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■第六三夜:“子負い”


         ※


『ひっ』


 胸に抱いたアストラが小さく悲鳴を上げた。


 ムカデやザトウムシ、あるいはもっとおぞましい悪虫たちを幾千も連ねたような音とともに、その悪夢は広場に姿を現した。


 刺だらけの節くれ立った脚を数百も生やしたそのフォルムは、もはや生ける地獄としか形容しようのない吐き気をもよおすディティールによって彩られている。


 それが広場へと続く路地から、まるで逆流する汚水を思わせて流れ込んできたのだ。


『あれが、あれが眠らぬ悪夢──夜魔の血脈の行き着くところ、その最果てだとアシュレは言うのかッ!?』


 なんとか押し留めてはいるものの、明らかにパニックを起こしかけた声でアストラが問い正してきた。


 ふたりはいま、件のバケモノのほぼ直上、天蓋の縁を彩る彫像群に紛れ、身を潜めている。


『あれに触れられたら、その舌を耳の穴から捩じり込まれて……心を、精神を、記憶を啜られる。そればかりでなく、汚らわしき悪夢を流し込まれて頭蓋の奥を犯し抜かれる……』


 悪夢どもが広場になだれ込んでくる直前、アシュレはアストラを横抱きに影渡りシャドウステップを敢行した。

 もし一瞬でも判断が遅れていたら、いまごろふたりは殺到してくる悪夢どもに取り込まれ破滅の憂き目を見ていただろう。


 素早く天井の彫像群の陰へと転移したアシュレは、いま階下の広場を埋め尽くす悪夢の正体とその起源をアストラに伝えた。


 耳うちは要点だけに絞られた、極めて簡潔なものだったはずだ。

 が、その説明が生み出した衝撃は、アストラにはとてもではないが許容できぬものだったらしい。


『そんなそんなそんなそんな──そんな……バカな』


 明らかに恐慌を来しかけたアストラは、自制を失って呟きを繰り返す。

 たしかに無理のないことかもしれない、とアシュレは眼下に蠢く悪夢を見据えて思う。


 これが自分たち夜魔の行き着く果て。

 本性のついの姿。

 ガイゼルロン興国の英雄譚に語られる怪物、眠らぬ悪夢の正体だなどとは。


 ザトウムシやゲジ、カマドウマのそれを思わせて無数の刺を生やした節足を、地面側といわず天井にも横向きにもデタラメに生やしたこの悪夢は、これもまたある種の昆虫やクモたちがそうすように、芋虫がごとく長く伸びた体躯に幾人もの子供たちを背負っていた。


 もちろん、その子供たちは──悪夢の産み落とした、ではない。


 いったいいつ悪夢どもの手に落ちたものかわからないが、その背に無数のテグスや杭そして鎖で縫い止められているのは、すべて夜魔のそれも女児であった。


 人類の外見年齢にたとえるならば、年の頃十二から十五というところであろうか。

 第二次性徴の兆しを露にしはじめた少女から、成人直前の個体まで。

 すくなくとも片手の指に余るほどの数が、そこには囚われていた。


 あまりの光景に、すでに夜魔の男の作法を我がもととしたアシュレですら目を細めた。


 アストラがどう感じたのかは、わからない。

 大公の娘は相変わらずアシュレの胸に半分顔を埋めて、感情を吐き出し続けている。

 ただその片目だけが、犠牲者たちの姿に釘付けにされてしまっている。

 呪われたように視線を逸らすことができなくなってしまっているのだ。


 生けるオブジェと化した少女たちの瞳という瞳は、やはりテグスによって閉じられている。


 全身には記章インシグニアを捩じり込まれており、耳の穴にはデスマスクから生じる悪夢どもの舌が出入りする様子が見て取れた。


 生きながらにして心身を犯し抜かれ、眠らぬ悪夢へと変貌する過程であることは明らかだった。


 悪夢たちは犠牲者たちを即座に自らと同化させるのではなく、年単位の時間をかけもったいつけては嬲り尽くし、その悲嘆と壊れていく心を味わい尽くしてから永劫の狂気へと陥れるのだ。


 彼女たちの口から漏れる怨嗟とも哀願とも、あるいはおぞましい快楽によって強制的にもたらされる絶頂の悲鳴ともつかぬ声が、ドーム状の天井に響き渡る。


 とても直視できぬ、また聞くに堪えぬ光景であった。

 酸鼻を極める、とはこういう情景をして用いるべき言葉であろう。


 だがなによりも奇怪なのは、本体である悪夢もまた己の瞳を同種のテグスで封じていたことだった。


 半霊体に等しい悪夢たちの目を封じ、実体ある少女たちの肉体を悪夢に縛りつけることのできるモノであるというのなら、きっとあのテグスも記章インシグニアの一種なのであろう。


 おぞましき魔具を犠牲者のみならず己自身にも施すなどと、到底理解できぬ嗜好、そして思考。


 かわりにその耳はまるでコウモリのごとくに巨大に伸び、びくりびくりと痙攣するように震えている。 

 考えるまでもなく、このバケモノが音で相手の存在を察知する存在であろうことは、一目瞭然であった。


 にも関わらず背中に負った犠牲者たちの口は封じるどころか、むしろ責め苦と恐怖に喘ぐ泣き声を煽り立て絞り出させようとするその性情は倒錯の極みであり、なるほどこれが悪夢の抱える狂気というものであるかと、おかしな感慨をアシュレは得たものだ。


 醜悪極まりないその姿を子細に観察するにつけ、あの瞬間、アストラと言葉を交わすなかにあっても警戒を怠らずにいた自分を褒めてやりたかった。

 遠く響いてくる女児たちの泣き声と巨大な節足の群れが生み出す奇怪な物音を聞きつけていなかったら、このタイミングでの会敵かいてきを避ける術はなかった。


 こんなものと正面から相対していたら、自分はともかくアストラはその場で発狂していただろう。


 それを証明するように、まさに発作と言うべき反応をアストラは見せていた。

 あまりに風変わりで醜悪極まりない悪夢の姿が──これよりこの悪夢を“子負い”と呼称する──アストラの心をメチャクチャにしてしまったのだ。


『壊されている穢されている貶められている、カラダもココロもわたしも、アストラもあんなふうにされてしまう。どうしようどうしようどうしよう、どうしてどうしてどうして助けて、助けてください父さま────』

『もう見るなアストラ』


 明らかな変調を見せるアストラをアシュレは抱き寄せた。

 “子負い”の姿を見つめ続けた彼女の片目は、自分の意志ではもはや閉じることができなくなってしまっていた。


 アシュレはアストラを抱え込み、頑なになってしまったまぶたに口づけして、強張りを解いてやる。


 まぶたとは言え口づけを受けることに抵抗を示すかと思われたアストラからは、抗う様子さえなく、ただその瞳から一筋の涙がこぼれ落ちただけだった。


 悪夢どもの生み出す狂気は夜魔の血筋に強烈に抗い難く作用する。

 アシュレはシオンのその言葉を思い出していた。


 強く抱かれ惨状から目を逸らしてもらったことで、ついに精神の堰が切れたのか。

 おうおう、と胸に抱き寄せたアストラが、アシュレの胸板を壁にしておめきのごとき声を上げた。


 強ばった指がシャツを掴む。

 迫り来る恐怖のイメージから逃れるように、アシュレの胸に顔を押し当ていやいやを繰り返す。


 “子負い”の背に囚われた夜魔の娘たちの姿に、あまりに強く自己を投影してしまったのか。

 それとも。 


『いや──これは違うな』


 眼下に蠢く怪物を彫像の影から睨みつけるアシュレには、このときアストラが発作に至った真の理由がわかった気がした。


 “子負い”の背に囚われた娘たちは、あまりに似ていたのだ。

 

 だれに?

 アストラに。

 当然それは、シオンにもということなのだが────。


 それは偶然にしては、あまりに出来過ぎの符丁とその一致であった。


 思わずアシュレは眉をひそめる。


 なぜ、どうして、アストラがこの地の底にいたのか。

 その真の答えをいま、この瞬間に得てしまったような気がしたのだ。


 おうおう、とまたアストラがうめく。

 びくくっ、と“子負い”の発達した耳が動いたのを、アシュレは見逃さなかった。


『なんにしてもこのままにはしておけぬ』


 正確な位置までもが悟られたわけではなかったようだが、明らかな疑念をいまのおめきは“子負い”に与えてしまった。


 すでに論理的な思考はできずとも、狩猟者としての強烈な本能を“子負い”を始めとした悪夢どもはその身に巣くわせている。


 事実、哀願とあえぎと悲鳴とが入り混じり響き渡るなか、どうやって聞き分けたものかわからないが、“子負い”は確実にアシュレたちの潜む彫像群の裏側に注意を向けてきた。


 新たなる犠牲者を得るためであれば、どのような困難をも乗り越えてそこに辿り着く、邪悪な嗅覚とでも言うべき指向性。

 それは執念と言うにもおぞましき情動だった。


 連れて、ぞろろろろ、と音を立てる節足の群れが波打つ。

 ある種の蟲たちがそうするように、振動感知で相手の居場所を特定するのかもしれない。

 影渡りシャドウステップの起こす空間振動も、アレは察知するに違いない。


 だとすれば、アシュレたちがまだこの無難地帯セイフティゾーンに留まっていられるのは、広間になだれ込むときに自分が立てた足音と背負った夜魔の娘たちが上げる声が、直前の影渡りシャドウステップが起こした波形を掻き乱したからに過ぎない。


 次に同じことをしたら確実に補足される。

 微細な衣擦れはおろか、押し殺した会話さえ致命的な事態を引き起こしかねないことは確実だった。


 それなのにアストラの発作は治まるどころか、酷さを増していく。

 抱きしめた華奢な身体から、強く恐怖が香った。


 居場所の発覚と捕捉は時間の問題であることは、疑いようがない。


『このままでは──』


 次の瞬間、アシュレは己の唇を持ってアストラのそれを封じた。

 反射的な抵抗は、暴力と拘束によってこれを不可能にする。


 すべては一瞬の早業。

 シオンを教材に使った訓練が、アシュレに夜魔の男の技と振る舞いとを完璧に習得させていた。

 音もなく、獲物を我がものとする夜魔の騎士の狩りの技。


 突然の出来事に目を見開くアストラの唇を貪れば、その瞳が蕩けるように緩むのが見えた。

 緊張の糸が切れたかのように、かくり、とその膝が折れる。


 期を逃さず、アシュレはアストラを突き落とした。


 どこへ?

 己が纏う牢獄の外套の闇のなかへ。


 それは夜魔の男が相手を己が獲物=戦利品トロフィーとして扱う作法。

 

 我に返ったアストラが上げかけた悲鳴は、彼女の肉体とともに闇の吸い込まれた。

 叫び声も衣擦れも、牢獄の外套は逃さない。


 そうしておいてから身を踊らせた。

 彫像群の裏側に隠された桟敷さじきの奥、観覧席に隠された秘密の通路に繋がる穴へと。

 

 それは街の見取り図には描かれていないこの地下街のなかで、さらに隠されていた秘密の通路。

 貴族階級であった元夜魔たち=眠らぬ悪夢どもが知ることのできない、下僕/人間たちのための通い路。


 かつてこの都の増改築を担った職人集団が、資材の搬入やレイアウトの変更のために用いた舞台裏バックヤードをアシュレは利用したのだ。


 影渡りシャドウステップをはじめとする超常移動能力を当たり前のように行使する夜魔とは違い、人間である職人たちは手の込んだ舞台装置である都市のメンテナンスと改修には階段や通路を用いるほかない。


 それはアシュレが彼らと同じく、地べたを這うことしかできない人類の生まれだったからこそ思い至れた発見であった。


 妄執に駆られた“子負い”が彫像群のすぐ側まで達したときにはすでに、ふたりの姿は跡形もなく消えうせている。








ここまで燦然のソウルスピナお読みくださりありがとうございます。

この作品は更新可能な原稿が作者の手元にある限り、土日祝日にGWやお盆、正月休みなどといった休日を除き、更新しております。


明日18日19日は公休として、更新をお休みさせていただきます。


お話はまだまだ続きますが、いいねボタンや感想を頂けますと、画面の向こうで作者が踊ったりムムムと唸ったりしますヨ! お気軽に!


でわ、20日月曜日にお会いしましょう!

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