■第六七夜:謀殺の論理
アシュレは諭すように言った。
「ゆえに我はアストラには同道することを強く勧める」
「アシュレダウ……」
「我は征くほかない。が、アストラには選択肢がある。取り得るべき第二の選択が」
そうだろう?
静かにそう囁きかける男の漆黒の瞳を、アストラは恨めしげに睨み返した。
「それは……もしかせずとも、アストラにガイゼルロンに戻れということか。出戻れと」
「出戻り、というと言葉は悪いが、この封都:ノストフェラティウムさえ抜けてしまえばイフ城は目と鼻の先、直上だ。アストラの身の安全を考えても、これ以上の提案はないと思うが」
アストラを勇気づけるように、アシュレは身をかがめて目線の高さを揃えた。
見下しているのではなく、心の底からオマエを想ってのことだと伝えるために。
だがその真摯さに耐え切れなくなったかのように、アストラはふいと視線を外してしまう。
辛抱強くアシュレは続けた。
「いったんガイゼルロンに戻り立て直すにせよ、スカルベリに再考を求めるにせよ、そこはまかせる。が……何度考えてみても、これが最善ではないか? 勇気ある撤退は一軍を預かる将器として決して恥ずべきものではない」
「だ、だがわたしには、アストラには……特使としての使命がまだ、まだ残っているのだ。それを果たさず戻るわけにはいかん。それに……勇気ある撤退と言うがその考え方は、そなたのなかにまだニンゲンの常識が生きている証拠ではないか?」
アシュレからの提案に抗い切れぬ様子で困惑を示しつつも、アストラはまだ己の使命に執着を見せた。
重症だな、とアシュレは溜め息をついた。
自ら恥と規定したはずの、現実を直視できない状態にいま己があることを、アストラはまだ認識できていないのだ。
その事実を認めさせる一撃を、ことここに及んでアシュレは放たざるを得なかった。
認めろアストラ、とそう迫って。
「認めろアストラ。特使たるオマエに、真祖:スカルベリは巡礼者の道の真実を語らなかった。たしかにオマエが言うように、これが謀であったかどうかについては確証はない。が、殺されかけたのは事実……いいやあのときの事態はもっと悪かったはずだ。あのまま放置していたら最悪の方向に向かって状況が転がっていたことだけは間違いなかろう。あのときもし、幸運にも我と出逢うことがなかったら……きっとその肉体と心は奴らの慰みものとして、永劫の恥辱と絶望の虜囚と成り果てていたはずだ」
そしてもし仮にそうなっていたとしたら、我は我自身を許せなくなっていただろうよ。
「おかげで、真祖:スカルベリには問い正したいことが山ほどできてしまった。会わねばならぬ理由がまたひとつ増えたというわけだな」
男の言葉選びはあくまでも穏やかなものだったが、その指摘はアストラにとってあまりに効果的過ぎた。
風に玩ばれる湖面の落ち葉のように、アストラの心が震えるのが、アシュレには見えた。
彼女の美しい面顔にさざ波めいて、隠しようのない怖れが走る。
一瞬で唇が血の気を失い、痙攣する。
「でもっでもっ、でもだ、アシュレッ」
「でももなにもない。そもそも反論の余地はないだろう。この時点でアストラの帯びた特務は無効だ」
「だがっだがだがっ……それを無効と判断するのは……スカルベリ陛下では、ないか? アストラにはそんな権限は……ないであろう」
戸惑いながらも、まだぐずぐずと使命への未練を口にするアストラに、アシュレは畳みかけるように言った。
どうしてもここでアストラに任務を放棄させたかった。
その《ねがい》がアシュレをわずかに饒舌にさせた。
決定的なひとことが、口をついて転がり出る。
「オマエの任務は達成不可能だ。現段階では、な」
「達成不可能ッ!? それは、それはどういうことだ!? そなた。なんの根拠があってそんなことを言うのかッ!?」
反射的な噛みつきをアストラが見せる。
アシュレは密やかに息をついた。
『いまのはすこしばかり、性急過ぎたか』
彼女を翻意させたいばかりに口を滑らせてしまったことを、内心にもアシュレは認めなくてはならなかった。
この娘を根源的に救いたいという、それはアシュレの欲だ。
だがそれは同時に、アストラの精神的支柱を完膚なきまでに叩き壊すという意味でもある。
葛藤があった。
このままアストラを行かせたら、その先に待つのは今度こそ永久に抜け出せない無限地獄だということは、もうすでに分かり切っていた。
いいや──彼女はもうすでにその無限に続く地獄に両脚を囚われている。
ただそうと自覚できないだけで、彼女はすでに地獄を体験しているのだ。
思い返すまでもなく、その裸身にいくつも捩じり込まれていた記章が、その証だった。
確かめられる限りの場所をまさぐり、除去できるものはすべて除去したはずだが……それを持って彼女の肉体に刻まれた汚辱の記憶までを葬り去れたとは思わないほうが良い。
いま彼女が正常に見えるのは、その記憶の部分を悪夢どもが啜り取ったか、そうでなければなんらしかの方法で封をしているのに過ぎない。
ある条件をトリガーとして起爆する、地雷のごときもの。
たとえばそう……あの“子負い”の姿、そしてそこに囚われた彼女の分身とでも言うべき夜魔の娘たちの無残な姿を、目のあたりにしたときのように。
この無限地獄からアストラを救い出す方策は、もはやたったひとつしかないことに、この場でアシュレだけが考え至っていた。
そのためにはどうしてもアシュレは、ガイゼルロンはスカルベリの座するイフ城の大公の間に辿り着かねばならなかった。
アストラを連れ、彼女の眼前で為さねばならぬことがあった。
想いを顔色には出さず続ける。
「どうあれこのまま人類圏に赴いても、オマエの任務が完遂できるとは到底思えない、と我は言っているのだ。だからオマエは我と来るべきなのだ、と言っているのだ」
「だからそれはどういう意味だッ!?」
翻意を促したいばかりにややにしても強引になってしまったアシュレの論調に、己の未熟を指弾されたと勘違いしたのだろう。
にわかにアストラが色めき立った。
背筋を伸ばし、抗議の姿勢を見せる。
そんなアストラに対しアシュレは己の非を認め、語気を改め直した。
まあ聞け、と諭す。
アストラはこれをしぶしぶにしても聞き入れる。
これまでのやり取りを経て、アシュレに対するアストラの態度は大きく変化していた。
アシュレが「聞け」と言えば黙って最後まで話を聞いてくれるくらいには、信頼関係を築けている。
そこだけがアシュレが拠って立てる足場だった。
「聞けアストラ。仮に、オマエが人類圏に名誉ある降伏を認めさせたとしよう。もちろん、その交渉を成功させるだけの能力がアストラにあるであろうことも、我は疑うまい。世界の情勢としても……夜魔の騎士たちによる大侵攻に加えて、イクス教とアラムの間には大戦の兆しが見て取れる。この事実を背景にすれば、夜魔と人類圏との関係の構築自体は、決して不可能なものではないはずだ」
「我が策の優れていることはそなたも認めると言うのだな、アシュレダウ。では、ではその実現のなにが不可能だというのだ」
己が実力と世界情勢の読みに対する評価を、ほかならぬアシュレ自身から受けとったアストラは、これに勢いを得て詰め寄った。
一歩、二歩と勢い良く間合いを詰めるものだから丈の短いスカートが翻り、まばゆいばかりの脚線が露になるが、そんなこともお構いなしだ。
こういうところが姉:シオンとの経験の差なのであろうと頭の片隅で思いつつ、アシュレはアストラの示した方策に対する唯一の、しかしそうでありながら絶対的な懸念を口にした。
アストラの試みを、アシュレが達成不可能だと思う理由。
半歩下がって距離を取り、目を伏せて指摘する。
「しかし、だ。人類がアストラからの提案を受諾し、申し出たその降伏を、スカルベリを含めガイゼルロンという国家が認めるとは到底思えない。と、そう我は言っている」
あけすけなアシュレの指摘に、アストラが目を剥いて猛然と反論を試みた。
「なにを馬鹿な! 認めないもなにもこれは、アストラが担ったこの特務は、夜魔の大公が直々に、正式に裁可を下したものだぞ! 人類側が拒絶するならまだわかるが、どこをどう押せばガイゼルロンが認めない理由など出てくるのか!」
「そこだ、アストラ。オマエの受けた特務というのは秘密裏のものだろう? つまりその上奏と下された決断が公式のものと知るのは、スカルベリ本人を除けばオマエだけだということだ」
人間世界ではそれを密命、密使と呼ぶが。
「特命と言えば聞こえはいいが、それは命を下した存在が知らぬ存ぜぬとシラを切り通せば、なかったことにされてしまう任務でもある」
聖騎士時代を回想しながら、アシュレは言った。
政治的な判断により、そういう性質の任務を請け負うことが聖騎士たちにはままあることだった。
暗闘、というのは任務に失敗した場合、そのまま歴史の闇に葬り去られる戦いであるという意味も含まれている。
「仮にスカルベリがお前の言う蹂躙派を押さえ込めなかった場合、オマエに下された密命そのものがなかったことにされる可能性は極めて高いと我は言っているのだ」
事実、ガイゼルロン宮廷内は大規模な軍事侵攻を行う方向でまとまりつつあるのだろう?
それがすでに現実のものとなっていることを伏せながら、アシュレは言った。
だがアシュレからの指摘に一瞬、ぐっと喉を詰まらせながらも、アストラは大きく息を吸い込んでから反撃を見せた。
「それがなんだと言うんだ! アストラは、事前にその解決策をも陛下に提示しておるわ! 簡単なことだ、蹂躙派の連中をぐうの音も出ないほどに黙らせばよいのだろうが! ならば抜かりなどない! アストラは物分かりの悪い諸侯どもでも納得するしかない方策をも、すでにして陛下に上奏奉り申し上げていたのだ! つまりそれが"切札”よ!」
つつましやかな胸を一杯に張り、アストラは言い放つ。
「そう──ガイゼルロン宮廷のすべてを黙らせることのできる方策がアストラにはある! それがあったから陛下はこの申し出を承認された。ある、アストラには"切札”があるのだッ!」
「"切札”……なるほどそれがアストラが伏せたカードというわけか」
では、と些細なことを確認するように、アシュレは言った。
「では、それはすでにアストラの手中にある、というわけだな?」
だが、いくら待っても大公の娘からの返答はなかった。
言葉に詰まったまま、両手を握り拳のカタチにして、堪えるように全身を震わせるだけ。
語るに落ちたとはこのことだが、アシュレは話を続けることにした。
「その沈黙……"切札”の有無を我にはまだ語ることはできないと判断してのことだと解釈しよう」
その上で、
「ここでは仮にアストラの懐にはすでにその"切札”とやらがあるものとして、話を進めることにする」
「…………」
アシュレからの善意に過ぎる解釈と提案を受けながらも、なお沈黙を守るアストラに対し、それまで伏せていた瞳をアシュレは持ち上げた。
「しかしそうだとしたら……真祖:スカルベリはその"切札”を持った特使を、どういうわけか、まるで葬り去るかのごとく、秘密裏に穴蔵へと投げ入れたということになるが、これはどう捉えるべきだ」
死刑宣告にも似た響きを、アシュレの言葉は持っていた。
今度こそ「謀殺」の二文字が脳裏に浮かぶのを、アストラは拒むことができなかった。
そんな恐ろしい連想をしてしまった自分を否定するように、必死になって首を振り反撃を試みるが、それは無駄な抵抗というものだ。
「先ほどまでのことといい、これが遠回しな暗殺だと、そう言いたいのかアシュレダウ。だが、それは……それはあまりに私的な解釈が過ぎるのでは。なにかの……なにかの間違いでは……」
どこかでまだ父:スカルベリを信じたいのだろう。
虚ろな口調で擁護の言葉を口にするアストラを見つめて、アシュレは言った。
「残念ながら間違いではない」
断言してアシュレは続けた。
アストラ自身が夢現にも言葉にした、主君スカルベリへの疑念。
どうして自分を見捨てたのかという彼女の、あの叫びを示して見せた。
『陛下、父上、スカルベリ──我が君、どうして、どうしてわたしを、アストラをお見捨てになられたのですか。わたしがアストラが代わりの子だからですか。なぜなぜ、なぜにこれほどにも恐ろしい場所にわたしを放り込んだのですか、こんなこんなこんな!』
頭蓋の奥で淡々と再現される己が慟哭を、アストラは虚ろな表情で聞いていた。
どこか夢のなかでのことのように思えていた叫びが、現実の己の唇から転び出たものだとようやくにも認識した、そういう顔だった。
「これはオマエ自身が眠らぬ悪夢ども……あの“子負い”を前にして口走ったことだ。オマエはすでに心のどこかで、己が謀られたという事実を認めている」
「それはっあれはっ。その……“子負い”の姿に心が乱れて、弱って……こんな地下墳墓のごとき穴蔵にいたらだれでも気が変になる! このかび臭い墓穴が言わせた世迷言だ!」
「だが、オマエにその世迷言を口走らせた地下墳墓のごとき穴蔵とは、此処──巡礼者の道と封都:ノストフェラティウムのことなのだぞ、アストラ」
オマエの父:スカルベリが、愛娘であるはずのオマエを陥れた、この地の底の果て、棄てられ忘れられた都のことだ。
「そして、オマエも見たはずだ。嫌になるほど。その地獄のありさまを」
この地に巣くう、狂気を。
永劫の獄=眠らぬ悪夢どもの巣窟たる、その精髄を。
これまでふたりで体験してきたあらゆる場面を示して、アシュレは言った。
天井画に描かれたイクス教の聖典にある数々の印象的な場面が、皮肉にもその無残と罪とを際立たせるかのように、語り合うふたりの夜魔を見下ろしている。
静かに語るアシュレに対し、アストラはただ、ぶるぶると身を震わせるだけだった。




