■第七五夜:どうして帰ってきてしまったか
※
「やっぱりダメ」
言い出したのはスノウだった。
それまでもノロノロとしたものだった足取りが、ぴたりと止まる。
直接的な戦闘能力で最も劣るスノウを挟むカタチで来た道を戻っていた一行は、それで足止めを食うハメになった。
「どうしたんですの? お疲れですの?」
「スノウさん? ここは勾配が急だし狭いから、立ち止まるならもうちょっと先でお願いしたいんだけど?」
前後を行くキルシュとエステルが交互に声をかけた。
一方で呼びかけられたスノウは微動だにせず、うつむいているばかり。
「…………ない」
「なにか仰いまして? 言いたいことがあるなら手短に。まだまだ道程は残っていますわ。こんなところで足を止めていたらお迎えに間に合いませんことよ。密航が露見した上に待ち合わせに遅刻までしたら、どんな大目玉を喰らうものかわかったものではありませんの」
「そうだよスノウさん、危ないからさっさとその階段下りちゃって。アシュレさまがアテルイさんに連絡をつけてくれたハズだから……。きっとレーヴ姉さまたちが迎えに来てくれる手筈だよ」
三人は落伍者だった。
アシュレとシオンが見せた夜魔の支配の技法、あまりに凄惨かつ淫靡を極めるその光景に耐え切れず、結末を見届けることさえできずに逃げ出した臆病者だ。
ひとりの女を戦利品として徹底的に玩具へと貶める儀式。
その陰惨は、少女たちの燃える恋心をはるかに上回り、彼女ら三人を脱兎に変えた。
それは将来ある娘たちに自分と同じ光なき道を歩ませまいとする夜魔の姫:シオンの慈悲であったのだが、当事者たる乙女たちからすれば、姉とも慕うシオンとのアシュレへの愛の深さの違いを見せつけられ、恋敵として完全敗北を突きつけられるという、まことに堪え難き経験でもあったのだ。
そうして、密航者である三人は、帰路についた。
このような非常事態を想定し、アシュレと霊媒:アテルイとの間に結ばれていた霊感的な繋がりを通じて、三名の密航が戦隊の本陣である空中庭園:イスラ・ヒューペリアに通報された。
おそらく数時間後にはカンカンに怒ったレーヴがすっ飛んできて、三人は戦隊の命令違反でしょっぴかれるハズだ。
軍法会議、というのは厳密な軍律を敷いていないアシュレたちの戦隊ではまずないにしても、お尻百叩きからの長期トイレ清掃係任命くらいは覚悟しなければならない。
けれどもいま、三人の足取りを重たくさせているのは、そんなことではなかった。
いやそれだって十分な理由ではあったが、そんなことよりなにより、あのときは恐怖のあまり泣き叫びながら逃げ出したものの──アシュレへの断ち切りがたい思慕の念が、三人の足取りをまるで泥土のなかを歩くかのように重たくしていたのだ。
その果てにスノウは立ち止まってしまったわけである。
「どうされたんですの? 行きましょうスノウさん。先ほども言いましたけれど、まだまだ道程は長いですわ。いくらこの間道が人類にも夜魔にも遺棄され忘れ去られた場所だと言っても、ここは人界と夜魔の世界を隔てる霊峰:イシュガルの地下。なにが出るものかわかりませんわ。まともな武器が効く相手ならそうそう遅れは取らないでしょうけれども……夜魔の血を受けた人狼……ナイトチルドレンなる特殊な獣人種も徘徊するエリアだという話をうかがったことがありますわ」
絶壁を思わせる急な斜面に、まるで刃物で切りつけるかのごとく造られた階段を階下から見上げて、エステルが言った。
大人びた口調から年上のように感じられるが、実際にはスノウよりふたつ年下の少女だ。
「そうだよスノウさん。こんな場所で戦闘にでもなったら大変だよ。わたしたち真騎士と違って、スノウさんは飛べないんだから、そんな崖っぷちで立ち止まったりしてたら危ないんだよ。この程度の高さでも、足を滑らせて床で頭ぶつけたらおしまいなんだから。スノウさんは自前のヘルムも持ってきてないから、転倒からの一撃死があるんだからね。階段を下りるときも、身体と脚を階段と平行にするのを心がけて、重心は後ろに残す感じでゆっくりね?」
同年代の友人のような口調で話しかけてくるキルシュも同じく成人前、つまりスノウより年下ということで一致している。
だが自分よりも若いふたりの少女に急かされてなお、スノウは頑として動こうとはしなかった。
「……じゃない」
「どうしましたの? 怖いんですの?」
「そうなの? でもたしかに、こんな切り立った崖に造られた階段は、ふつうの人間には怖過ぎるよね。ちょっと足踏み外したら死んじゃうもん。よし、エステルが抱っこして飛んで降ろしてあげる。それでいいよね、スノウさん?」
てかこうやって間近でみるとほんっとにおっきいな……おっぱい……牛か? などとつぶやいたエステルに、スノウは俯いたまま首を振った。
「そう、じゃない……」
「えっ? ヤバ、聞こえてた? ごめん。てか、いまなんか言った?」
「……じゃないって」
「どうなさいましたの?」
「そうじゃないって──言ったのッ!!」
心配げにはるか下方から覗き込んでくるエステルと、言うが早いか後ろから抱きしめて翼を展開しようとしていたキルシュのふたりを否定するようにスノウが叫んだ。
あまりの気迫の鋭さにキルシュは回しかけていた手を放して飛び退き、階下でエステルは後退った。
「な、なんっ」
「ど、どういうことですのッ!?」
「だから違うんだって……わたしは、わたしスノウメルテはふたりとは違うの! 人間じゃない! 夜魔でもない! ましてやあなたたちみたいに純潔に価値があって、それを守らなければならない真騎士の乙女じゃない!」
わたしは、わたしは、
「わたしはもうとっくにご主人さまのものなの! 魔導書:ビブロ・ヴァレリでありアシュレさまの忠実なる従者、いいえ下僕。どんなに苛烈な要求にも喜んでご奉仕差し上げる、それがわたしスノウメルテの存在意義なの!」
それなのに! それなのに!
「わたしは逃げた。怖くて。メチャクチャにされるのが怖くて逃げたんだ、あのヒトから、シオン姉から、自分自身の役目からッ!」
スノウからの突然の告白を、階段の上と下で聞かされた真騎士の妹ふたりは硬直した。
純潔を守ることに価値がある真騎士の乙女、という指摘。
もちろん意識してのことではないだろうが、結果としてスノウのその言葉は少女たちの心に突き立った。
ふたりは言葉をなくし、血の気を失って立ち尽くす。
そんなふたりに構わずスノウは続けた。
「いまわかったんだ。わたしは間違ってたって。だからごめん、本陣にはふたりだけで帰って。大丈夫だよね? わたしと違ってふたりなら飛べるし。レーヴさんにはごめんなさいって言っといて。わたしがいるから迎えが必要だったんだろうから。おしおきは……ふたりの分まで受けるし、今回の密航の件もわたしが主犯ってことで悪者にしてくれていいよ。実際そうだしさ」
「ちょっとまってちょっとまって! 悪者がどうとかってなんのことッ!? どこへ、どこへ行こうって言うのスノウさんってば!?」
これまで来た道を振り返り歩み出そうとしたスノウを、キルシュが引き止める。
両手を広げて立ち塞がる。
「ダメですよスノウさん! もうおふたりは封都:ノストフェラティウムへ向かわれたんです。夜の門を潜ってその先へ──ぜったい間に合いませんよ!」
「知ってる。でもまだあの都市の外には出ていない。思ったより遠くには行っていない。ワンチャンあるよ」
「遠くには行っていない、ってなんでわかるんですの? ううん、そんなことより戻ってどうするおつもりなんですの!? あすこは眠らない悪夢どもの巣窟、わたしたち三人じゃあ到底突破などできませんことよ!?」
急な階段をわずか三ステップで上り切り、スノウの背後にエステルが姿を現した。
光の翼を腰から生やし、それを使って自在に空を翔る真騎士の乙女たちにしかできない芸当だ。
しかしさらに加わった制止の言葉にすら、スノウは耳を貸そうともしない。
いっそう強い言葉で主張する。
「アシュレさまたちのこと、なんでわかるかって? 決まってる、わたしがもう騎士さまのモノだからだよ。だからこそ、お役に立ちに行くの。わたしは騎士さまの、アシュレさまの従者である以前に身も心も捧げた所有物なんだよ、もうすでに! こんなこと、ずっと前にわかってたはずなのに! それがなによ、半夜魔は異常だとかゲテモノ扱いだとかなんとかかんとか脅されて、自分を見失って! おまけにあんなあんなあん……あんな玩具なんかに怖じ気づいて! 情けない!」
「スノウさん……それ、すごく無理してるよ。声は震えてるし、顔真っ青だもん。だいたいさあ、あんなこと言われて普通でいられるわけがないよ。それにあれは、記章は玩具なんかじゃない。わたしたちをメチャクチャにして、本物のオモチャに貶めるための残忍な道具なんだよ! 見たよね、あの邪悪な機構。あんなので体中を弄くり回されたら、真性の夜魔以外じゃあ元には戻せなくなるんだよ!? ううん、真性の夜魔だって記憶に刻まれてしまった傷は治せないはずなんだかから! だからアシュレさまは、シオン姉さまは、わたしたちの将来を思って遠ざけてくださったんだよ!」
「ですわ。おふたりの慈悲心、ご厚意を無にするのはもちろんのこと、ご自身もご無理をしてはいけませんの。ご覧になられてくださいまし、ご自分の震える両脚を。……帰りましょう、わたしたちと……諦めて」
キルシュとエステルは前後からスノウにすがりついて訴えかけた。
だが、どこからそんな力が湧いたものか、スノウは取りなそうとするふたりを振り払うと、巡礼者の道を戻りはじめたではないか。
「離して」
「スノウさん!」
「いけませんわ!」
「さよなら、ふたりとも。わたしは、征くよ」
揃って叫ぶふたりに告げながら、スノウは微笑んだ。
一度だけ振り返って言い放つ。
「ねえ──無理をしなくていいのはふたりだよ、キルシュローゼ、エステリンゼ。ふたりにはまだ未来がある。わたしみたいに……汚れてない。魔導書の虜でもない。あなたたちには、まだ光の下へ戻る資格と権利が残されているもの。ふたりは帰りなよ、このまま」
「わたしたちはこのまま帰れって……。だいたい光の下へと戻る資格って? それって、ねえ、」
「今度はスノウさんがシオンさまみたいなことをおっしゃられていますわ。そもそも汚れているとかいないとか、いったいそれはどういう、」
意味?
意味ですの?
とエステルとキルシュは問おうとした。
そんな真騎士の妹たちにスノウはさらに笑みを広げて見せた。
穏やかだけれど虚ろな笑みだ、とふたりは思う。
「そのまんまだよ、ふたりとも。あなたたちはまだ戻れる。汚れてなんかいない──まだ真騎士の乙女としてアシュレさまに仕える栄光に満ちた未来があるって意味」
その指摘にキルシュとエステルは、そっと下腹を押さえた。
汚れてなどいない、と断言されると後ろめたい気持ちがなくはない。
スノウの言い方には、そういう気持ちを刺激する含みが感じられた。
けれどもたしかに、相手をアシュレと限定すれば真騎士の乙女としての未来に大きな支障はないふたりではある。
半夜魔として生まれ落ち、世界最悪の魔導書に同化され侵食されつつあるというスノウの事情に比べれば、ふたりが共有する隠しごとなど、嫁ぐと約束を交わし合った相手に先んじて唇を奪われた程度のことでしかない。
しかもその相手というのは、これ以上ないほどにふたりが望む、意中のヒトなのだ。
その場合、自分たちにつけられた小さな傷は、むしろ婚約指輪に匹敵する約定の証となる。
スノウの言葉通り、たしかにふたりにはまだ、陽の光の下に戻る権利が残されていた。
曖昧に頷く。
ふふ、とスノウは笑った。




