■第六九夜:“切札”
アシュレは伝える。
アストラに、己が来意を。
それは夜魔の大公の娘をして、仰天させるに充分な内容であった。
「意図的に黙っていたわけではない。ここまで明かさずに来てしまったのは、すべて状況の為せる業だ。あまりに立て続けに事件が起きた。起きたな? それに……話しているような暇もなかった。なにしろ我の側の事情・経緯をはじめから話すと気が遠くなるほどに長くなる。だが、ただ一点、なぜガイゼルロンを目指しているのかという点にだけ話を集約するなら──我は挑みに来たのだ」
夜魔の大公にして、真祖であるスカルベリに。
これまで同様、力みなく告げたアシュレに、アストラはうめくことしかできなくなってしまっていた。
いろいろと予想してみたものの、そのなかで一番あり得ない、あってはならない回答をアシュレが言葉にしたからだ。
「なん……だと……」
絶句する、というのはこういう場面でこそ用いるべきなのであろう。
あまりに自然体な振る舞いから繰り出された衝撃の告白に、アストラは棒立ちにならざるを得なかった。
「そなた我が君に……夜魔の大公:スカルベリに挑戦しようと来た、とそう言うのか。それがそなたに、すべてを託した女の遺志であり、いまやそなたの《意志》だとそう言うのか……」
「そうだ、と言ったら?」
呆然と問いを口にするアストラに、さらりとアシュレは応じてみせた。
自分がガイゼルロンを訪えば、まるで自然とそれが成立すると言わんばかりに、自信に満ちた態度で。
対する夜魔の姫はさかんに首を振ってみせた。
「それは……それはとても無理だ。無謀をも通り越して、実現不可能な望みだぞ、アシュレダウ」
「なぜ?」
「なぜってそれは……。大公に挑戦しようとも、その前には必ず上級貴族たちが立ち塞がる。いかにそなたが強大な《ちから》を持っていたとしても、伯爵位や侯爵位の夜魔たちの挑戦を連続で受ければひとたまりもない。そしてそれが世界最大の夜魔の國:ガイセルロンのしきたりというものなのだ」
「しきたり。なるほどな。しかし一騎打ちなのだろう、その挑戦というのは? であれば、どうとでもなりそうだが」
またもや根拠不明の自信を見せるアシュレに、泣きそうな顔でアストラが説明した。
「それは挑戦を受ける側が決めることだ。挑戦する側には形式を指定する権利などない。このルールは、つまり挑む側のそなたには極めて不利だということになる」
「なるほど」
「なるほどってそなた、わかっているのか!?」
「いま説明を聞いているところだ。わかりかけてきている、と言い換えても良い」
「そなたッ……この、こんの底なしの痴れ者め!」
「続けてくれ」
「し、仕方のないヤツッ!」
アシュレから熱く見つめられ、アストラは頬が朱に染まるのを禁じ得なかった。
一方のアシュレにしてみれば、初めて耳にするガイゼルロン宮廷のしきたりは興味深いというだけのことに過ぎないのだが、そのあたりの温度差はこれはもうどうしようもなかった。
気を取り直したように、アストラが腕組みして事例を並べ立てた。
「決闘の形式には一騎打ちのほかに代理戦士を立てるもの、さらには極めて珍しいことだが、互いに追加で最大五名までの兵力を投入できる騎馬戦形式も存在している。吸血馬に跨がっての騎乗戦闘だ。ガイゼルロン宮廷内での決闘でその規模の戦いはここ二〇〇年で記憶にないが……ありえないことではないのだぞ」
しかもだ、とつけ加える。
「しかもだ。いったん戦端を開いてしまったが最後、たとえ勝者になったとて、ガイゼルロン宮廷の連中は引きも切らずにそなたに挑戦を繰り返すだろう。もちろんそのときは挑戦を受ける側のそなたに決闘形式の選択権は移るわけだが……百からの挑戦者をどう捌くつもりだ?」
「そうかそれは……なるほど面倒な話だな」
口先だけで懸念を表明するアシュレだが、その実ちっとも面倒げではなさそうで、アストラはイライラするやらハラハラするやら、不機嫌げに眉根を寄せることしかできない。
胸が痛いほど脈打つのは、心の底からアシュレのことを案じてしまっているからなのだが、そのことが当の本人には伝わらないのだ。
一層強調して言った。
「それに万が一、その試練を潜り抜けたとて……最後に待ち受けるのは大公その人なのだぞッ!? 勝てない! 無理に決まっている! こんなことも件の彼女は教えなかったのかッ!?」
いくらそなたが強くても、どれほどに優れていたとしても、夜魔になって日の浅いそなたでは勝てるわけがない。
キチンと息子を教育しなかった母に対する妻の心境で、アストラは喚いた。
「無謀の極みだ。そもそも陛下は人類史にも名を残す九英雄のひとり。そなたも元人間なら知っているのだろう。残り八人の英雄とともに、人類圏を造り上げた怪物だぞ。ヒトの身にありながら我ら夜魔とさらには十の暗闇の氏族を相手取って、互角以上の戦いを繰り広げ、ついには人類の版図を切り取った男だ!! 知らぬのか!?」
物凄い剣幕を見せるアストラに、アシュレはぱちくりと目をしばたかせた。
「むろん知っているとも」
「だったら!」
「スカルベリも我も元人間ということでは変わらない。条件は同じだ。ならば、やってみなくてはわかるまい」
「バカッ、相手は転成からすでに八百年を超えて生きる正真正銘の真祖なのだぞッ! オマエと同じく相手の女から──すべてではないにしても──その血肉を捧げられ、強大な夜魔へと転じることを許された本物の英雄だ! それになにより、その対決が実現するときはアシュレダウ、そなたは間違いなく挑戦者の立場として挑むことになる!」
「つまり?」
「まだわからないのか! それまで打ち破ってきた侯爵家や伯爵家の者どもが、ふたたび大公陛下の手駒としてそなたの前に立ち塞がることだってあり得る、と言っているんだ! 高位夜魔を殺し切る方策など、世にはそうそうないのだから! それに対して……そなたはたったひとり。配下や頼れる友もない! そうでなくともそれまでの連戦で疲弊し切った身体ではとても……とても勝ち目はあるまい」
心を通い合わせた恋人同士でも、ここまで真情を露にした説得はあるまい。
必死に道理を説くアストラの瞳には、無自覚の涙が一杯溜まっていた。
対するアシュレは腕組みして、うむん、と唸っただけだ。
「その順列を省略する……飛び越える手だてはない、とそう言うのか」
もはやごまかしようのない愛情から説明してやっているのに、ちっとも響かない新参者の石頭にアストラはめまいを覚えながらも律義に答えてやる。
「それは……それは……。なくはないかもしれないが……たとえば大公の首級に匹敵するような戦利品を持参するとか……そんな奇跡があればだが。だがそんなこと不可能だ! そもそも大公の首級が挙げられるなら、すでにそのときそなたは真のガイゼルロンの王になっているではないか!!」
「なるほど、それほどのことなのだな」
「それほどのことなのだ!」
つけ入る隙もないとは、夜魔の貴族たちの順列のこと。
それらを飛び越え、一足飛びに真祖への直談判を試みるなどと。
指を振り立ててアストラが言う。
「そこを無視しようとすれば、実の娘であるわたしですら無限に続く処刑に──永劫の責め苦に処されるほどの不躾なのだぞ?」
実際にその一歩手前の不躾を働いて特使の座を得たアストラの言葉には、なるほど凄まじい説得力が宿っていた。
しかしアシュレはまたもわずかに首を捻ってみせただけだ。
わからんな、と態度で示す。
「不可能、ということはあるまい。夜魔の王に直接の一騎打ちを申し込むに足る勲功、戦利品、そういうものが世界のどこかにはあるのだろう? そしてそういう例外があることを教えてくれたのはアストラではないか」
そう──ガイゼルロン宮廷をも黙らせ得る"切札”というヤツだ。
すこしだけ皮肉めいて口角を持ち上げたアシュレに、アストラはなぜか悪寒めいたものを感じた。
「アシュレダウ?」
「アストラは、持っているのではないか。その"切札”を?」
厳格なる夜魔の公国の順列を飛び越えるための決定的な勝者の証を。
そう問いかけられアストラは硬直した。
これまでアシュレが遠回しになにを言わんとしていたのか、おぼろげながらに理解したのだ。




