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■第七〇夜:慟哭




 まさか、と我知らずアストラは虚ろにつぶやいている。

 そうだ、とアシュレは首肯で応じた。


「まさか……アシュレダウ」

「アストラ、オマエはこう言った。その"切札”さえあれば、わたしは蹂躙派どもをぐうの音も出ないほどに黙らせて、人類の降伏を認めさせることができると」


 では、畳みかけるように、しかしあくまでも静かにアシュレは言った。


「それを示せば、ガイゼルロン宮廷の大半を占める蹂躙派のことごとくを飛び越えて、オレは大公:スカルベリに直接の一騎打ちを申し込めるのではないか?」

「そなた!」


 光の速度でアストラの両手がアシュレのシャツを捉えた。

 どうして自分がそんな行動に出たのかわからず、アストラ本人も驚いた顔をしていた。


 それから改めて己の気持ちに気がついたように、アシュレを凝視してくる。


 驚いたのはアシュレも同じだ。

 この場面この話の流れ、アストラは身を翻してアシュレから距離を取るものばかりだと思い込んでいた。


 あるいはこの瞬間にも、抜き打ちの斬撃が来るものと。


 なぜならこれは、ガイゼルロンという国家への敵対意志の表明にほかならなかったからだ。


 けれども、その国の国家元首の娘であるはずのアストラがアシュレに向けるのは、敵意どころか、警戒や裏切りへの怒り、侮蔑ですらない。


「アシュレ、ダメだ、それはいけない! たとえそなたがそのための“切札”を手に入れようとも──実際にいまここに“切札”があったとしても、そんなことを考えてはいけない! それは、そんなことをしたらそなたは確実に破滅する!」

「破滅ときたか……。どうしてそんなことを言う?」

「どうしてって……それはわかるからだ! たしかにそなたの《ちから》は強大だ。だがスカルベリ陛下のそれは、いまのそなたを遥かに凌ぐ。ずっとおそばで見てきたわたしだから、血を分けた実の娘だからわかるのだ。あの方は、あの方だけは違うのだ。あれは……あれはもう夜魔の領域を超えていらっしゃる……」

「しかし、傷つきもすれば血も流すのだろう。であれば……跪かせることだってできようほどに」


 その首を獲る、とはさすがに言えずアシュレは言葉を濁した。

 アストラはもう流れる涙を隠そうともしない。

 無謀を口にしてはばからない男を、必死に説得しようと掴み掛かってくる。


「無謀が過ぎると言ったッ!」

「まさかだがアストラ、オマエはオレのことを案じているのか?」

「ッ──! 〜〜〜〜んんん、こんの女たらしめがあああああああッ!! ああそう、そうだッ! そなたのことが心配でたまらないのだっ!」


 これでいいかっ!


 これまでであれば頑なに否定してみせたであろうアストラが、にわかに自らの感情を認めてみせた。


 あまりの素直さに、アシュレは呆気にとられてしまった。

 思わず抱き寄せ、アストラを確かめてしまう。

 

「これは……かわいくなったものだ。参ったな、また組み伏せたくなったぞ」

「あ、ああう、そんなあけっぴろげに言うか!? だが……だが、そなたがそう想ってくれているというのであれば、アストラはもう抵抗しない。観念する」


 戯れめいて口にしたアシュレの言葉を、アストラは本気と捉えたようだった。


「組み伏せるが良い。いくらでもそなたの思うようにアストラをしてよい。だが、だがお願いだアシュレダウ、陛下と対決するのだけは止めてくれ。代償にわたくしを、アストラを差し上げる!」


 驚くべき提案にアシュレは目を瞠った。

 さらに続けてアストラは言う。


「望むならこの場でアストラを言い訳できぬほどに蹂躙してもらって構わない! 尊厳を踏み躙り、引き毟って、犯し抜いてくれて構わない!」


 まだ未成熟な徴を示す胸乳に手を当てて言う。

 そのかわりッ、


「そのかわりに諦めて、わたしと人類圏を目指してくれ! そしてすべてを成し遂げ凱旋しよう。勇者として遇するようアストラからも陛下に取りなすし、それ以前にこれはだれも文句のつけようがない第一級の戦功なのだ。そうすれば陛下との一騎打ちなどせずとも、そなたは陛下に次ぐ地位を得られる。ことの推移次第では一滴の血も流さず、次代の真祖の地位はそなたのものになるやもしれぬ! いいやきっとそうなるよう、アストラも協力するゆえ!」


 懇願するアストラの瞳からは、だくだくと涙がこぼれ落ちていた。

 全部を差し出すとまで言い切ったアストラに、さすがのアシュレも心が動いた。


「なぜそこまでしてくれる。どうしてここまで親身になってくれる」

「それはっ……。それは同じだ。アシュレが、アシュレダウだけがアストラにここまでしてくれた。助けてくれた、救ってくれた、一緒に来いとまで言ってくれた! そんな男だからこそだ!」


 だから!


「頼む。アストラなどではそなたの想い人の代わりにはきっとなるまい。でも、それでも良い。人類圏との和平が成就した後であれば──アストラは、アストラは、アシュレダウの戦利品トロフィーになってもかまわない……かまいません!」


 すべて、全部をさしあげます!


「だから、だから行かないでアシュレダウ。おねがいです。あなたを失いたくない!」


 人形のように整ったその顔をくしゃくしゃにしてすがりついてくるアストラを抱きとめながら、アシュレは目を閉じ小首を傾げるようにして答えた。


 心を動かされたことは認めなくてはならない。

 だが、だからといって歩みを止めることは、もうすでにアシュレにはできないことだったからだ。


「すまない。それだけはできない」


 否定の言葉は簡潔で、声は密やかではあったが、それゆえにそこに込められた想いは、アストラの小さな胸を押しつぶすに充分過ぎる質量を有していた。


 アシュレダウという男が、ここに至るまでにいかに生き、いかに戦い、いかなるものを犠牲にしてきたのか。


 すべてが、そのひとことに集約されていた。


 尊厳とプライド、己自身のあらゆるものを賭けた嘆願を拒絶され、ああ、あああ、とアストラが慟哭する。

 獣のように泣きじゃくり、声を限りに激情をアシュレに叩きつける。


「ああ、ああ、ああああああッ──この大馬鹿者、石頭、無謀で目端の利かない愚か者めが!! アストラでは駄目なのか、わたしなんかじゃ釣り合わないのかッ!」

「アストラ……すまない。これがいまのオレにできる精一杯の誠実さだ」


 アシュレから向けられる謝罪に、アストラは泣き叫びながら、ついに真実を告白する覚悟を決めた。

 本当は同道を決めてくれたアシュレにだけ話すつもりだったことだ。


 そう、まだ最後の一枚、決定的なカードがアストラの手の内にはあった。

 

 自分の“切札”がいまどこにあるのかについて。

 このときのアストラは、己の手札のすべてをさらしてでも、アシュレを自分の側に引きとどめようとしたのだ。


 泣きながら、それでも必死にアシュレの無知を嘲るように表情を作る。


「では──ではアストラも答えよう。愚か者め、いいかよく聞け、これが事実だアシュレダウ。そなたは陛下のところまで辿り着けない。たとえイフ城の城門を潜れても、そのお姿を遠くに拝見することはできようとも、決してそなたの望むような一騎打ちの機会は訪れない!」

「アストラ? 急になにを言い出す? それは……どういうことだ?」


 にわかにもたらされる断言に、アシュレはわからないという顔をした。

 物分かりの悪いヤツだな、とアストラが泣きながら口角を歪めて見せる。


「ないと言っているんだ、そんなものはないと言っているんだよ!」

「なに?」

「わたしは持っていないと言っている」

「持っていない? なにを?」

「どこまでも察しの悪いヤツッ! この話の流れでほかになにがある。"切札”を、だッ! そなたが夜魔の騎士たちの慣例を飛び越えるために必要な、不可欠のそれを、わたしはいまだに持ち得ていないと言っているんだ!」

「……"切札”をアストラは、持っていない?」


 己が血統へのプライドから、どうしても言葉にすることのできなかった秘事を吐き出して、アストラは儚く笑った。


「そうだ! わかったかアシュレダウ、そなたがどんなにアストラを籠絡しようと、わたしを組み伏せ、たとえ戦利品トロフィーに仕立て上げても、そなたは絶対に"切札”を手にすることはできないのだ!」


 なぜって、


「なぜって、この手にないものをアストラは差し出すことはできないのだから!」


 しがみつくようにしてアシュレの着衣を掴み、嗤いながらアストラは叫んだ。


「なんにもない、なんにもないんだアシュレダウ。わたしには、アストラには、価値あるものはなんにもない。すべて、父さまの愛も母さまの愛も、臣民の期待も、王族の証も、すべてすべて、大事なものは全部アイツが──シオンザフィルが奪っていったんだ!」


 だから、おねがいです。

 虚飾をかなぐり捨て、それゆえに内なる虚ろを隠さず、アストラは告白した。


「アストラと来てください。人類圏に赴いて、人間たちを説き伏せてください。そして、わたしとともに"切札”を手に入れてください」

「アストラ、それではオマエの言う"切札”というのは」

「そう、そうです。アストラのふたつの"切札”とは────」


 縋り付いてくる夜魔の姫君の口元に、アシュレはそっと耳寄せた。

 アストラは声を潜めて耳打ちする。


 彼女がひた隠しにしてきた"切札”の名。


 それを聞き、事実を確認したアシュレは、思いがけず笑みがこぼれるのを意識しなくてはならなかった。


 右手で己が顔を覆い隠すが、ク、ククク、という忍び笑いが漏れるのまでは止められない。


 その異常さに、アストラが強張った指を放した。


「アシュレ……ダウ? なにを、なにを笑う?」


 男の見せる豹変に着いていけず、アストラはただ呆然とアシュレを見上げた。


「アシュレダウ、どうした、なにがおかしい?」

「そうか、そういうことか。なるほど、おかしなこともあるものだとずっと思ってきたが、合点がいった」

「どういうことだ?」


 ひとり納得して頷くアシュレに、アストラが詰め寄る。

 アシュレはそれには取り合わず、姿勢を正し、肩をそびやかした。


「ガイゼルロンには──彼の夜魔の大公を戴く公国には、そのなかでも特に上級夜魔の血統には、在りし日の思い出を絵画にして残すという習慣がないのだな」

「なに、を言っているのだ……アシュレダウ。そなたがなにを言っているのか、アストラにはわからない。たしかに真なる夜魔が自らの記憶以外を頼りにすることはない。それは大いなる恥とされていることだからだ。だが、いまの話と"切札”の話と、どこに繋がりがあるというのだ……」


 アストラの見せた態度は困惑というものだが、それがアシュレの確信をさらなるものとした。


「ではやはり見たことがないのだな、アストラはその姿を」

姿? なにの、だ? そなたは、なにを言っておるのだアシュレダウ?」

「オマエは、お前自身が掲げるふたつの"切札”の、そのどちらに関しても、その真なる姿を見たことがないとそう言っているのだよ」

「なッ!? なぜ、なぜにそれを。いやまて、まさか……」

「一度でもその目にしていたのであれば、すぐに気がついたはずだからな」

「すぐに気がついた? どういうことだそれはッ」


 まったく事態の急変に対応できずにいるアストラに、今度はアシュレがかぶりを振る番だった。


「それでもここが常なる位相であれば問題はなかったはずだ。夜魔同士の血の共振はすぐに彼女・・の存在を暴いただろうし、その彼女を戦利品トロフィーにした男の頭頂に輝くものがあるのならば、それすなわち簒奪されし夜魔の大公の冠だとわかったであろうからだ」


 だが、


「だが、ここでは血の共振は役立たずだ。常に変化し続ける眠らぬ悪夢どもの流動的な気配のせいで、奴らも我々も血の共振をまともに感じ取れない。それゆえにオレはこの道を選んだわけだが……思わぬ副産物というか副作用があったのだな」

「どういうことだ。なあ、アシュレダウ、そなたはなにを言っている? まさか、まさかまさかまさか、まさかそんなことが──まさか本当に……そうだと言うのか? いや……嫌だそんな……そんなことがあるわけ……あるわけない。そうで……あろう……?」


 認められない、いや認めたくないのであろう。

 両手で己が両頬を包み込みながら、あり得ないほどに震えつつ、アストラが後退る。


 どうして認められよう。


 まさか、いままでずっと供にあり、己にそなたの所有物になっても構わないとまで言わせた男の頭頂に輝いていたものが……喉から手が出るほどに欲し焦がれた"切札”の片割れであったなどと。


 そしてさらにもし仮に、それが夜魔の大公の冠──宝冠:アステラスであったのだとしたら……。


「では……ではまさか、そなたに身も心もすべて捧げ尽くした女というのは……彼女・・とはまさか……」


 アストラからの問いかけに、アシュレはもう応えなかった。

 ただその口元に浮かぶ酷薄な笑みだけを答えとして。


 オオオオオオオオオオオオオオオオッ──と雄叫びが堂内にこだましたのは、刹那のことだ。




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アシュレのスケコマシー
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