■第七六夜:妹の疑念
「ね、ふたりにはまだ未来があるでしょう? 輝かしい世界で生きる可能性に満ちている。でも……わたしはここで逃げ出したら、もうどこにも居場所なんてないんだよ」
複雑な表情で互いに顔を見合わせるふたりに、スノウは呟いた。
「……ふたりとも聞いてたよね、姉の話。わたしが人間と夜魔のハーフだってこと。そしてそれが人間の世界で、あるいは夜魔の社会でどんな扱いを受けているのかってこと。これまでわたしが知らなかっただけで、わたしは家畜との間に戯れで設けられた薄汚い欲望の産物だってこと」
ううん、それだけじゃない。
「そんな事実を知らされる前に、わたしは自分の無知と弱さから魔導書:ビブロ・ヴァレリの融合を許してしまった。どころか、いまではその頁をめくる手を止められない自分がいることまで知ってしまったんだ。こんな女が騎士を目指していたなんてお笑いぐさだよ。最初からなれるハズなかったじゃん。こんなふしだらでみだらで人間の悪の領域に惹かれてしまう……いけない子……騎士なんてお門違いなんだよ……」
「スノウさん……」
「それはご自分を責めすぎなのでは……」
「ふたりとも慰めてくれなくていいんだよ。これが事実なんだから。でも大丈夫、もうわかったから。自分の役割が。わたしはなにがあってもアシュレさまの魔導書として、その傍らに侍らなくてはならないんだって。そうしなければ生まれてきた価値がないんだって」
それにね、とどこか虚ろに微笑むスノウの面顔に、ふたりが狂気じみたものを見たのは、きっと錯覚ではなかった。
「わたしがあのとき逃げ出したのは、姉を蹂躙していくアシュレさまが怖かったからじゃないの。もちろん記章に怖じ気づいたからでもない。ううん、怖かったことは怖かったんだけど、本当に怖かったのはそこじゃなくて」
「そこでは……なくて?」
「わたしが真に怖れたのは、シオン姉の覚悟だった。自分自身の尊厳をまるで投げ捨てるように戦利品として捧げたことだけじゃない。あのヒトはそうやって自分のお父さまを殺す計画にアシュレさまを引き込んだんだ──それがどうしようもなく恐かった」
「ちょ、ちょっと、スノウさん!」
「それはいくらなんでも──言い方というものがあると思いますけれど?」
自らの親を殺害すべくアシュレを引き込んだ、というスノウの言い回しが激しく勘に触ったのだろう。
キルシュとエステルのふたりが反射的に叫んだ。
ちょっとちょっとちょっとさあ、と詰め寄る。
「スノウさんさあ、いままでは生まれのことや魔導書の件もあったから黙って聞いてたけど、シオンさまがご自身のお父さまの殺害計画にアシュレさまを引き込んだって言い方はさすがにヒド過ぎない? だいたいアレはわたしたちの戦隊全体で承認した作戦でしょう? 作戦として認められたってことは、もう私怨とか個人的な復讐じゃあないんだよ!? それなのに……まるで暗殺計画みたいな言い方……絶対いまのワザとだよね? シオンさまの印象、最悪になるんだけど!」
「ですわ。部外者から見れば勘違いから万が一そのように思えるところがあったとしても、同じく作戦を承認した戦隊の一員として言い方というものがあります! それにシオンさまがこの作戦を提案されたのは、人類圏を守り抜く手段がこれしかなかったからではありませんの? 事実わたくしたちには、シオンさまのプランを超える代替手段を思いつくことなどできなかったわけですし、希望を託すに足ると判断されたから、みなさんは全会一致でこの計画を承認されたわけで! それをまるで暗殺のように言われては! 正々堂々名乗りを挙げての一騎打ちは、暗殺などという下衆の所業の対局にあるものですわ!」
暗殺とか謀殺などといった陰謀に属するあれこれは、正々堂々真っ向からの一騎打ちを最上のものとする真騎士の乙女的には、まったく相容れない概念だ。
キルシュとエステルのふたりにとって、アシュレの決断とそれによって自分たち戦隊が侍る戦場は、常に栄光とともにあるものでなくてはならなかった。
「ああそう、そうだね。人類圏を守る計画だってことに関しては、それはそのとおり。いまのはたしかに、わたしの言葉遣いも悪かったね。失言でした」
この点に関して、スノウは素直に非を認めた。
言い直す。
「そうなんだよね。作戦の概要としてはふたりの言う通り。人類圏の平和を守り抜くため、アシュレさまとシオン姉はたったふたりでガイゼルロンへと向かった。この作戦は全会一致のもとに承認されたものだった。夜魔の王:スカルベリの首級を得るべく。わたしたち戦隊の果たすべきミッションはまさにそこにある」
でも、ね。
深い憂慮に満ちた声音でスノウは続けた。
「でもね──姉がスカルベリを狙うにはもっと深い理由があるって、わたしには思えるんだ。正確にはアシュレさまとふたりだけでガイゼルロンに向かう、ってところがだけれども。そこには深遠な思惑っていうか、隠された意図っていうか、そういうのがあるって感じるの。単純に人類圏に平和を取り戻すっていうだけではない別の理由がある気がするんだよ」
憂いのなかに憶測と推察が入り混じるスノウの物言いに、真騎士の妹たちが眉根を寄せた。
「隠された意図? それは人類圏を夜魔の脅威から防衛するという任務の裏側に、ですの?」
「一騎打ちでもって夜魔の真祖の首を獲る。それ以上に深遠な思惑って……想像もつかないけど」
「そうか、ふたりには感じ取れないか。無理もないけど……」
スノウに悪気はなかったが、さすがにムッとして真騎士の妹たちは魔導書の娘を睨んだ。
場に満ちる険悪な空気。
しかしそれにすら気がつくこともなく、スノウは持論を展開していく。
あるいはこれこそがすでに魔導書と一体化してしまった存在の、異質な思考というものなのか。
自分を睨みつける二対の視線に臆する様子もなく、スノウは言った。
「ふたりには感じなくても、わたしにはわかるんだ。これまで色んな戦場を一緒に体験して──姉と存在を重ね合わせるようなマネまでしてきたわたしには、それがもっとハッキリと感じ取れるんだよ。姉の行動には、もっと深いワケ……ううん、隠された仕掛けがあるように思えて仕方ないんだ」
自分たちが発するあからさまな怒気をものともしないスノウに、このときキルシュとエステルのふたりは反発などというものを通り越して、薄ら寒いものを感じた。
ふたりを総毛立たせたのは、姉と慕うはずのシオンの行動に『隠された仕掛けがある』などとしれっと言ってのけるスノウの精神性だった。
なにより恐ろしかったのは、そんなふたりを気にしたふうもなく、むしろよりいっそう自らの考えに潜航するかのように語る魔導書の娘の口調には、どこか愉悦めいたものが感じられたことだ。
「シオン姉にその自覚があるのかどうかはわかんないけど……姉があんなふうに激昂してわたしたちを追い返し、アシュレさまとともにふたりだけで征くこの道行きを調えようとしたのには……ほかのみんなには想像もつかないような理由があったんだよ、きっと」
憂国の士めいた口調で言い、スノウは腕組みした。
どこか得意気な響きがそこに混じることを、きっと自分では気づけていない。
その証拠に、すでに心理的な壁を強く感じている真騎士の妹ふたりには、その憂いの質はさっぱり伝わらない。
「なにがそこまでスノウさんに疑り深くさせるのか……わたしにはぜんぜんわかんないんだけど」
「同感ですわ。正直、スノウさんがなにがおっしゃりたいのか、エステルにも皆目見当がつきませんの……」
ふたりの乙女たちは顔を見合わせて頷き合った。
「やっぱり、エステルもだよね。スノウさんってば、アシュレさまとシオンさまのなにを疑っているのか……って感じ?」
「端的に申し上げて、それはスノウさんのひとり相撲、考えすぎでは?」
確かめ合うように『このヒト、なに言っているかわかる?』という顔をふたりともがする。
その反応にスノウは頭を抱え、掻きむしった。
ああそっか、これじゃあ普通のヒトにはわからないのかー、と小さく叫ぶ。
「普通のヒトって……」
「ご自分は特別ってお話ですの?」
「いやだからあ、今回の姉の行動には謎があるっていうかあ。こうブラックボックス的な……」
もちろんそんな言葉で真意のほどが伝わるはずもない。
むしろ発言の端々に現れる特権的な視座の差が、よけいにふたりとの溝を深めてしまう。
当然だがなぜスノウが頭を掻きむしるのかを理解できず、むしろその様子のおかしさに耐えかねて、ついにキルシュとエステルのふたりは閉口した。
ドン引きです、と態度で表す。
「あー、そうだよね。こんな言い方されても困るよね。ごめん、ふたりを突き放そうとしてるんじゃないんだよ。考えをまとめないといけないのは、わたしなんだ」
スノウのほうも自分でも発言の唐突さにだけは、思い当たるフシがあったのだろう。
集中を妨げるもやを両手で振り払うようにして、思考を巡らせるジェスチャをする。
あーでもないこーでもないと、ひとり身を捩らせるスノウ。
その一方で、己の奇行めいた言動と特権的な物言いがふたりに警戒・嫌煙されていることには、一向に気がついたふうもない。
距離を取り押し黙るふたりと、ひとり頭を捻るスノウという構図はしばらく続いた。
オッス、オラ、トビスケ! じゃなかった一歩!
連載再開したの告知するの忘れてたぜ!
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