■第八○夜:告白は恋の痛み
獣じみた叫びとともに、張り裂けよとばかりにスノウが胸を張り、身をのけ反らす。
ついに完全に狂ったか、と真騎士の妹ふたりが槍を構えるが、魔導書の娘は構うことなく着衣を引きちぎる勢いで腕を振り抜いた。
するといったいどういう仕掛けか、ちょうど胸骨を境にスノウの胸が割れ、そこから巨大な書籍の頁が瀑布を思わせて溢れ出てきたではないか。
肋骨が外向きに爆ぜる勢いを思わせて、バララララララララッという上等な羊皮紙の捲れる音と光景に圧倒され、真騎士の妹たちは立ちすくむことしかできない。
自分たちの言葉がスノウを自刃に追いやってしまったかのような錯覚に、ふたりは陥っていた。
一方、弓なりに天を仰いで膝を折ったスノウは、全身を痙攣させながらもキルシュとエステルに視線を合わせ促した。
「見、て。ど、う? これが魔導書の《ちから》だよ。醜いでしょう? こんなに苦しくて、痛くて……それなのにそれら痛苦を薙ぎ払ってしまうほどに堪え難い快感が脊髄と脳を焼いて真っ白になるんだよ。これが毎晩続く、ううんいまも続いているんだ。……わかる? わたしがどうしてふたりにはまだ光の道が残されていて、わたしはもうダメだって言ったか? その理由がわかる?」
みんなの傷、ふたりの傷を、わたしが覗き見するのが不公平だって言うなら……。
「見せてあげる……わたしはもうその傷口そのものになってしまっているんだってことを……」
うわ言めいて繰り出される訴えに、妹ふたりは言葉もない。
魔導書状態のスノウは手足を刑具を思わせる器具に拘束され、身じろぎひとつできない状態で、屈辱的な姿勢を強いられている。
なにも隠せない。
隠すことを許されない。
むしろ暴き立てられるたびに、言葉にしてはならない感覚に全身が反り返る。
それがすでに成人を迎えたとはいえ、ついこないだまでひとりの少女でしかなかったスノウの心身をいかに責め苛んできたものか。
真騎士の妹ふたりはこのときやっと理解に及んだのだ。
スノウは、この娘は、姉であるシオンがその身に甘んじて受けた記章どもによる陵辱と恥辱の饗宴と等しき苦悶を、魔導書との融合を受けて以来、今日このときまでずっとその身で体験し続けてきたのだと。
声もなく、ただいやいやをするように小さく首を横に振るふたりに、スノウは唇を歪め片目だけをかろうじて開いた表情で告げた。
「なんにも……言えないか。でもそれで当然なんだ。ほんと無理しなくて良いよ、ふたりとも。自分でも、もうどうしようもないくらいに魔導書に取り込まれてしまってるのは自覚があるからさ。でも、これからだけは目を逸らさないで。この真っ黒な頁からだけは」
ショックに泣き腫した紅い瞳で見つめてくるふたりに、スノウは力無く微笑む。
が、それもつかのまのこと。
死人の手を思わせる義肢が体液に濡れそぼった頁を摘み上げ、べらりべらり、と音を立ててめくるたびに、スノウの喉から押し殺した悲鳴が漏れた。
ああ、あああっ、といううめきにも似たその声は、脳髄を焼き尽くすような残酷な官能に彩られている。
ただ頁をめくるだけで、スノウにとってそれは己の敏感な心のひだをめくり返されるに等しい衝撃なのだ。
真騎士の妹ふたりは口元を押さえたまま、涙目でその様を注視することしかできない。
「この姿を見せたら、きっとふたりには軽蔑される嫌われるって思ったからいままで躊躇してたんだけど……。ううん、ふたりだけじゃないよ、きっとみんなドン引きだよね。こんな、こんなのさ……。ぜったいだれも友達になろうとか、仲間になろうとか思ってくれないよ……。知ってる、知ってたよ。こんなことを知られたら、この姿を見られたら、もうそのヒトとはおしまいなんだって。でも、でも、わかってもらうにはこれしかないってわかったから」
引かれても、嫌われても、わかってもらえないよりずっと良いって、覚悟したから。
「だから見て、この頁をッ!」
そう言ってスノウが開いて見せたその一画は、これまでのものとは比較にならない異形を有していた。
「ひっ」
「わか、る? この真っ黒な頁の禍々しさが。そうだよこれが、姉のなかにある、姉本人の封ぜられた記憶なんだ。わたしが絶対ヤバいって言った意味、わかるよね?」
「なに、これ。単純に黒塗りされているだけじゃありませんの。この厚み、何ページにもわたって血糊みたいなので貼りつけられてますわ。腫瘍みたいに。そこに縛鎖がこんなに……深く食い込んで」
「鉄釘や太いネジが突き込まれてて、血が滲んでる。酷い拷問を受けたみたいに……傷口が腫れ上がって脈打って……」
「それにこれはまぶた? こっちは刃傷ではなく……傷が肉を持って……これってもしかして唇? じゃあこの裂け目はお口ですの?」
「エステル危ないッ、触れちゃダメッ!!」
次の瞬間、がちん、となにか鋭くて重いものが噛み合わされる音がした。
間一髪、己が肉体に掛かる負荷を無視してスノウが身を捩っていなければ、エステルの指は、いやもしかしたら手首ごと黒塗りの頁に噛み千切られていたはずだ。
「いまっ、いま指先をなにかが掠めましたわッ!? ピッって、ピッって音がしましたわ!!」
「歯だ! 歯だったよ、黄ばんで汚れた……獰猛な魔物の牙の群れだった。それになにコレッ!? 目が、いつの間にか目が開いているッ!? 造り物の人形のような……それなのに動いてるッ!?」
キルシュの指摘の通り、真っ赤に充血した瞳が真騎士の妹たちふたりを値定めするように睨めつけていた。
はじめて封都:ノストフェラティウムを視界に収めたときと同じような、本能的な脅えが真騎士の妹たちを襲った。
あがっ、ぐっ、とスノウが溜まらず声を漏らす。
「「スノウさんッ!?」」
「ダメだよふたりともッ、わたしに近寄らないでッ!」
思わず駆けつけようとした妹たちをスノウが鋭く制止した。
妹たちにはもう先ほどの怒りなど、毛頭ない。
スノウがいかなる苦難と恥辱にこれまで耐えてきたのか、なにより彼女の言うシオンのなかにある封鎖された記憶と《そうするちから》の関係性を、具体的な現象として体験してしまったからだ。
「わたしは、だい、じょうぶだから。でも長くは保たない。この頁は特別にキツいんだ。あたまがおかしくなりそう……。だから、ふたりともちゃんと見て。これが、このバケモノみたいな頁が、シオン姉の失われた記憶に該当する項目なんだ……」
どう思う?
無言でそう問いかけたスノウに、真騎士の妹たちはコクコクとなんども、深く頷いて見せた。
わかったから、もう充分だから、と態度で言う。
「だ、よね。ここにもし姉に対する《そうするちから》の関与が書き込まれているとしたら……ってか絶対書き込まれているんだけど──そうでなきゃあこんなあからさまにヤバい封印が掛かってるはずない──こいつの中身を知らないまんまアシュレさまと姉のふたりだけでスカルベリに会わせるのは、不味いって思うよね? わかってくれたよね?」
息も絶え絶えなスノウの言葉に、やはり真騎士の妹たちは首肯で応じた。
よかった、とスノウは力無く笑った。
「よかった。これを見ても伝わらなかったらどうしようかって、思っちゃってたよ」
たぶんなんだけどね、と続ける。
「姉のこの記憶が、こんな歪な封印で括られているせいで、スカルベリの記録も読めなくなっているんだよ。だから、スカルベリに会う前にこの封印を解ければ、スカルベリがなに考えているのか、いまからなにが起こるのかについても、もしかしたら先んじて知ることができるかもって思うんだ……」
「でも……こんなのどうやって……」
「開けるん、ですの?」
「それは、ひとつしかないよ。アシュレさまの《魂のちから》以外には、できないことだと思う。だって《魂のちから》って本来はこの時空には存在しないはずの、超時限的な最強の《ちから》なんだよ。時空を貫く通路のように多次元に通じている《ちから》、って言ってわかるかなあ? それで開けられないなら、もうなにをしたって無理だってことだから……でも大丈夫、絶対にアシュレさまなら開けてくださる」
たったひとつ、ちょっとした問題を除いてね。
「ちょっとした問題?」
「なんのことですの?」
「たいしたことじゃあないよ。そのためにはわたしがあのヒトのまえで、こうやってカラダを開いて、お願いするしかないってだけ。姉とあのヒトの前で、あさましい魔導書の本性を見せて、人間としての尊厳をひさぐしかないってだけ」
それからふたりの過去を浅ましく全部覗いてしまいましたって、告白して、懺悔して……暴き返してもらうってだけで……。
そう告げるスノウの声は、つとめて平静を装ってはいたが、涙に濡れてかわいそうなくらいに震えていた。
「スノウさん……こんなこんな……こんな苦しみを抱えていただなんて、しらなかった。酷過ぎるよ、苦し過ぎるよ──ごめんなさい、なにもしらないで、わたしたち!」
「ですわ。こんなの……あんまりですわ。これが魔導書との同化だなんて……酷すぎますわ。ずっとこんな責め苦に耐えてこられたってこと……知らずに……わたしたちなんてことをスノウさんに言ってしまったのでしょう」
事情を知り、現実を知った真騎士の妹たちは、もうスノウを罵ったりはしなかった。
黒塗りの頁を避けながらスノウの元に駆け寄り、跪いてその手を取った。
「ふたりとも……この姿を見せたのに……わたしなんかのこと心配してくれるの?」
「先ほどまでのことは完全にわたくしたちの落ち度ですわ。自分たちの都合のことばかり大事にして、スノウさんの痛苦、苦境のことなんにも考えれてませんでしたの。ごめんなさい、ほんとうに申し訳ないことをしましたわ! バカなのはわたくしたち、卑劣なのはエステルのほうですわ!」
「ごめんなさい、ごめんなさいスノウさん! 怖かったんだよ、わたしたちにもある汚点、傷を暴かれちゃうんじゃないかって。それをみんなに広められて、嘲笑われてしまうんじゃないかって! こんなこんな、こんなのって……キルシュが知らなかっただけじゃん、スノウさんの苦しみをわかろうとしなかっただけじゃん!」
ふたりからの正直な謝罪に、スノウの表情がすこしだけ和らぐ。
「ふたりは……やっぱり光の側の子たちだよ。そんなふうにすぐに自分の非を認めて、謝罪して、わたしのことなんか思いやってくれてさ……」
だから、だよ。
「だから言ったんだよ。ふたりはまだ光の側に戻れるって。小さな傷なんて気にしなくていいんだよ。わたしが言わなければ、だれにもわからない。そしてわたしはそのことをだれにも言えないよ。だってこの姿、この能力を見せても生きることを止めずにいられるって思うのは──本当はアシュレさまだけなんだから」
何気ないふうにスノウは言ったが、小さな傷という言葉の意味するところはキルシュとエステルには十全に伝わった。
つまるところ、自分はすでに知っているとスノウは告白したのだ。
悪夢のカタチで、すでにキルシュとエステルが体験した恐怖と屈辱、そして恥辱を自分も追体験したのだと。
「怖かったね。そして壊れてしまいそうなほど不安だったよね」
わかるよ、わたしもそうなったから。
「でもそんなあなたたちだからこそ、ふたりはアシュレさまのもとに来たんだよ」
「スノウさん……じゃあ、もう」
「やはりもう知ってらしたのですね」
あの汚泥の騎士たちとの戦いの合間に、なにが起こっていたのかを。
うん、と力無くスノウは頷いた。
どんな罵倒も暴力も甘んじて受けるつもりだった。
「でもね……だからだよ。今回の密航に、ふたりを誘ったのは」
あるいは、とスノウの唇が自嘲に歪む。
「こうなるのはわかっていたのかも。もしかしたら、ふたりにわたし、罰して欲しかったのかも」
「えっ?」
「どういう……ことですの?」
「だってさ、いくら自分で望んで検索したわけじゃあないっていっても、わたしは覗き見したんだよ。ふたりの……その……だれにも知られたくない秘密ってヤツをさ。罪悪感あるじゃん。わたしだけがふたりの秘密を握ってて、ふたりはそのこと知らなくて……アシュレさまたちからは魔導書の《ちから》については絶対に秘密厳守だって釘刺されているしさ」
でも、
「こんな状況が来るって、どこかで勘づいていたのかもね、わたし。魔導書:ビブロ・ヴァレリの《ちから》は過去にしか働かないケド……未来予知みたいな、過去の出来事から未来を推察するみたいな、さ。その能力が暴走してふたりの過去を暴いてしまったっていうのは、わたしが強くふたりを意識してたってことと、同義でもあるわけだしさ」
たとえば恋のライバルとして。
はにかみと苦さの入り混じった複雑な顔で、スノウは吐露した。




