第0章:紅い夜の夢_01
――ハァ…ッハァ…ッ
少年は手を引かれ、ただただ紅い暗闇の中を走っていた。
目の前には母が、その先には父が、まるで逃げるように、そこから一刻も早く離れるために、三人は走っていた。
自分達がついこの間まで住んでいた屋敷は、燃えた。
後ろを一瞥しても、屋敷はもう見る影もない。
全部、燃えた。
周りは瓦礫と火の海に囲まれ、熱気で汗が滴り、呼吸をするたび肺を灼く。
鉄臭い匂いと煙が鼻をつく。
逆巻く炎が夜の闇を照らす。
少年には何から逃げているのかわからなかった。
暗闇からか。
火の手からか。
それとも後ろから追ってくるいくつもの影からか。
「ねえ母さん、どこに行くの?」
少年は手を引く母に問う。
母親は一度こちらを向き、微笑みながら言った。
「私達が、自由でいられる所よ」
そう言った母親は、再び少年の手を硬く握り締めた。
少年はその言葉を聞いて同じような笑顔になる。
自由を目指し、彼らは強く、強く地を蹴った。
しかし父親の表情は、後ろの二人とは違い、険しかった。
後ろから自分達を迫う影の数はだんだんと増えているのだ。
携えた刀二本では払いきれないほどに大きく、大きく、影は質量を増していた。
このままでは…。
その時、少年ががくりと膝をつく。
「響…!」
母親が慌てて駆け寄り再び手を引いて走りだそうにも少年の足に力が入らない。
まわりの炎に酸素を奪われ、少年の小さな体に限界が来ていたのだ。
脚はがくがくと震え、呼吸が浅い。
「さ、先に、行って…あとから、行くから…」
少年は胸元を抑え、呼吸を整えながらそう言うと、母の手を押しのけた。
その言葉に、母親は大粒の涙をこぼしながら、己の我が子を腕に抱く。
「愛しい坊や…誰があなた一人を置いていくものですか…」
二人は絆を確かめ合うように強く、強く抱きしめあった。
それでも影は無情にも数を増やしながら迫りくる。
炎の蜃気楼に揺らぎながらもはっきりと、その姿が見えてきていた。
父親は意を決したような顔つきになり、二本の刀を二人に預け、庇うように影と対峙する。
「…二人とも、これを持って先に行け」
「そんな…無理よ!
あんな数とてもあなた一人じゃ…!」
「『あれ』を使えば、…少なくとも数分はもつだろう。
その間に森を抜けろ、紅い布が巻かれた木が目印だ、そこに手引きのものがいる…お前たちは先に行って待ってろ」
「でも、…貴方はまだ…!!」
「響を俺たちと同じ目に遭わせる気か!!!俺に構うな、いいから行けえ!!!」
父親の怒号が辺りに響く。
母親は肩をびくつかせ、歯を食いしばりながらも、我が子を抱えてその場から逃げるために走り出した。
「父さん…!」
響が母親の背中越しに見たのは迫る影を迎え討とうとする父親の姿だった。
辺りを飲み込もうとする灼熱の中、父は腰のバッグから”何か”を取り出し、それを高々と掲げた。
不意に一度、二人が去った方向をを一瞥し、笑みを浮かべる。
その目には、決意が込められていた。
「これでいい…」
二人とも、どうか無事で。
眼前の敵に向き直り、父はその”何か”を右腕に勢い良く突き立てる。
「うぉぉぉおああああああああぁあああぁあああ!!!!」
どこからともなく聞こえたのは獣のような咆哮
響が見つめる先の暗闇の中、炎に照らされた父親の体は、鈍い音を立てながら変化していくのがわかる。
そのシルエットは、不規則に形を変え、髪が全身を覆い、腰から延びる様に尻尾がしなる。
右腕からぼんやりと青く光る何かが、血管を伝い、枝葉のように全身に広がっていく。
父親の姿は、もはや人間のそれではなかった。
「とうさ───……」
背中越しに呼んだ声は、自身の体が変化する音に掻き消され、父親に届く事はなかった。
響は母親に抱かれながら、遠ざかるその姿を目に焼き付ける。
自分達を守るために戦う、父の背中を…
しばらく走り続け、二人は木々が生い茂る森についた。
ここがどこかもわからない。
暗い木々の間を闇雲に走り続け、あの場所から遠く離れた所まできていた。
ただ一人、父親だけをあの燃え盛る場所に残して。




