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■第六六夜:ともに来い、と男は言った




         ※ 





「──アストラはいま、人類に名誉ある降伏を勧めに行く特使として、その途上にある。名誉ある降伏とは、夜魔と人類とが互いに盟約を結び、双方の種の存続を可能としていくための最初の手続き。これは夜魔と人類とが末長くともに繁栄していくための、唯一無二の現実的な方策である」


 ブラウスの袖を黄金のカフスで留めながら、アストラはここに至るまでの経緯と己が帯びた特務について、明確な言葉で定義しなおした。


 アシュレにとってはうわ言のカタチで、すでに大半を聞いた話ではある。


 だが、アストラのなかでそれは、あくまでも夢幻のなかでのできごとでしかなかったのだろう。


 しっかりと言葉にしなおす必要性があったのだ。


 完全記憶を持つ夜魔にとって、夢現ゆめうつつでの出来事というのはそのまま放置しておくと己の境界線を曖昧にしてしまう極めて危険な現象なのだと、たしかにシオンも言っていた。


 夢のなかでのできごとを現実と取り違えて記憶に残せば、それは容易く狂気を呼び寄せる。


 だからこの手続きはアストラにとっても、必要不可欠なものだったのだ。


 アストラは、さらにガイゼルロン宮廷内の事情についても踏み込んで語った。


「だが……ガイゼルロン宮廷内にはこれをよしとしない勢力が幅を利かせている。人類圏を征服し文明を破壊し尽くして、全人類を家畜化しようと画策する者ども──奴らのことを、アストラは侮蔑を込めて蹂躙派と呼称してきた。人類が生み出す文明と文化、それが醸成する《希望のちから》に満ちた血液こそが、我ら夜魔の命を繋いでくれているのだという事実を理解できない愚か者たちだ」


 アシュレにとってはこれもすでに知り得ていた情報であった。


 とはいえそれを別としても、人類の文化への愛を揺るぎなき信念を持って語るアストラの姿は、改めて深く胸に刻むべきものだと思えた。


 だがこれを最後に、それまでまるで群衆相手に演説をするかのようだったアストラの声からは、急速に勢いが失われていく……。


 失速し口ごもりながらも言葉にするアストラの双眸には、悲壮な覚悟が宿っていた。


「けれども……このままではアストラの憂慮は現実のものとなってしまう。残念なことに蹂躙派どもは圧倒的に多数だからだ。そして、そんな奴らを黙らせるには特別な勲功が必要なのだ」


 それゆえにわたしは……アストラはひとりであってもこの特務を成し遂げなくてはならない。

 そうでなくてはならなかった、のだ。


「だからこうして……いまここに居る。不覚にもそなたに救われて……な」

 

 両手で自分の身体を抱きしめて立つ彼女は、嵐の予感に脅える一輪の花のように見えた。


「アストラ──オレとともに来い」


 気がつけば、アシュレはそう申し出ていた。

 深い考えがあってのことだったかは、自分で思い返してみても、わからない。


 ただこのとき、アシュレはアストラをひとりにはできなかった。


「ともに? そなたと?」


 そして、その申し出を、驚愕とともにアストラは受け止めた。

 むしろ「ともに来てくれ」と先に声をかけたかったのは、アストラの方だった。


 だがそれは、夜魔の大公の娘として、できない相談だった。


 このゾディアック大陸において最も優れた夜魔の血統を自認する自分が「ひとりでは任務を達成できないから、ついてきてくれ」などと申し出ることなど、できようはずがなかったのだ。

 

 それがまさかアシュレの側から申し出てもらえるなどという奇跡が、起こり得るとは。


 アストラ自身、心にも思っていなかったハズだ。


 そこにきての、この申し出。

 アストラの狼狽は、想像を絶するものだった。


 胸が爆ぜてしまいそうな感情の励起をどう御せば良いものか、わからなくて動転する。

 押し止めることのできない喜びに、頭がどうにかなってしまいそうだった。


 だから、ただ一点。

 あるひとつの問題さえなければ、アストラはこの申し出を快諾していたはずだ。


 彼女が真祖:スカルベリに上奏し、承諾を得た彼女自身の特務とその遂行について──真祖の娘である己の義務と責任──つまり誇りに関する問題をアストラが無視することなど、決してできないのだという一点を別にしては。


 もちろん、たとえそうであったとしても、しどろもどろに申し出の意味するところを尋ねてしまうくらいには、アシュレの提案に心を動かされてしまっていたのだが。


「と、ともに来い……というのはそれはあれか、アシュレの道行きに同道せよ、とかそういうことか?」


 無償の愛に脅える捨て犬のような目をしたアストラに、アシュレは微笑んでみせた。


「そうだ。アストラにはオレとともに来て欲しいと言ったのだ。といってもオレの目的地はガイゼルロンのイフ城、つまり真祖:スカルベリとの会見だから……端的に言ってアストラにとっては祖国に帰還することになるわけだが」

「ガイゼルロンにそなたが!? そうか! アシュレは我が国を目指してこの道を来たのか! そうか、それはそうだ。そう考えるのが道理だったな……」


 納得とともに新たなる驚きを得て、アストラが独りごちた。

 そうか、そうだったか、と顎に手をやり繰り返す。


「だからアシュレはこの巡礼者の道を遡っていたというわけだな。納得だ。我ながら呆れたものだ。こんな単純なことにさえ、ここに至るまでまったく考えが及ばなかった。わたしは……ひどく動転していたのだな……」


 アストラはそう言葉にしたわけだが、彼女がアシュレの目的をこれまで理解できずにいたのは、実はそれほど不思議なことではない。


 たしかに巡礼者の道は人類圏と夜魔の國:ガイゼルロンを結ぶ道ではある。

 そこを遡ってきたとすれば、目的地がガイゼルロンであるというのは理屈としては当然の帰結でもある。


 だが、だからといってガイゼルロンへの道行きに、わざわざ選り好んでこのルートを選択するというのは問題を大きく別にすることだ。


 常人──この場合は普通の夜魔の発想という意味でだが──であれば、たとえどれほどの吹雪に見舞われようとも、イシュガルの山嶺を越える回廊のほうを選択する。


 種族の特性として夜魔は雪道を苦としないし、雪崩に巻き込まれることもない。 

 それにどれほど冷え込もうと、吹雪程度の低温で死ぬことはまずないからだ。


 その安全確実なルートを破棄し、その代わりに夜魔という種にとってもっとも危険とされた外敵の潜むこの穴蔵を、そうと知りながら選んできたアシュレの奇想天外な発想に、アストラは翻弄され圧倒されていたのである。


 なによりアストラの理解が及ばなかったのは、アシュレがどうやってこの巡礼者の道のことを知り得たかという点だった。


「けれども不可解だ。そもどうやってそなたはこの道のことを知り得たのだ? この巡礼者の道はゾディアック大陸最大の夜魔の國:ガイゼルロンにあってさえ、伝承が途絶え忘れられた間道のはず……。なにしろつい先ほど、アシュレに諭されるまでわたしでさえ、そのことを知らなかったのだ」


 これまでの道程を振り返る目で、アストラは語る。

 続ける。


「いいや……それどころか、そなたはその途上にある廃棄されたかつての夜魔の國の首都・封都:ノストフェラティウムについても、そこに巣くう悪夢どものことさえも熟知していた……。これはいったいどういうことなのだ?」


 独り言にも聞こえるアストラからの問いかけ。

 アシュレは目を細めて返したものだ。


「なにも不思議なことはない。オレを夜魔にした存在が、それらすべてについて熟知していたというだけのこと」


 大きく夜魔の大公の娘が息を吸い込むのが聞こえた。


「ッ! そうか、そういうことかッ! たしかにそれならば合点が行く。だが……だがそれでは……ガイゼルロンの夜魔の大公の娘ですら知らされず、国家全体から忘れ去られてようとしていたこれら秘事を、我らが大公国の外にいる夜魔たちのなかにいまでも伝承する血統があると、そなたは言うのかッ!?」


 驚嘆にアストラが思わず声を荒げる。

 いかにも、とアシュレは頷いて見せた。


「いかにも。そしてその最後の血筋に、オレはすべてを捧げられ、夜の眷族となったのだ」

「なッ、なにッ!?」


 これまたこともなげに告げるアシュレに、アストラはさらなる瞠目を強いられた。


 アストラが目を見張ったには当然だがワケがある。


 まず第一に、眼前にたたずむこの男:アシュレダウが人類からの転成者であったこと。


 第二に、そうであるにも関わらず、真性の夜魔であるアストラを完全に凌ぐ力量をすでにアシュレが示し続けていること。


 第三に、ガイゼルロンではすでに遺失寸前の、真に尊い血統だけに受け継がれてきた伝承知識を、それも経験レベルで豊富に有していること。


 最後に、彼にその《ちから》を与えた存在は、大いなる愛を持ってアシュレにすべてを捧げ託した──その事実に対してであった。


「そうかそなた……人類からの転成者であったのか。それなのに、すでにあれほどの力量を示しているとは……」

「それは……オレにすべてを託してくれた存在のおかげだろうよ」


 あまりの衝撃に蒼白になりながらも、アストラはアシュレに向き直って告白した。


「認めよう。その《ちから》、すでに真祖の血筋に比肩する部分があることを。そう──そなたを体験してしまったアストラは認めざるを得ない」

「なるほど」

「どうした。アストラが認めたのだぞ」


 不満げなアストラに、アシュレは微かな笑みで返した。


 真祖直系の夜魔の娘が、傍流に過ぎないと思っていた相手の実力のほどを認めて見せるには、相応の痛みがあったであろうことを見抜いていたからだ。


 己が《ちから》の強大なるを誇って見せるような気にはならない。


「なんだ、その顔は?」

「いや、しおらしくなったことだな、と思ってな」

「アストラは現実を認められない愚か者とは違う。そして、真に優れた血筋とその尊い行為には格別の敬意を払う。それくらいの礼節は弁えている」


 それを精一杯の虚勢と喝破することは容易かっただろう。

 けれども真祖の血統の誇りにかけて、あえてアストラは言葉にした。


 まだ発展途上にある胸乳に手を当てて、いまの言葉に嘘偽りがないことを主張する。


 そうか、とアシュレは頷く。


「そうかわかるのか、アストラには。オレの肉体を流れる血統の尊さが」

「ああ。ああ、わかるとも、我らがガイゼルロンの血筋にも匹敵するほどの、どこか懐かしさすら感じるほどの血潮の滾りが。それが嫌でも認識を迫ってくるのだ」


 そなたに救われるたびに。

 そなたの強さを。


「そなたは強い。いまのアストラでは太刀打ちできぬほどに。肉体だけではない。その心のありようが」


 なにより、


「なによりそなたの話が本当ならば、そなたはに、そなたに夜の血を与えた存在に心から愛され、惚れ抜かれたということだ。あまりに有り難き体験──それゆえの強さ……」


 なぜなら夜魔にとって「すべてを捧げる」とは、文字通りその血肉のすべてを与え、《ちから》を含めこれまで築き上げてきたあらゆるものを、己が命とともに譲渡するという意味だからだ。


「わたしには……アストラにはそんな経験はない。きっと一生ないままであろう」


 正直羨ましい、とつけ加えるようにして漏れたつぶやきを、アシュレは聞かなかったことにした。


 かわりに、いつもどおり気負いのない、しかし断固たる口調で告げた。


「ゆえに、オレは征かねばならん。オレを信じ、愛し抜いてくれた彼女のためにも……この巡礼者の道を潜り抜け、ガイゼルロンへと辿り着かなくてはならないのだ」


 彼女、という単語がアシュレの口から出た瞬間、不意にアストラは泣き出しそうになってしまった。


 どうしてそうなってしまったのか、自分でも分からない。

 ただ突然に胸を針で貫かれたように、耐え難い痛みを感じた。


 それでもなんとか堪えることができたのは、自分は夜魔の大公の娘だという誇りがまだ彼女のなかにあって、それにすがりつくことができたからだ。


「そうか、そういうことであったか。彼女・・のため……か。そなたに愛を捧げたのは女であったのだな……。あるいは、恋仲であったか。夜魔の高貴の娘でありながら、人間に恋をした。そしてそれほどの女にすべてを捧げさせるほどに、そなたは尊かった。たとえるなら、冴え冴えと凍える冬の晩に中天に輝く月のように……」


 そういうことか。


 アシュレが人類からの転成者であると聞き及んだ時点でなかば予想し、きっとそうであろうと予感していたことではあったが、この事実はアストラを打ちのめした。


 アシュレが夜魔の男である以上、自分が彼にとっての初めての女であるなどとそんな思い上がりをするほど、アストラはもう子供ではなかった。


 けれども、すでにすべてを捧げ男の血肉と同化してしまった女を退けて、自分がアシュレのなかに居場所を得るには、もはや手段はひとつしか残されていないことに、このときのアストラはまた思い至ってしまってもいたのだ。


 いいや──彼女・・に倣い、ここですべてを捧げたとて、いまの自分では到底その座には至れまい。


 彼女……アシュレダウにすべてを与えたその女は、夜魔の大公の娘ですら知らなかった秘事にさえ精通し、さらには真祖の娘を遥かに凌ぐ《ちから》を持ち得ながら、これを愛する男に託して消えていったのだ。


 アシュレダウという男が見せる根拠不明の自信と蔑視をものともしない誇り高さ、揺るぎなき信念がどこからくるものなのかを、このとき真にアストラは思い知ったのだ。


 打ちひしがれる、というのはこういう心理の状態なのか。

 生まれて初めてアストラは、挫折を知った。

 同時に諦め切れず、かわりに強く願ってしまう己がいることも認めなくてはならなかった。


 ほかでもないアシュレダウに『彼女そのひと』と同等に想ってもらえる──誇ってもらえる存在になりたいという密かな《ねがい》を、このときアストラは抱いてしまった。


 それはたぶん、恋と呼ぶべきものだった。


 だが、当のアシュレは我関せずとばかりに、淡々と提案を続けるのだ。

 アストラにとってそれがいかに残酷で、そうであるがゆえに抗い難い誘惑なのかを、十二分に知りながら。





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