-蛇落の褥- 6-5
広い応接室は、重苦しい空気に包まれていた。
冷めきったコーヒーが、世の無常を語っているようである。
恭一郎は眉根を寄せると、口元に当てていた両手を膝に下ろした。
「その犯人は、捕まったのか」
「身代金を受け取りに行った二人は、その場で取り押さえられました」
「見張り役は?」
「捕まえた二人を尋問して駆け付けましたが、幹久様しかいらっしゃらなかったようです」
「身元は?」
「カタギではない方々の集まる店で、たまたま知り合ったそうで」
「・・・まぁ、でも、無事に帰ってこれて、不幸中の幸いか」
「それが・・・旦那様が、当時の状況をお話しして下さいましたが・・・無事とは、到底言えないような有様だったそうでございます」
東雲は、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
その瞳の奥に、明らかな憎しみの色が浮かぶ。
「幹久様には、全身を殴打された形跡と、刃物による刺し傷が数カ所あったそうです。また、お召し物を・・・何も身にまとっておられなかったそうで・・・」
急に胃に不快感を感じ、恭一郎は思わず口に手を当てた。
それは、つまり『そういう事』が、あったという事である。
「ワタクシが宝条家にお仕えする為に参りました時には、幹久様は『鬼』に成り代わられる寸前でございました」
恭一郎は、基地の前での幹久の様子を思い出した。
幼い子供が、あんな状態だったのかと想像し、心が痛む。
「『鬼』に成り代わる事は、非常に危険な状態なのです」
東雲は、一層表情を曇らせた。
恭一郎を見つめる瞳が、より一層悲痛なものに変わる。
「『鬼』にも、苦しみはあります。しかし、自ら立ち直る術を持っておりません」
東雲は、そこで言葉を切った。
最悪の結末を想像しているのか、その瞳に再び涙がにじんでいる。
「苦しみに苛まれた『鬼』は、破滅するしかないのです」
・・・破滅
幹久の様子からすると、だれかれ構かまわずに襲い掛かるようになるという事だろうかと、恭一郎は想像した。
今の生活も、社会的な地位も、下手をすれば家族も失うことになる。
今よりも、ずっと辛い苦しみが待ち構えている。
東雲が、成り代わるのを容認できないのも無理はないと、恭一郎は納得した。
――そうとも限らんぞ、恭一郎
恭一郎は、自分の左肩に目線を移した。
『虚』がカタリと軋む音を上げる。
――俺から言わせてもらえば、『鬼』に成り代わった方が、生み出した本人は楽だ。
「また、お前は・・・」
――隠し事をするなと、いつも言ってるのは、お前の方であろうが
「――――」
――成り代われば、自分は傍観に徹し、他人事のように思える
「つまり、『鬼』が何をしても、自分の意思ではないと」
――そうだ。そもそも、そこまで心を病んでいたら、他人が傷付こうが気にならんがな
「社会的に問題のある事へ突き進んでも、もはや、世の中へ対する未練もない・・・」
――自ら考える事も含め、全てを放棄出来る。心を捨てれば、悲しみはない。
「だから・・・楽」
――それに、もう一つ利点がある
「利点?」
――肉体的な痛みから、完全に解放される。破滅は、他人を傷付ける事とは限らない
『虚』が、カタリと含み笑いをしたような音を上げた。
恭一郎は、ソファの背に持たれると、天井を仰いだ。
天井の梁を見て、そこに一つのロープを想像する。
そして、てるてる坊主のように吊り下がる、幹久を思い描いた。
「・・・最悪だな」
想像の中の幹久と目が合ったような気がして、恭一郎は断腸の思いにかられる。
暗澹たる瞳が、あの世へと誘っているような気になり、恭一郎は目をつむったのだった。




