■第五八夜:廃棄区画
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アシュレはいま、眠らない悪夢どもの手から救い出した少女のうしろを、ゆっくりと歩んでいる。
彼女の名はアストラ。
夜魔の大公:スカルベリの息女だと名乗った。
さて当のアストラはというと、ツカツカとヒールを鳴らし、性急ささえ感じさせる歩調でアシュレを先導するように進んでいく。
照れているのか、それとも無断で腰を抱き寄せたことに怒っているのか。
うつむき加減に伏せられたその表情は背後から覗き見ることは不可能で、当然のように心中のほうも、うかがい知ることはやはりできない。
この地下街のことはアシュレも知らない。
シオンが描いてくれた封都:ノストフェラティウムの詳細な見取り図は、あくまでも街区上層階部分のものだけであり、この下層構造体は未知のものとなる。
理由は簡単で、人類圏に向かってこの封都:ノストフェラティウムを抜ける際、シオンはこの下層領域を経由しなかったというだけのことだ。
あわやというところをアシュレに救われたアストラは、自分を取り戻すや否や顔面蒼白のままアシュレを突き飛ばすようにして引き剥がし、礼も言わずに立ち上がっては、この地下街へと身を翻した。
もちろんアシュレはこれに続いた。
ついてこい、と言われたわけではなかったが、後を追うことを拒否されたわけでもないから、たぶんこれで良いのだろう。
それに悪夢どもの耳目を避けるには、現状これ以上の選択肢はない。
当然のように、この下層エリアにも奴らが潜んでいる可能性はありえた。
だが、宝冠:アステラスの光に焼かれた連中が上げる叫びに殺到していく悪夢どものことを考えれば、ものの数ではないだろう。
もちろんアストラのこの行動が計画的なものか、衝動的なものかはわからない。
けれどもアシュレの理性も、この判断が最適解だと告げている。
奴らの裏を掻くという意味では、極めて理にかなっているからだ。
なにより精神的余裕を取り戻す時間とそのための場所が、いまアストラには必要だ。
それに……なにかもの言いたげな気配が、前を行く軍装であってもなお小柄なアストラの背中からは立ち昇っていた。
猛烈にアシュレに話したいことがあるが、しかるべき場所に辿り着くまでは、とそれを押さえ込んでいるオーラじみた圧力が後ろ姿から漏れている。
アシュレにしても、彼女の氏素性と動機については詳しく聞き出しておきたいところだし、自分という存在を彼女にどのように伝えるべきなのかについては思案のしどころなのは間違いないことではあった。
我たちはどこかで、互いを知り合わなければならない。
そのときどういう名乗りをするべきか。
どこまでを彼女に打ち明けるべきか。
どこまで──彼女を知るべきか。
自らを急かすように歩くアストラの後ろ姿を眺めながら、ここまでの出来事をアシュレは回想する。
全身を記章によって装飾され、アシュレによって吊るし上げられた“叛逆のいばら姫”の裸身は、首級として想定以上の効果を発揮した。
夜魔の本能に根ざす感情の暴走に晒され、悪夢たちが宙もなく地もなくのたうち回った。
自ら拗くれ絞られる布きれのように、腐汁めいて霊障物質を吐き出す。
支配の技法──その証明として掲げられたシオンの裸身が彼らの統一性を突き崩したのだ。
さらに続く宝冠:アステラスによる追い討ちで、あの場に居合わせた四体の悪夢たちは完全なパニックに陥った。
所有者の正気を護る宝冠:アステラスの静的な権能は、それが能動的な《ちから》へと転じた瞬間、無視を許さぬ詰問の光となる。
冠より迸り出た輝きは、相対する者の生きざまを問い正す。
大公の血を引きながらも、正当なる主人としては認められることのなかったシオンには、ついに引き出すことのできなかった宝冠の真の能力がこれだった。
心の陰りを照らし出し暴き立てる真実の輝きは、ときに刀剣以上の威力を発揮する。
アステラスの輝きを浴びた眠らない悪夢たちは、これに抗う術を持ち合わせなかった。
そもそもが狂気のパッチワークとでも言うべき存在であり、同時に悪夢そのものである彼らにとって、その統合を突き崩されることは直接的な不安定化を意味する
あの四体は突然にして強烈な統合失調に襲われ、全身の統制を欠いてもがき苦しむことしかできなくなった。
真実を照らし出す輝きが去ったとき、そこにはただ無意味な叫びを繰り返す芋虫のごとき存在が残されていただけだった。
奴らが意味ある行動を起こすことは、おそらく二度とないであろう。
シオンが封都:ノストフェラティウムを潜り抜けるに当たり、この計画を絶対の自信を持って勧めた理由が、いまさらながらアシュレにも理解できた。
高位夜魔以上に厄介な怪物を四体同時に相手取って、無傷かつさしたる消耗もなく人質を救出し、包囲網からの脱出に成功したなどというのは、それはもう奇跡に近い。
たとえ完全武装のアシュレたちでも、ここまでの戦果は考えられない。
まさに僥倖と呼ぶべき出来事。
おかげで大きな騒ぎに発展する前に、あの場を立ち去ることができた。
そしてアシュレたちはいま、封都:ノストフェラティウムの地下に広がる巨大な遺棄空間にいる。
アストラはといえば、歩むうちにそれでもすこしは心の整理がついたのか。
ここがかつての生活空間であり、同時に打ち捨てられた「狩り場」だと教えてくれた。
相変わらず先を急ぎながら、言葉少なにだったが、その態度からはアシュレとコミュニケーションを取りたいという欲求が透けて見えた。
「狩り場?」
アシュレはアストラの言葉をおうむ返しに繰り返した。
街区に「狩り場」とは、どういうことだろう。
心底わからない、という態度でアシュレに対し、アストラは呆れたように溜め息をついて見せた。
「まさか……知らないとでも言うのか? あれほどの《ちから》を持ちながら、人間から転びたての若造のようなことを言うな、そなた。なんだ、生まれてこのかた自らの領土を持たず遊歴の身であったとでも言うか?」
探りを入れるように言うアストラに、アシュレは曖昧に頷くしかない。
「……まあ当たらずとも遠からず、というところか。だいぶ遠方からきたのも、ある」
「……どおりで、な。作法がなっていないと思った」
田舎者め。
最後のひとことは、彼女なりに配慮したつもりなのであろう潜められた声ではあったが、完璧に聞こえた。
なるほど、どうやら自分は侮られ蔑まれているらしい。
大公息女殿下の辛辣な物言いからそう判断したアシュレだったが、意外にもアストラはその不作法な田舎者に対して以後も会話を拒むようなことはなく、それどころか続けて夜魔の街区の在り方をレクチャしてくれた。
祖国:ガイゼルロンも含め夜魔の都市はその成り立ちから、このような空間を必然的にその胎内に隠し持っているものなのだ、と実体験を踏まえながら。
「アストラがこのように親切にするのは滅多にないことなのだから、大いに感謝するべきであるぞ」と言い添えることは忘れずに。
そう、夜魔たちは一定の期間で街区を捨てる。
夜ごと街並みを迷宮に、柱廊を森にと見立て、騎士の狩りに興じる高位夜魔たちにとって、使い込まれ過ぎた街区は退屈が滞留する使い古しの遊戯盤そのものだ。
それは不死生と完全記憶が引き起こす夜魔特有の感慨ではあるが、仕掛けをすべて知り尽くした遊びには、たとえ人間であっても飽きるものだ。
だから夜魔の都市では日夜、常に、あちこちで増改築が続けられる。
季節ごとに狩り場が様相を変えるのにも似て、細部から、ときには街区の階層化を含む大構成までもが作り替えられる。
まるで歌劇の舞台のように。
伝統的にそれを担うのは人類圏から攫われてきた人足や技術者たちの一族で、彼らは家畜のなかでも特別な扱いを受ける技術者集団となる。
主たちの眠る昼間のうちに、狩り場の様相を変更して整える職人たち。
人類圏における職人集団のようなものか、とアシュレは理解した。
さらに一見でヒトの都市と夜魔のそれが違うのは、街区のあちこちにある広場に刑場を思わせる磔台や刑具のごときものが、いくつも常設されているということだ。
晒し台、あるいは調教台と夜魔たちはそれを呼ぶ。
毎夜のように行われる騎士の狩りにおいて勝者となった夜魔たちは、獲物をこれに括りつけては尊厳を剥ぎ取り、記章をねじ込むさまを観衆に見せつけては、公開調教を行う。
夜な夜な響き渡る犠牲者の悲鳴と哀願、苦悶と背徳的な官能の喘ぎは、都市を彩る小夜曲だ。
たしかに法王のおわす永遠の都:エクストラムにあってでさえ、死刑を頂点とする刑罰の執行には、娯楽としての側面がごかまかしようもなく存在していたことをアシュレは認めざるを得ない。
もっともアシュレたち聖騎士が担当する案件は、そのほとんどが人外のものどもを対象とした処刑であったわけだが……それでも、だ。
人間が抱くそんな昏い愉悦を、夜魔たちも刑の執行に見出す。
ただ彼ら彼女らがヒトと異なるのは、人類圏でもてはやされる拷問や斬首などの凄惨なショウに対してではなく、他者の権利や知性を──つまり自由と尊厳を恥辱と屈辱、そして陰惨な官能を持って──踏みにじる行為のほうに、はるかな楽しみを見出すという点であった。
手枷足枷を打たれ首輪を鎖でつながれて服従を強いられる犠牲者たちは、記章によってもたらされる想像を絶する恥辱・屈辱を衆人環視のなかで公のものとされながら、声高に隷属を誓わせられる。
そしてその際、背徳的な歓喜を肉体のあらゆる箇所を通じて覚え込まされるのだ。
夜魔の國に囚われ家畜として世代を重ねた人類が、本来帰属すべき人間世界では高位聖職者か貴族階級、富豪・富農以外には望めない高等教育を惜しみなく与えられ、同時に厳しく倫理観や貞操観念を躾けられるのは、それがこのショウにとって最高のスパイスになるからにほかならない。
夜の世界では、やがてそれを鮮やかに奪うためだけに教育と尊厳は与えられ、獲物たちの存在価値は高められる。
それが、最終的には街のカタチとなって現れる。
人類圏でも都市の設計思想とはつまりそういうものだが、ここまで徹底された例をアシュレは知らない。
敗者の心身をいかに手際よく挫き、そうでありながら深く長く余韻を引く残酷な官能によって徹底的に辱め屈服させ、恭順を認めさせて隷下とするか。
さらにはそれをどのように演出し、美学・芸術の領域まで高め、最高の愉悦を引き出すか。
そのための舞台装置として、夜魔の都市は造営される。
延々と続く柱廊にはそこここに手枷足枷が配されており、人類やときに同族を吊るし上げるための頑丈なフックや滑車、鎖までもが備えられている。
さらに天井を為す円蓋には、当たり前のように張り出した桟敷が用意されていた。
陰鬱で淫靡な天井画とともに、夜ごとの狩りとその後の顛末をここから観覧しようという趣向なのだろう。
絶妙の曲面を描く天蓋は、ロウソクの炎によって背徳の宴に影絵を躍らせ、犠牲者の喉から迸り出る絶望的な歓喜と汚辱に塗れた隷属の誓いを、殷々(いんいん)と響かせるに違いない。
以前のアシュレであれば、間違いなく眉をひそめただろう建築物・建造物の数々が、ここには現実のものとしてあった。
だが夜の血に目覚めたいまとなっては、それも取り立てて心に波風を起こしたりするものではなくなっている。
なるほどそういうものか、という納得があるばかり。
世界を感じ取る感受性に、明らかな偏向がかかっている。
夜の血が導く嗜好に合わせて、世界の見え方・捉え方・考え方が変えられている。
頭のなかに薄いヴェールが一枚かけられたかのように、嫌悪感や罪悪感に対して耐性が生まれている。
なるほど、これが魔の十一氏族になるということか、と内心アシュレは舌を巻いた。
先導するように前を歩くアストラの反応は、もっと露骨に冷淡だ。
自分でそう言ったように、どこか見慣れた風景なのだろう。
年頃の婦女子であれば思わず目を覆うような道具や意匠・天井画に遭遇しても、驚くどころか微かな動揺すら窺わせない。
どこも同じだな、と嘆息して見せただけ。
むしろその同じさを確認することで、諦念にも似た奇妙な感慨すら感じているように思われた。
さて、そんな状況が変わったのは悪夢どもの気配がはるかに遠のき、一応にしても安全を確保できたかと胸を撫で下ろしたときだった。




