-蛇落の褥- 6-6
南の窓に銀色の月が見えている。
雲一つない黒く澄んだ空。
月はハッキリとした輪郭を描き、秋の夜長を冷たい光で満たしていた。
「了」
物語が締めくくられ、夢彦は我に返るように室内を見渡した。
天井の白熱電球はついておらず、アヤメは、文机に置いてあるランプの光で、手元を照らして原稿用紙に文字を書いている。
しばらくすると、黙々と作業していたアヤメは、顔を上げて小さくうなずき、遂に万年筆を文机に置いた。
「出来ましたわ」
アヤメから原稿を受け取り、夢彦は一から最後まで一気に目を通す。
当て字と誤字の修正を少ししてもらい、ようやく原稿は完成した。
「すごいよ、アヤメさん。当て字も含めて、ほとんど修正がない」
「だてに、アナタの担当をしていませんもの。文の癖や字の選びぐらい、大体分かります」
「いや、大したものだよ。しかも、私の話す速さについてくるなんて」
「大したものなのはアナタです。よくそのスピードで話を考えられますわね。どこかで仕入れた話でもしているのかと思いましたわ」
「話すのは簡単だけど、さすがに字に起こすのは時間がかかる」
「でしょうね・・・私、明日は腱鞘炎になるかもしれませんわ」
「ありがとう、アヤメさん」
原稿を封筒に入れて手渡すと、アヤメは上品に微笑んだ。
疲れているはずなのに、そういった素振りを一切見せない。
自分なら、絶対に溜息の一つや二つはついてしまうだろうと、夢彦は感心した。
「お礼、ちゃんとしないといけないね。こんなに頑張ってもらったから」
「あら、義理堅いのですね。何をおねだりしようかしら」
「銀座で、買い物でも構わないよ」
「あいにく、服は自分の稼いだお金で買うのが、私の醍醐味ですの」
アヤメは人差し指を頬に当てながら、天井を見上げて思案し始めた。
無難に食事で済ますのが手っ取り早いとか言い出しそうだと、夢彦は苦笑いを浮かべる。
「決めましたわ」
正座していたアヤメは、ニンマリと笑うと、夢彦ににじり寄った。
そして、何処か楽し気に、そのキラキラとした瞳を夢彦に向ける。
一抹の不安がよぎり、夢彦は思わず息を呑んだ。
「接吻して下さいまし」
一瞬、夢彦は、アヤメが何を言っているのか、理解出来なかった。
唖然としている夢彦に、アヤメは急に噴き出して笑う。
「冗談ですわ」
夢彦が非難の視線を向けると、アヤメは御満悦とばかりに微笑んだ。
夢彦は大きく溜息をつくと、ムッとした顔をアヤメに向ける。
「ケンさんとの猥談の仕返しだからって、そういう冗談を婦女子が言うもんじゃない」
「あら、どうして婦女子はダメなんですの?」
「当たり前だ!もしケンさんだったら、悪ノリして本当にやっている」
「あんな駄犬には絶対に言いません。アナタだから言ったのよ」
手で口元を品良く隠し、アヤメはニコニコと楽し気に微笑んだ。
可愛さ余って憎さが百倍とは、まさにこの事である。
夢彦はアヤメの手を取ると、ほんの少し引き寄せた。
「それは、私ならされてもイイという事かな?」
「―――」
「それとも、私なら絶対に、やらないと思ったのかな?」
アヤメは目をしばたいた。
夢彦は更にアヤメの手を引き寄せ、その滑らかな頬に手を添える。
「・・・もしくは、両方?」
怒りとも悲しみとも言えるような気持ちで、夢彦はアヤメの返事を待った。
しかし、アヤメは目を見開いて、夢彦を凝視したまま沈黙する。
何も言わない事を肯定と捉え、夢彦は目を閉じて、そっとアヤメにくちづけた。
かすかに震える唇から、アヤメが緊張しているのが、夢彦に伝わって来る。
普段は見る事のない、しおらしい一面を垣間見て、夢彦は余計にいとおしさが込み上げて来た。
心が弾む
心が騒ぐ
ざわざわと
深い森の 梢の囁きのように
この瞬間が、ただの夢じゃないかと
そう思うと、何とか手繰たぐり寄せて留めておきたい。
そんな衝動に駆られ、夢彦は更に深くくちづけた。
手をアヤメの身体へと回し、繋ぎ止めるように強く抱き寄せる。
すると、アヤメの手が夢彦の胸にしがみつき、口腔をなぞられると、その身を打ち震わせた。
「・・・・・っ・・・・ん・・・・」
呼吸と共にこぼれる甘い声音に、夢彦の背筋が粟立った。
アヤメの華奢な体を、砕けんばかりに抱き締め、その温もりと柔らかな姿態の感触に、鼓動が高鳴る。
いつまでも、こうしていたい。
いつも、こうしたかった。
ずっと、無理だと思ってた。
作品を仕上げる度に、アヤメが自分から遠のいて行くように、夢彦は感じていた。
事実、下衆な話だと一蹴され、毎回眉間にシワを寄せられては、溜息をつかれる。
それでも最後は「アナタらしい」などと言われて、飼い殺されている気分であった。
しかし、その言葉が聞きたいが為に書き続け、ますます官能小説家として名を上げていく。
そんなどうしようもない自分が、本当にキライになった。
ついには目も当てられない話をアヤメに代筆させてしまって、生き恥もいいところである。
打ち上げ花火みたいな、その一瞬一瞬を最大限に輝かせるキミが好きだ。
夏の青空を颯爽と飛び行く、ツバメのようなキミが好きだ。
でも、私の腕の中で身を任せる、頼りなげなキミも・・・とても好きだ。
軽く食むようにくちづけて、夢彦は口惜し気にアヤメを引き離した。
アヤメは頬を紅潮させ、濡れた唇を艶やかに色付かせている。
こんな時でも、華族の令嬢らしい上品さを醸し出しているせいか、今更ながら、夢彦は背徳的な気分が込み上げて来た。
しかし、蜜のように潤むアヤメの瞳が、夢彦の心を揺さぶって来る。
「・・・おしまい」
夢彦は、アヤメにというよりは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
なるべく、いつものように笑って見せると、アヤメは夢彦の着物をギュッと握り締め、やや乱暴に自分の方へと引き寄せる。
そして、夢彦の白い髪をすくように掴み、食い掛るように唇を重ねた。
あまりの強引さに驚いて、夢彦は思わずアヤメを引き離す。
「あのっ、アヤメさん・・・」
「綺麗にまとめないで下さいまし!」
「――――」
「いつも誘ってるような素振りをしておいて、全く言い出さないアナタに、どれだけ肩透かしをくらって来たと思っているのですか!!」
「・・・え?」
夢彦が間の抜けた声を上げると、アヤメは深い溜息をついてうつむいた。
怒りに手が震えてるのか、掴んだ夢彦の髪に力が込められる。
「い、痛い・・・」
「下品で、だらしなくて、子供っぽい自分なんか、一生相手にされないとでも思いましたか?」
的確に内心を言い当てられ、夢彦は恥ずかしさに目線をそらしたくなった。
しかし、アヤメにシッカリと頭を抑えられており、真っ直ぐに見つめて来る瞳が、それを許さない。
「官能小説家で、何が悪いのですか!その髪と瞳の色が、何だというんですか!!」
アヤメは、揺らぎない信念のある強い声で叫ぶと、潤んだ瞳を恒星のようにきらめかせた。
満天からこぼれ落ちる星々のように、その輝きが、アヤメの頬を伝って行く。
「アナタらしくて・・・何がいけないのですか」
その一言に、目頭に熱いものを感じながら、夢彦はアヤメを、これ以上ない力で抱き締めた。
アヤメの艶やかな黒髪から、言うに言われぬ華やかな芳香が押し寄せてくる。
その香りが、自分の中で花開くようで、夢彦は眩暈を覚えた。
そして、月という名の銀幕に、夢彦とアヤメは、その姿を焼き付けたのだった。




