■第五八夜:理不尽なお怒り
「それにしても余計なことをしてくれたものだなアシュレ、アシュレダウ・バラージェ?」
それまであわや駆け出す勢いでアシュレを先導していたアストラが、いきなり立ち止まったかと思うと振り返り、唐突な怒りを表明した。
ゆっくりと後ろを歩いていたアシュレの眼前で、仁王立ちをキメる。
あげく不機嫌げにそっぽを向くではないか。
つんっと顔を背ける仕草から推し量るに、これはもしや、いま自分は非難されたのか?
しげしげと観察するまでもなく、どう見てもアストラはおかんむりのご様子だった。
大仰な仕草で腰に手をやる。
ここまで黙ったおいてやったことを感謝するべきだぞ、という心の声が聞こえてくるようだった。
それでいて涼やかな目元には隠す気のまるでない険があり、まともに視線を合わせようともしない。
謝罪するまでは正視してやらない、というゼスチャだ、これわ。
アシュレはあまりのことに言葉を失って、立ち尽くすしかない。
先を行く後ろ姿から、なにか言いたげであることはわかっていたが……。
どうやらこのお嬢さまは、あの場面でアシュレが助けに入ったことが、ずっとご不満でいらしたようだった。
余計なことをしたと叱責するからには、あの程度のこと自分でなんとかできたと主張したいのだろう。
アシュレが目を白黒させていると、さらに舌打ちまでしてみせるではないか。
「そなた、アシュレダウはあのときアストラを見くびり過ぎていたのではないか、と言っているのだ。仮にも大公殿下より直々に吸血剣を拝領したアストラを下に見たのではあるまいな? とそう問い正しておるのだ」
かちゃり、とご自慢の剣の柄を叩いては鳴らし、自称:大公殿下の娘御は肩をそびやかした。
アシュレにはどれがなにを示すものなのかサッパリ分からないが、胸に腕にと誇らしげに輝く勲章の類いは、夜魔の騎士としての階位を示すものであろう。
ちなみに自らをアストラ、と呼ぶのは無意識のクセらしい。
その点についてツッコむのは止しておいたほうが賢明そうだ。
たしかに、いくつもの勲章を綺羅星のごとくにちりばめた軍装に身を包む彼女は、姫将軍といういでたちではあった。
改めてしげしげと立ち姿を観察すれば、夜魔のものとしては極めて珍しい胴甲冑や、人類圏では指揮官用の兜に該当するであろうか、きらびやかな意匠を施されたティアラも身につけている。
その身を包む外套も毛足の短い柔らかな毛皮で内張されており、一見にして豪奢な、手のかけられたものだ。
ただそれらを前にしたところで、なにをどう判断すればいいのか、このときのアシュレは決め手を欠いていた。
聖堂騎士時代・聖騎士時代を通して夜魔の騎士たちとの交戦経験は幾度となくあるアシュレだが、トラントリムで戦った最上級の夜魔:ユガディール以外で盾や甲冑という、いわゆる防具の類いに身を固める夜魔というものに、今日このときまでついぞ出くわしたことなどなかった。
そもそも夜魔たちは防具の類いを身につけない。
人類であれば、盾はおろか甲冑も兜もなしで戦場に参ずるなど自殺行為に等しいわけだが、夜魔の騎士たちはまるで夜会にでも赴くようないでたちで平然と主戦場に現れる。
それは夜魔たちが己の不死性に圧倒的な信頼と誇りを抱いているからであって、逆説的に甲冑や防具の類いで身体を覆うことは、すなわち自らの血筋の絶対性を疑うことだと捉える風潮が彼らの間には厳然としてあり、それはすでに規範と呼べるものにまでになっていた。
たとえば“叛逆のいばら姫”:シオンを象徴する装備のひとつ聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリーも、聖剣:ローズ・アブソリュートを扱うのに必須だから着用しているのであって、あれはその他の手傷から身を守るためのものではない。
いくつもの勲章をそれこそラメラーアーマーの小札のようにジャラジャラと上着に縫いつけている者などはいるにはいたが、あれも防御のためではなく人類の傭兵たちにも通じる一種の傾奇者、ファッションと捉えるべきであろう。
カテル島の最深部で鏖殺具足を纏った夜魔とも対戦したアシュレだが、そもそもの話が鏖殺具足とは防具ではなく全身を武器に替える兵装であり、これもやはり身を守るという発想とは根本的に成り立ちを異にするものだ。
己が不死生を信じる高位夜魔たちが、その誇りを曲げてまで甲冑の類いを身につけるというのは、それほどまでに珍しい。
トラントリムの夜魔の騎士:ユガディールにそれができたのは、彼が夜魔世界にあってさえ稀なる傑物で、その発想の非凡さがあったればこそなのだ。
アシュレとの美姫──シオンを賭けた一騎打ちに、道具も含め恥も外聞もなく己が持てる《ちから》すべてを振るうことのできたあのヒトは、やはり只者ではなかったのだとアシュレなどは改めて思う。
一方、いま眼前に見るアストラの装いには、ユガディールが見せたあの覚悟のごときものはなかった。
彼女一流のセンスのおかげで下品というところまで堕してはいないが、その衣装には多分に退廃的な、戯れの香りがある。
装飾の見事さやシルエット重視の造形、色彩のきらきらしさを見るにつけ、実用性よりも見栄えに重きが置かれているのは間違いない。
人類圏で言うところの式典用装備のようにも見える。
あるいは──この装いは、本当に夜魔の世界における司令官級の礼装なのか。
姫将軍のように見えるのではなく、アストラが本物の姫将軍であるという意味でなら理屈は通る。
たしかに彼女の血筋から考えれば、あり得ない話ではなかった。
大公、つまりスカルベリから直接に吸血剣を拝領したというのが事実なら、それに吊り合うだけの武勲なり功績なりが彼女にはあり、騎士団のなかでそれなりの地位に居たとしても頷ける話ではあった。
なんといってもアストラはシオンの妹、つまりスカルベリ直系の娘なのだ。
これも彼女の名乗りを信じればの話だが、眠らぬ悪夢ども相手に身分を詐称したところでアストラに利するものなどなにもなく、これは真実だと考えるのが筋だ。
なによりも、姉であるシオンとの血縁を色濃くうかがわせる面顔が、そのことを無言で証立てていた。
であるならば、その彼女が宮廷内でなんの地位も得ていなかったとは考えにくい。
夜魔の一族は徹底した能力主義だとシオンから聞かされてはきたが、それは「血統の優劣がそのまま個人の才能に直結している世界」という意味でもある。
血統=能力の差という認識が人類圏以上に露骨に、歴然とまた厳然と横たわっているのが夜魔の世界なのだ。
ならばやはり、ガイゼルロンにおけるアストラの地位もそこに準じるのが自然と見るべきだろう。
しかしそうなるとこれは……高貴なる夜魔の大公の血筋に連なるアストラがその華麗なる戦いぶりを示す前に、どこの馬の骨とも知れぬよそ者がしゃしゃり出てきて活躍の機会を奪いさらには恥をかかせたのだ、と責められているということになるのか?
軽いめまいを感じ、アシュレは目頭を押さえた。
あすこで介入していなければ、アストラはとっくの昔に悪夢どもの慰みものとなっていたであろう。
それをいまになって余計なことをしたと言うのか。
このような仕打ち、普通なら仰天を通り越して呆れ果てるところだが……今日のアシュレはどうもそういう気分にはなれないでいた。
それは良くも悪くも、いま眼前で気炎を噴き上げる夜魔の姫君のせいだった。
なぜってそれは……怒りを表明して止まないアストラの全身に、気づかれないようそっとアシュレは視線を走らせる。
仕立ての良いスカートタイプの軍服もその上を彩る甲冑群も、ぴったりと身体の線に沿う仕様から、アストラのためにあつらえられた一品ものであることは明らかだ。
ただシオンと同じかいくぶん背丈の低い彼女が紅潮した頬を膨らませ、腰に手を当て怒りを表明するその姿は、成人前の少女にしか見えないでいた。
アストラが主張するように、すらりと伸びた手足はたしかに最上級の夜魔の血筋、その典型と言えるものだったが、彼女の場合それ以外の部分も……すらりとしており……さらに未成熟な印象を強めている。
シオンと比べると頬の曲線も丸みが強く、ふっくらとしている。
人間で言うのであれば歳のころ十二、三歳というところか。
夜魔たちは自らのもっとも気に入った外見年齢に、己の姿を固定することができる。
つまり、これが夜魔の大公の娘として、アストラ自身が望んで保存した最盛期の姿であるという……理解であっているのか???
もし仮にそうだと言うのであれば、このアストラという娘はなかなか倒錯的な趣味の持ち主と言うことになるわけだが……。
シオンが人類に直せば成人直後、つまり十五、六歳の女性の姿をしていることを考えると、そのう……なかなか……感慨深いものがある。
あわやというところで、アシュレは疑問を口にするのを思い止まった。
これはいまだ発展途上と考えておいたほうが、まだ彼女の名誉のためだろう。
伸び代しかない、という便利な言葉を教えてくれたのは土蜘蛛王:イズマだ。
見目麗しいことは間違いないが、凛々しいと言うより可憐と表現すべき面顔と立ち姿は、実際に軍団を率いる将軍のものではなく、そこにいるだけで兵たちの士気を引き上げる旗頭としての姫君という印象のほうを、強く感じさせた。
「聞いておるのかアシュレダウ。そなたはまったく余計な真似をしたのであるぞ。大公家:ベリオーニの血筋の者に恥をかかせたのだ。この意味が分かるな?」
そんな彼女が、先ほどから自らの威光のほどを確かめるように念押ししてくるわけだが……これはどう接したら良いのか。
アシュレの誤りを訂正すべくグイグイと迫るその様子は、積極的を通り越して図々しいまである。
「なんだそなた、その目は」
「うむ、これわ」
思わず半目になってしまっていたのを、見咎められたらしい。
むむむむむ、と唸られてしまった。
唸りたいのはアシュレのほうだ。
アストラの振る舞いは、ほとんど反則だった。
シオンの少女時代を彷彿とさせる容姿もその一因ではあるのだが──むしろここまで来ると一種の芸だとさえ、アシュレなどは思ってしまう。
なぜって彼女のそれは、棚から転げ落ちた猫が飼い主相手にする、あの照れ隠しにしか見えなかったからだ。
そしていまのアシュレは、その顛末の一切をマジマジと注視してしまい、必死に笑いを噛み殺しているところを見咎められた飼い主のポジションだ。
いやいやいくらなんでも、あれほどの出会い方をしてしまったあとで「さきほどの一件は流せ」などと求められても、それは……困ってしまうのだが?
「そなた、こんどはなんだ、その顔は。なぜ目を逸らす」
アシュレの態度が気に入らないのだろう。
アストラはますますムキになって迫ってきた。
ただ……怒りを表明するのに、薔薇色に染まった頬を膨らませて見せるのは、失策以外のなにものでもないとアシュレは教えたい。
これでは威圧・恫喝どころの話ではなく、非難としてさえ成立していない。
理不尽に責められることへの怒りよりも、不思議な感慨のほうが先に立つ。
どうやらこのアストラという娘は相手を非難したり、なじったり、責任転嫁して自分の失態をごまかすのが致命的に不得意らしい。
夜魔の宮廷人としてそれはどうなのかとも思うのだが、責任転嫁の下手さぶりが、むしろ愛くるしさや可憐さばかりを際立てる。
シオンの妹君だと考えると、なるほど腑に落ちるところしかないわけだが、どうやっても相手を悪し様に罵れないタイプなのだ。
それは人類圏の姫君であればはむしろ美点に属するものだが──。
彼女のいでたちやこれまでの言動からもわかるように、アストラ自身としてはその評価はすこぶるつきでご不満らしかった。
だが人間も夜魔も、嘘を吐くことで本当のことを言うのは変わらない。
アストラの場合は威厳を示すことには見事に失敗しており、一方で己の卑小さの証明に関しては、そちらのアピールに失敗したに留まらず、逆に極めて麗しき心根の持ち主であることのほうを現在進行形で証立ててしまったわけだ。
それは冷酷と無慈悲に価値を見出す夜魔の國の宮廷にあっては、ずいぶんと生き難い思いをしたに違いない。
猛抗議をいなしながら、アシュレは想像を巡らせる。
あるいはこれまでのアストラは、夜魔の大公の嫡子として極めて不遇な、不本意な生き方をしてきたのではあるまいか。
与えられた血統によるものではなく、自らの才覚や勲功によって認められる生き方をしたいと願いながら、その機会を得られずのままにガイゼルロン宮廷の暗がりで生きてきたのではないか。
今日、このようなところまで来てしまったのは、その真なる《ねがい》のせいなのではあるまいか。
そう考えると、突然のこの展開にも腑に落ちるところがアシュレにはあった。




