■第七一夜:血の赫怒(かくど)
ビョウ、と刃が風を切り、唸りを上げた。
遅れて煮えたぎるような熱さが鼻先を掠める。
アストラが床に転がっていた吸血剣を拾い上げるや、抜き打ちで振るったのだ。
沸騰するように熱くなった血を、刃に変じて襲いかかってくる!
スカルベリに対する敵対意志を表明したときでさえ我がことよりも、アシュレを案じてくれた娘にとって、宝冠:アステラスと彼女の関与、その事実だけは、決して看過できぬ己の存在意義に関わる大事であったのだ。
「そなたそなたそなたァァァァァッ!」
真祖の娘にしては色素の薄い瞳を紅蓮に染めて、アストラが連続攻撃を仕掛けてくる。
アシュレはそのことごとくを踊るようなステップで紙一重で回避した。
背後で石材が切り捌かれ崩れ落ちる音が聞こえる。
「よくもよくも、いまのいままでアストラをッ!!」
攻防、いやアシュレは防戦しかしていなかったが、ふたりの戦いはしかしそう長くは続かなかった。
攻勢に回っていたアストラの足がもつれ、倒れ込むようにして膝をついたからだ。
吸血剣の唯一の弱点。
それは攻撃時に大量の血液を消耗することだ。
そしてそのことに対し、アストラには自覚がなかった。
己がすでに数ヶ月の間、アシュレと出逢うまでのやりとりをこの穴蔵のなかで繰り返し、衰弱の極みにあったことすら。
眠らぬ悪夢ども相手に無益な対峙を繰り返し、そのたびに己が体内の高貴なる血を、まるで草木に水を与えるかのように振りまいてきたことに。
飢えた吸血剣はその舌を彼女の血肉だけに留まらず、骨にまで潜り込ませ、その髄からまでも血を絞り出していたのだ。
「おのれおのれ、オノレェ──エエエエエエエッ!!!」
メキリ、とアストラの体表面に亀裂が走ったのはこのときだった。
右目を通る線上で顔面が裂け、その奥から夜魔としてのアストラの本性が覗いていた。
頭髪の奥からは山羊を思わせる節くれ立った角が突き出し、吸血剣を握る指先は鱗に覆われ、ナイフの切っ先のごとき爪が白魚のようにたおやかだったアストラの指を食い破って生え揃いかけている。
「ガアアアアアッ、アシュレダウ、オノレオノレハ、コノアストラヲ、イマノイママデ、タバカッテ──ッ!!」
刹那、跪いていたはずのアストラが漆黒の疾風と変じて襲いかかってきた。
アシュレはこれも軽妙なステップで躱すが──交差の瞬間に伸びた鍵爪に頬を深く切り裂かれる。
「アストラッ!」
受けた傷の反動を利用し、その場でくるり、と振り向いたアシュレの顔の傷は次の瞬間には失せている。
恐るべきは高位夜魔の、“叛逆のいばら姫”よりその臓腑までをも与えられ夜魔の《ちから》に覚醒した男の肉体復元能力か。
それでもあの爪が直撃していたら、間違いなく頭部は消し飛ぶであろう。
そこを押さえ込まれ連続攻撃……いいや捕食を受けたら、たとえ高位夜魔でもただでは済まない。
本性を露にして戦うことが、特に夜魔同士の間で恥だとされるのは、この危険性を封じるための道徳教育でもあったのである。
アシュレは本能的にその危険性を察知し、身構える。
けれども、予想された追撃はなかった。
次なる襲撃に備え振り返ったアシュレが見たものは、己が胸郭に吸血剣を突き込み縫い止めて、暴走する本性を押さえ込もうとするアストラの姿だった。
アシュレは同じく吸血剣を用いる夜魔の騎士とカテル島防衛線のときに刃を交え、やはり同じく吸血剣の権能を解放して己が本性の顕現を完全なものとする敵と相対したことがある。
魔剣と己を等しくし、自らを一本の刃と化す邪法。
それは自らの血統に絶対の自身を持つ高位夜魔の騎士が、人類の騎士に対してたとえどのような恥をさらし、さらに禁忌を侵すことになったとしても絶対に負けることは許されないという、ある種の矜持の現れであった。
だがこの瞬間アストラが見せた覚悟は、それとは真逆のものだった。
目にもとまらぬ早さで振り抜かれた一刀は自身の両脚を切り裂いては翻り、もはや護るものとてないシルクの布地一枚を貫いては、アストラ自身を縫い止める銛と化した。
がぼり、とアストラの口を吐いて、真っ黒な怨嗟の焔を思わせて血反吐が漏れ出るのをアシュレは見た。
切り捌かれた両脚はアシュレの傷同様、瞬く間に接合し、何事もなかったかのように復元されるが、その間に失われたバランスを取り戻す術はもはやアストラにはない。
この顛末が大事に至らなかったのは、自ら切り飛ばした両脚のせいでバランスを欠き加速に耐え切れずさらには大量の血液を失って息も絶え絶えとなったアストラを、アシュレが身をもって抱き留めたからだ。
素早く指を走らせ吸血剣を抜き取ると、右手の結合を解除することも、アシュレは忘れなかった。
がぼりごぼり、とアストラの口から漏れる血液はすでに変色して真っ黒だった。
含有されていた《夢》すなわち《希望》を使い切った夜魔の血液は、タールのように変色し臭いを放つ。
それはアストラという存在をこの世に繋ぎ止めるためのくびきが、失われようとしている証拠だった。
「なぜだ、アストラ。なぜ自らを貫き止めた。吸血剣の持つ破壊衝動に身を任せていたのならば、我を下すことまではできずとも、一矢報いることくらいはできただろうに」
彼女を抱きかかえたまま問いかけるアシュレにアストラは答えず、目を逸らしながら吐き捨てた。
「不覚だ、不覚過ぎる──よもや眼前にいた男がそうであろうと見抜けずに、これまで乳繰り合っていたとは」
我が窮地に応えるかのように現れてくれた男こそが、まさか人類圏よりの刺客であったなどと。
「そのことを知らぬままに、アストラはそなたを同志だと思い違いしてしまっていたのか。たしかに……たしかに人類圏の安寧を願うという意味では、わたしたちの利害は一致しているものな……。嘘ではないという、そういう理屈か」
己が不覚を、アストラが力無く笑う。
アシュレを見つめ直す。
しばらくして、なるほどそうか、とさらなる納得の言葉を口にした。
「そうか──そなただったのだな。“叛逆のいばら姫”の魔性に魅入られエクストラム法王庁を離反し、そうであるにも関わらず我ら夜魔と敵対する《意志》を示し続けてきた許されざる仇敵がひとり……元エクストラムの聖騎士というのは」
言われてみれば、なるほど思い当たることばかりよ。
「だが……たとえそうであったとして、どうしてこんなことが起こり得ると思うのか。それこそよもや、というヤツではないか? 人間は、特に聖騎士などという輩は、我ら夜魔のことを嫉み僻み、心底憎んでいるものだとばかり思い込んでいた」
見誤っていたのはアストラだったということか。
震える唇が、屈辱のカタチに歪む。
「“叛逆のいばら姫”と結んだのも、あの女に魅入られたふりをして腹の底では人類のための捨て石に──尖兵に仕立て上げ利用する腹積もりでいるものだとばかり思っていた。あの女も結局は利用されているのだとそう思って……いいや……そう思いたかったのだな、わたしは」
自嘲しながら、アストラは認めた。
「だが、そなたはそうではなかった」
苦しい息の下、アストラが牙を剥いてみせた。
自らを嘲弄するように嗤っては、咳き込む。
己の認識の甘さに対する感情が黒色に変じた血液とともに口中に溢れ、流れては落ちた。
「まさか……というのはこのことであろう? まさかその男が直談判に赴くため夜魔に転じてまでして、この道を遡ってくるなどと、だれに想像できただろうか。ニンゲンとしてのすべてを棄てて……“叛逆のいばら姫”との約定を果たすべく、まさか単身挑んでくるなどと……。そなたのそれはもはや彼女への“愛”と呼ぶしかなきものであろうよ」
愛ゆえに捧げられた血肉を、やはり愛ゆえにそなたたちは活かし、生かそうとしたということだ。
なんと、なんとくやしいこと。
あらゆる望みだけでなく、己の恋心までをも打ち砕かれ、アストラは再び咳き込んだ。
そのたびに粘ついて変色した液体が床面を彩る、
溢れ飛び散る血液は、吸血剣が彼女の内面を深く傷つけていた証拠だった。
もう彼女の体内には、肉体の再生に使えるだけの血液が、充分に残されていないのだ。
激しい血の渇きにアストラが襲われていることは、もはや疑いようもない。
けれどもその渇きを押さえ込み、さらには暴走しかけた夜魔の本性の姿をすら拒絶して、アストラは少女の姿をした自分での対話をアシュレと望んだ。
が、それももう限界だった。
瘧にも似てアストラを見舞う断続的な痙攣は、失血とそれがもたらす血の渇きに起因するものだ。
血液の温もりを失った肌は氷のように冷たく、その体表面はささくれ立ったようにひび割れていた。
「もういい──後生だアシュレダウ……そなたの手で殺してくれ」
己が不死生に絶対の誇りを持つ高位夜魔の言葉とは思えぬセリフだった。




