕から赤い血が流れ出す。
観客席は唖然として声も無い。
「さて、これは正真正銘の刀傷。でも心配はご無用アル!」男は薬屋の若者から桃の形をした白い瓶を受け取った。
「この程度の刀傷、この薬があればダイジョブね!」男はゆっくりと瓶の蓋を外し白い軟膏を指で掬った。
「さてお立ち会い、この軟膏を塗ればたちどころにこの傷は治るアル!」
そう言って男は軟膏を傷に塗りつけた。そしてゆっくりとガーゼで血を拭き取った。
傷は跡形もなく消えている。
「さあ、中国の秘薬『桃精膏』買って帰って損は無いアルよ!」
普段なら誰も信じないであろう。だがあれだけの演武を見せられた後である、観客は皆我れ先に『桃精膏』を買い求めている。
『これでは日本の蝦蟇の油売りと同じでは無いか・・・』槇草は複雑な思いであった。
「槇草さん、彼らを蔑みますか?」メイメイが尋ねた。
「いえ・・・そんな事は」槇草の返事は歯切れが悪い。
「求道心と仕事は別です。彼らは生きるためにやっているのです・・・」
そう言えば、幕末の剣聖榊原鍵吉も剣道を見世物にしていた時期もあった。師匠は浅草の見世物小屋に出ていた居合の達人の話をしてくれた。
「台湾は、今は貧しい。でもいつかはきっと日本に追いつきます・・・」メイメイは槇草を見つめた。
「それを俺に言う為に・・・」
メイメイは黙って頷いた。
「分かりました。肝に命じます」
メイメイがニッコリ笑った。
その夜、槇草とメイメイは遼寧街で食事をした。
槇草はここで台湾人のパワーを見せつけられた。店先に蛇がぶら下がっている。
屋台では座っている直ぐ後ろを、車がすごい勢いで走り過ぎた。魚などは歩道の縁石の上で直に捌いて料理している。だが誰もそんな事を気にも留めない。
『日本も昔はそうだったんだろうなぁ』
すっかり軽くなった胃袋に、たらふく美味しい料理を詰め込んで、槇草はそんな事を考えていた。