■第六四夜:忘れられた聖堂で
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世界は淡い光に満たされている。
アシュレが土蜘蛛の巫女姉妹から借り受けた水晶の小瓶とそこに詰められた発光体が放つ光を、地の底で忘れ去られていた聖堂の、その片隅でひっそりと繁殖していた地衣類あるいはカビの類い、はたまた単に降り積もった塵埃が反射して幻想的な風景を作り出している。
けれどもそこで囁き交される男女の言葉には、悲痛な色があった。
「わたしは……アストラは、和平の使者となりに行こうとしていたのだ。人間たちのところへ、人類圏へ……人間と夜魔との双方にとって悲劇しか招かぬあの愚かな大遠征──蹂躙派の者どもが得意気に大征伐と呼ぶ──人類圏とその文明を根こそぎ破滅に追いやる愚行を止めるために」
熱に浮かされたように苦しい息の下で、アストラはそう告げた。
「そしてそれは、我が主君:スカルベリ陛下の願いでもある」
続く言葉は歌のようで、儚い祈りにさえ聞こえた。
「でも、それなのになぜ、なぜです陛下、わたしをアストラを、あの子たちをこんなこんなこんな────」
なぜどうして、自分がこの巡礼者の道を行くことになったのかについて、アストラは問わず語りのうちに明らかにした。
それはある意味で、アストラの半生を語ることでもあった。
“叛逆のいばら姫”による離反劇の直後に設けられたこの夜魔の姫君が、どのように物思い、己を研ぎ上げ、父と祖国のために尽くそうとしてきたのかについての物語であった。
だがアシュレには、最後につけ加えられたアストラの言葉だけは、ついに信じることができなかった。
『人類圏に名誉ある降伏を申し入れ、夜魔との共存共栄の道を探ることこそ、スカルベリの真の願いである。そうであるはずなのだ』
その消え入るような囁きを。
アストラ本人が人類と夜魔との共存を心から望んでくれていたことに関しては、一片の疑いもない。
実際には『スカルベリの願いでもある』という言葉に対してさえ、一瞬にしても心動かされたことも事実だ。
たしかに、もし仮にあの夜魔の王が、本気で人類との共存を思い描いてくれていたのならば、これほど素晴らしいことはない。
アシュレたちが覚悟した、戦隊全員の命を天秤に乗せるがごとき賭事の数々を実行に移さなくて済むだけではない。
ここで人類と夜魔との全面戦争を回避できたとしたなら、国土の資源・総生産量だけでなく双方の人的資産を温存したままに、両種族は共存共栄への道を歩んで行けるのだ。
それは戦後の復興に掛かるはずだったエネルギーと時間とを、そのまま発展のほうに振り向けられるという意味でもある。
かつての九英雄のひとりが、人類を裏切り夜魔に身をやつしたのは、八百年後のこの大計のための遠謀深慮であったとしたなら、これはもう感動的でさえある。
その場合、むしろ敵はガイゼルロン国内にはびこる蹂躙派たちとなり、共闘の芽さえありえただろう。
アシュレたちも、この決死行を成し遂げる必要性はなくなる。
シオンに親殺しを強いらずに済む。
すべてが丸く収まる──そんな儚い夢を、ごくわずかの間であるにせよ見たことを、認めなくてはならない。
だが、それを無垢に信じるには、アシュレはすでに彼の悪について学び過ぎていた。
たとえば特使であるアストラに、この巡礼者の道の真実を語らずにいたこと。
あるいはそこに潜む悪夢どもの存在を知らせず、対抗手段も与えず、まるで蹂躙派と結んだがごとくに、アストラを謀殺しようとしたと疑われても仕方のない素振りを見せたこと。
さらにふたりは封都:ノストフェラティウムの奥深くで見たのだ。
眠らぬ悪夢が一柱:“子負い”の背に囚われた、アストラとそっくりの顔をした夜魔の娘たちが永劫の辱めによって心砕かれるさまを。
記章によって四肢の自由を奪われ、身も心も犯され続ける彼女たちのうめきと叫びと嘆願を、忘れることは決してできない。
あの酸鼻を極める光景に、スカルベリが関与している可能性は限りなく高い。
巡礼者の道について知悉している存在が、この世界には指折り数えるほどしかいないからだけでは、それはない。
高貴の夜魔の血筋、その娘たちをここが地獄と知りながら放り込むことのできる男は、夜魔の真祖たるスカルベリを除いていようはずがないからだ。
スカルベリが真祖の座に着いてすでに八百有余年……謀られてきたのはアストラだけではないという残酷な事実と、それを実行し続けてきた男が彼女たちの実父であるという可能性に、その濃厚な疑いに、アシュレはすでに辿り着いてしまっていた。
そしてこれはまだアシュレ自身与り知らぬことだが、これまで抱いてきた疑念を決定的なものとする残酷な現実が、いままさにアシュレの眼前に姿を現そうとしていた。
“子負い”とその背に囚われた自分そっくりの女児たちを目の当たりにしたアストラは、あきらかな変調を見せていた。
それは機転を利かせたアシュレが、この都市を職人たちが再構築する際に用いる作業用の隠し通路を用いて、“子負い”の追跡から逃れたあとも変わらなかった。
いやそれどころか、あれをきっかけにして、内なる仕掛けが作動してしまったかのように、アストラの状況は悪化の一途を辿っていた。
これまで押さえ込み呑み込んできた想いが、“子負い”との遭遇をきっかけに堰を切って流れ出し、父親に裏切られていたかもしれないという疑念と合わさって、まるで土石流のように逆巻いて、アストラの理性を破壊しようとしていたのだ。
父親との絆という唯一の拠り所を失ったアストラは、岸壁を削りながら荒れ狂う激流に翻弄される舫いの切れた小舟だ。
夢と現のあわいを彷徨い、徐々に心蝕まれていくアストラを救うには、彼女がだれかに強く求められているという事実を突きつけるしかない。
そうアシュレは結論した。
切れてしまった舫いにだれかが手を伸ばし、掴んで、暴れ狂う恐慌の濁流から彼女を救い上げなければ、このままではアストラの人格はバラバラに砕け散ってしまう。
自分が、アストラという存在が、だれかに強く求められ必要とされているという現実を、言葉ではなく実際の行為として思い知らさなければならない。
『壊される穢されている汚されていた。わたしが、わたしたちが、アストラが────ああ、ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァッ』
夜魔の完全記憶が暴走していた。
そして、夜魔にとって心と記憶を蹂躙されるということは、その精神の破壊に留まるだけではない。
自らの存在証明の安定を欠いた肉体がみしりめきりと軋みを上げ、ついにはアストラの皮膚を突き破って本性を現しはじめていたのだ。
「アストラ、しっかりしろッ! 自分を保て! 奴はいない、あの悪夢はもういないのだッ!」
「アア、アアアッ、アアアアアアアアアアァ──あ、あ、あッ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアア────ッ」
アシュレの呼びかけにもアストラは反応しなかった。
いまだ“子負い”が目の前にいるかのように、その舌と指とで玩弄され続けているかようにのたうち回る。
アシュレのなかで、アストラのこの恐慌に、なにか仕掛けがあるのではないかという疑念が確信に変わったのはこのときだ。
いくら“子負い”の見せた光景が酸鼻を極めるものであったとしても、種族的に淫靡な拷問に美を見出す夜魔の、それも真祖の娘が、突然これほどまでに心乱すのは不自然だと、アシュレはずっと感じ続けてきた。
いまだ自分たちの眼前に“子負い”がいて、アストラにそっくりな娘たちへの許し難き加虐が眼前で進行中という話ならば、まだわかる。
しかし自分たちはその脅威からすでに、一時的とは言え逃れた。
にも関わらず、アストラがいまだ変調から立ち直れない、いやそれどころかさらなる悪化を見せる理由はなにか。
これまで棚上げにしてきたあの推測が、アストラの姿を最初に見たとき感じたあの予感が、最悪の方向で的中するであろう予兆に我知らずアシュレは震えた。
そうこれは罠だ、というあの確信めいた──。
だがたとえ、そうだとしても、だ。
いままさに狂気に喰われ、心と肉体の枷を失っていくアストラをこのままにすることなど、アシュレにはできなかった。
だから抱いた。
アストラを。
さらなる陰惨を目の当たりにすることを覚悟しながら。




