■第六一夜:蹂躙派
アストラにとって、アシュレの存在はあまりにも新鮮だった。
どこの馬の骨とも知れぬ新参者のクセに、やたらと堂々として場慣れして──たしかに無礼ではある。
大公の娘である自分の名乗りを受けても微塵も動揺したところがないというのは、豪胆と言うより、単に世間知らずな田舎者だけだとも思うのだが。
なのに、それなのに。
この男はあの眠らぬ悪夢どもを前にして一歩も引くことなく、それどころか奴らの魔の手から我が身を挺してアストラを救い出してくれたのだ。
それはアストラが心の奥底で憧れ続けた、自らの足で立ち己の《ちから》で持って現実を捩じ伏せ変えていく存在、そのものであった。
頭上からもたらされる外套の陰で震えながら彼の姿を見上げたときから、アストラはおかしくなってしまったのだ。
彼の言葉と眼差しを胸に受けるたび、全身を電流が走り抜けてしまうのを、もう認めざるを得ない。
長く壁の花に甘んじてきた自分の手を、意中の騎士に取られたかのような衝撃を、アストラは受けてしまった。
心臓を捕まれてしまったかのように胸が苦しくなって、動悸が止められない。
いまもまた、とく、と跳ね上がるように打つ心の臓を鎮めるために左手で胸乳を押さえこまなければならない。
ままならぬ心と体の動きが、常になくアストラを慌てさせる。
だってこれでは、まるでまるでまるで──。
なんどか息をついて呼吸を調えたところで、ようやくにしてもここは夜魔の大公の娘としての威厳を見せるべきだ、と気がつくくらいには動転していた。
取り繕うようにドレスの裾を翻すが、遅きに失するとはこのことだ。
「こっ、このわたし相手に皮肉と賛美を織り交ぜるてみせるとは、なかなかの洒落者。その洒脱に免じ今回はと、特に許す! 次回からは気をつけるがよい!」
それなのにそんなアストラの精一杯の強がりを、当の騎士は小さく笑って受け流すのだ。
優しく、優雅に、それでいて冷酷に。
乙女の千々に乱れる心を知り尽くした顔で。
初めて実剣を握った騎士見習いの娘に剣の捌き方を教えるように、丁寧にゆっくりと、しかし微塵の容赦もなく。
秘してきたアストラの敏感な場所を、刃先でこじるように。
信じられないくらい意地悪く。
「そんなことを頬を赤らめながら言われても……こちらが困ってしまうが」
「なっ、なああっこれはっ」
あけすけな指摘に慌てて両頬を覆ったアストラは、そのあまりの熱さに驚いて目を瞠った。
こんなに熱を持ってしまっているということは、アシュレの指摘は憎たらしいほど的確で、自分の頬は隠しようもなく朱に染まってしまっていることだろう。
同時にその熱さに驚愕してみせることが、自らの動揺を認めることになるのだと気がついて激しく歯噛みする。
だってこれではまるで誘導尋問ではないか!
まったくその通りなのだが。
「そそそそなたッ、これは怒っているからなのだぞッ! 断じていまそなたが想像したような理由からではない! 減らず口は命を縮めるものと思うが良いッ!」
「さきほどから思っていたのだが……怒ると薔薇色に染まるのだな、その頬は。なんと愛らしく美しいことか。つくづく間に合って良かったよ。ウジ虫どもにくれてやるには過ぎた花というものだ。非礼だったかもしれないが己の行いに悔いはない」
「な、ななああ、なななななあああああ!」
虚を突かれたアストラは吼えるが、それは無駄な抵抗というものだ。
トドメに「麗しいなオマエは」などと真顔で言われてしまっては、もう千々に乱れる心を鎮める術がない。
良いように玩ばれているのがわかるのに、どこかでそれを心地よく感じている自分がいることにアストラは気がついてしまっている。
アシュレの意地悪な物言いをその胸に受けるたび、いちばん鋭敏な部分をつま先でこじり広げられ甘く踏み躙られるような感覚が全身を走り抜けるのだ。
それがまた堪らなく羞恥心を煽り立て全身を火照らせるのだが、その熱ささえなぜか憎み切れなくて、そんな自分が苛立たしくてしかたがない。
「ききき貴様ァッ、どの口がそのようなことを言うのか! さささ、さてはアストラをたらしこもうという魂胆であるなこの、この痴れ者めが! 上位の血筋に対する慎みというものを憶えるが良いぞ!」
そしてまた、この戯れを楽しく感じているのは、アシュレもまた同じだった。
ただアシュレの振る舞いがアストラのものと違っていたのは、戯れめいた舌戦も含め、そのすべてが自らの任務を達成するための手練手管に過ぎないことを、一瞬たりとてこの男が見失っていないところにあった。
たしかにアストラの反応は瑞々しく見ていて飽きるということがないが、さすがにこれ以上は脱線が過ぎる。
人類圏中枢に夜魔の軍勢の脅威が迫るいま、自分たちに残された時間はそう多くはない。
タイミングを見逃さず、アシュレは話の流れに石を投じることにした。
「ではその上位の血筋の、さらに貴種の花が、どういう成り行きでこのような地の底を独り歩むことになったのか」
頃合いを見計らって放たれた問いかけは自然体だったが、その実よく練られた、答える側の立場を計るべく計算され尽くしたものだった。
果たして、対するアストラの反応は劇的と呼ぶべきものだった。
それまで隙あらばその鼻っ柱を噛み千切ってやる、という勢いで迫ってきていた動きが止まる。
一瞬にしてその瞳に、疑念と警戒の色が宿ったのがわかった。
だが──そこから引き出された答えは、アシュレの想像以上のものだった。
「貴様……まさか蹂躙派の手の者か」
「蹂躙……派?」
「とぼけるな! 人類圏を破壊し尽くし、人間を家畜として完全なる支配下に置こうと画策する者どもよ! おおかたハイネヴェイルやサージェリウス……あるいはルンツベックなどという急進派どもに抱き込まれたのであろう!! いやもっと汚い手を好む……まさか侯爵どもの差し金かッ!? そうかそれで……きゃつら、よそ者を使うとは手の込んだことをする! しかも一度助けておいて、安心させたあとでたらしこもうなどとは、なんという破廉恥なッ! 我が操をも辱めようと言うのか、そうであろう!!」
裏切られた、という顔をアストラはした。
これまでアシュレから贈られた数々の賛辞──そこに隠されていた真意にいまさらながら気がついたという表情だった。
それは危地を救われ貴種の花だと讚えられて舞い上がり、うかつにも相手を信用しかけていた自分への憤りでもある。
己が操を守るように胸乳を押さえ、アストラは佩剣に手を伸ばした。
夜魔が己が欲望を満たすためであれば同族をも狩り、記章をはじめとする数々の道具を用いて獲物を戦利品へと変じせしめることは、大公の娘であるアストラ自身が、だれよりも知り抜いていることだ。
だが、驚いているのはアシュレも同じだった。
まさかガイゼルロン宮廷の内情が、こんなところで出てくるとは思わなかったのだ。
どんな答えが出てくるものか、その出方でアストラの真意を測ろうとしたのはたしかだったが、まさかここまでの反応が返ってくるとはさすがに想定できずにいた。
夜魔の大公の娘が単身でこのような危険な道を行くからには、よほどの事情があると推し量るくらいはできるとしてもだ。
いまアシュレにできるのは、両手を開いて無抵抗を示して見せることしかない。
「まてアストラ、それは早合点というものだ」
「言えッ、だれに雇われたッ! 我が使命を妨害するに国外の者を使うとは、なるほど陰湿なきゃつらめの考えそうなことだ! だが、このアストラの目はごまかせんぞッ! 我が道行きを阻むというのであれば容赦はせんッ!!」
疑心暗鬼を隠そうともせず、アシュレから距離を取りながらアストラは得物を引き抜いた。
ジュラン、と鍛えられた鋼が鞘と擦れる音がして、柄頭に隠された吸血剣の舌がアストラの手首に潜り込む。
答え方を間違えれば問答無用、ためらわず必殺の一撃を放つ構えだ。
一瞬にして硬化した態度は、そのままアストラが帯びた使命に対する必死さの現れでもある。
ガイゼルロン国内には彼女の敵が無数にいて、だれも信用ならぬというサイン。
そしてその全てをも必ず突破して、己の任務を果たして見せるという決意。
しかしそこまでされても、アシュレに伝えるべき言葉はひとつしかなかった。
 




