■第七二夜:その未練は花に似て
寂しく言い捨てるアストラを、しかしアシュレは見捨てられなかった。
力任せに抱きよせる。
驚いたのはアストラの方だった。
しかし、わずかに瞳を開かせるだけのこと。
「なに、を……している、アシュレダウ。彼女──“叛逆のいばら姫”からすべてを譲られたそなたであれば、すでに高位夜魔を殺し切る術を持ち得ているであろう。あの……忌まわしき邪剣:ローズ・アブソリュートが、そなたの手にはあるはずだ」
いまさらなにをためらうことやある?
すべてを悟り、絶望の縁に立った彼女はひどく年老いて見えた。
「後生だ。わたしが、アストラがアストラであるうちに、どうか殺してくれ」
「なぜだ、アストラ。どうして変じなかった? いや変じない? いまならまだ間に合うはずだ。なぜ我を憎まない? どうして許す? 断罪せぬままに我が征くことを認めるのだ? 腕の一本や二本、食いちぎられるものだと我は思っていたし、その権利がオマエにはあったはずだ。それなのに、なぜ?」
問いかけるアシュレに、アストラは心底嫌そうな顔で応じた。
「それを……女であるわたしに言わせるのか」
「我への好意ゆえだと、そう解釈して良いのか?」
アストラはさらにいっそう不機嫌げな顔になったが、それが己を苛む苦痛によるものか、アシュレの言動に対するものなのかはもうわからなかった。
反論を諦めたように瞳を閉じる。
そんなアストラに対し、アシュレは言葉を継いだ。
「そもそもが、オマエには採るべき方策がいくつもあったはずだ。たとえば怒りに任せ吸血剣を振るう必要はなかった。我がオマエを謀っていたと判明した時点で、オマエはすぐに本性を露にすればよかったはずだ。それをオマエは……みすみす好機を逃したどころか、自らの胸乳を貫いて自制までして見せた。なぜだ?」
応えはなかった。
唇が微かに震えただけ。
アシュレの問いかけに唇を歪めたアストラの肌は、もうカサカサに乾いていた。
痙攣のたび、ぽろぽろと死滅した体組織が灰のように崩れ落ちる。
アシュレは続けて問いかけた。
「そもそも、それ以前にオマエは大きな好機を手にしていたはずだ。オレの手に“切札”があることを知った瞬間、その事実を耳にした瞬間──オマエはただ我とともにガイゼルロンを目指すことを申し出ればよかった。それだけでオマエの《ねがい》は叶ったのに」
「それは……どういうことだ?」
さすがに理解が及ばなかったのだろう。
アストラが億劫気にまぶたを持ち上げて訊いた。
簡単なことだ、とアシュレは微笑む。
「オマエは我たちを逆落としにできた、ということだ。ガイゼルロン宮廷に我たちを引き入れたところで諸侯と結託して我を討ち取り、大公の冠と戦利品としての我を己が掌中に収める好機であったということだ。蹂躙派とオマエの主張の違いなど、“叛逆のいばら姫”の血を引き、大公の冠の所有権をほしいままとする我を前にしては、どれほどのことあるまい」
その功績を持って、オマエはオマエの主張をガイゼルロン宮廷に認めさせることができたはずだ。
アシュレの語る筋書きに、アストラは苦笑してみせた。
「……それは……思いつかなかったな」
「何度でも言うが、いまからでも遅くはないのだぞ?」
無警戒にアストラを抱き寄せながら、アシュレは言った。
「まだオマエの命は尽きてはいない。そして夜魔にとっての窮地とは、それが真の死を迎えるまでは、いくらでも逆転可能な盤面でしかないのだからな」
「わたしに……アストラに、初めて好いた男の前で怪物に変じろと、そう言うのか?」
やはりそなたは酷い男だ、とアストラは笑い咳き込んだ。
びしゃり、とタールのごとき飛沫が音を立てる。
理解に及んだアシュレは、悔悟の念に駆られた。
「そうか、そういうことだったか……。すまぬアストラ、我がオマエを苦しめていたのだな」
「アシュレダウ、そなたが憎い。アストラを謀り、我が純真を玩んだそなたが憎い。我が父、真祖:スカルベリをして夜魔の血の最も高貴なるものとまで称賛された我が姉:シオンザフィルの愛を一身に受け、すべてを受け継いで……“切札”を得て、それでなお高みに昇ろうとするそなたが憎くて堪らない」
震える声で囁くアストラを、アシュレは強く抱きしめた。
「それに比べてわたしはなんだ。高貴の血筋に生まれながら、ろくな《ちから》も持たず、薄い色素の髪と瞳と──劣等の極み。生まれて初めて愛した男は、元人間で敵で、すでにほかの女のもので、だれの代わりにもなれない……」
ああ、とアストラがうめく。
すがりつかれ、強く抱き返された。
「ああせめて、せめていまこの眼前にある首筋に牙を叩き込んで、啜って、組み伏せて喰らってやれたら!」
徐々に《ちから》を帯びていくその声に、しかしアシュレは抗わなかった。
もし彼女が口走るそのとおりにするのであれば、すくなくとも最初のひと齧り分は己の血肉を持って贖うつもりだった。
けれども、いくら待ってもその瞬間は訪れなかった。
狂おしいほどに込められていた両腕の力が、アストラの指先から抜けていく。
「でも……できない。真の夜魔の女であれば、ためらわずにそうしたであろうことが、わたしにはできない。アストラは落伍者だ。ニンゲンの文化を学び過ぎた。ニンゲンの愛のカタチを知り過ぎた。しっているかアシュレダウ、アストラだってそなたの正体には薄々にしても感づいていたのだぞ? ただあまりに怖くて、その事実を正視できなかっただけだ」
それが確信に変わったのは、
「そなたが二度目に、わたしを助けてくれたときだ。“子負い”の姿に心壊されかけたアストラを組み敷いて愛してくれた。あの作法……。夜魔の男ではあり得ない、ヒトの子が互いを慈しみ求めあうあの作法に、アストラは救われたのだ」
「それは……そうか。しまったな。我も無我夢中だったよ」
飾り気のないアシュレの言葉に、はは、とアストラが乾いた笑い声を上げた。
「それにもし、そなたが真に夜魔の男であったのなら……壊れかけた女など路傍の脇にでも棄てていくものだ。傷物になどなんの価値もない、それが夜魔の社会なのだから」
「…………」
「あの時点で、アストラはもう廃棄品同然だったのだ」
それなのに、
「それなのにそなたはアストラを見捨てないでいてくれた。あまつさえ帰ってこいと呼んでくれた。愛して……くれた、というのはアストラの思い上がりかな?」
問いかけにアシュレは答えなかった。
代わりにアストラを抱く両腕に力を込めた。
「やはり……思い上がりだったか」
「オマエをこれ以上傷つけたくなくて黙っていた。すまない。許せ……とは言わん」
「いいのだ。たとえ謀だったとしても、最初からアストラを利用する算段だったとしても……いいや廃棄品などに利用価値はないな……では戯れだったとしても、だ」
捨て鉢に言うアストラを、アシュレは力づくで向き直らせた。
「聞け、アストラ。我が我自身の想いをオマエに伝えずにいたのは、我がオマエとはやがて敵対することになるであろうことを知るゆえだった。我の正直な気持ちを伝えることが、結果としてオマエ自身を縛り苦しめまるで利用するかのようなことになってしまうことを怖れたがゆえだ」
だが、と両腕に力を込め言った。
「だが、あえて言葉にすることにした。アストラ……我はオマエを愛している。人類圏の文明と文化を愛し、夜魔と人類の共存への道を真摯に模索したオマエのことを、我はすでに愛してしまっていたのだ」
「アシュ、レ?」
呆然とアストラがつぶやいた。
「いま、なんと言った?」
「高位夜魔同士の間で、言い交わしたことを問い直すのは、最大の禁忌だと親に教わらなかったのか?」
「アストラはもう死ぬのだ。そう決めたのだから、そのまえにもう一度聞かせてくれ。嘘でも良い。もう一度、あの言葉を言ってくれ。そなたの声で聞きたいのだ」
「アストラ……我はオマエを愛している。これでいいか?」
アシュレはアストラの思うようにしてやった。
すすり泣くアストラの喉はしわがれ、涙は枯れ果てていたが、それでも夜魔の娘は泣いていた。
「アストラが、アシュレを殺せなかったのは──そなたに我が本性を見て幻滅して欲しくなかったからだ。そなたを愛してしまっていたからだ。アストラもそなたを想っていたのだ」
わかっていた、わかっていたのだ。
アストラは繰り返した。
「わかっていた。もしそなたが本心からアストラを謀るつもりでいたのであれば、そなたはこんなことを明かす必要はなかった」
すすり泣きながらアストラは続ける。
「“叛逆のいばら姫”とのこと、大公の冠のこと……なにひとつ明かす必要はなかった。それどころか、アストラを己が戦利品に仕立て上げ、所有物の列に並べることなど造作もなかったはずだ」
あのときもあのときも、そうする機会など、いくらでもあったではないか。
「それなのにそなたはそうしなかった。それどころか、アストラからのわたしを差し上げると申し出を受けてすら、これを受け取ろうとはしなかった。口先だけの約束を交わし、アストラを組み伏せ思うさま蹂躙し尽くした揚げ句に、戦利品とすることはあまりに容易であったにも関わらずだ。そうすればアシュレはいかなる道行きも選択肢も思いのままに選べた、それなのに!」
そなたはそうしなかった。
「その時点で気がつくべきであった。そなたは最初から、アストラをこれ以上ないほどに気遣っていてくれたのだ。最初から愛していてくれたから、というわけではあるまい。庇護欲とか……どうせそんな程度であろう。下に見て。だがすくなくとも、アストラを騙そうとか、陥れようとかいう薄汚い魂胆だけはなかった」
「アストラ……」
「それどころかいまだってこうして無防備に首筋をさらして……。襲ってしまうぞ、普通の夜魔の女であれば。そなた聞いていないのか、あの女から?」
夜魔同士における首筋からの吸血は、夜魔の愛のその頂点のものであるということを。
「それはたとえば、性交より深い血の交わりなのだ」
「アストラがしたいというのであれば、我はそれに応じる所存でいる」
「な、に?」
バカっ、とアストラが反射的に、アシュレをなじった。
「際どい冗談は夜魔の社交界では挨拶のようなものだが、言っていい冗談とそうでない冗談とがある! 時と場合を考えよ!」
「冗談……だったつもりはない。この後に控える難事に、差し障りがあるほどはさすがに困るが」
「そなた、そうやって“叛逆のいばら姫”も籠絡したのか。たらし込んだのか?」
そうやって夜魔の血統を我が物にしたのか、と問われたのだと、アシュレはこのときアストラの言葉を解釈した。
「いいや。我は彼女に救われたのだ。その心の臓と臓腑のすべて、血肉を贈られた。爆ぜてがらんどうに成り果てた我が骸に、こともあろうに“叛逆のいばら姫”は己が胸を断ち割り捧げてくれた。我はただ、死んでいただけだった。なにもできず、なにひとつ成し遂げられぬまま……波間に消えていく運命だった」
それを引き止めてくれたのが“叛逆のいばら姫”──シオンザフィルだったのだ。
アシュレの独白に、アストラが息を呑んだ。
引きつけを起こしたかのように、言葉が途切れて、乱れる。
無理もあるまい。
予想だにしない話だったからだ。




