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■第五七夜:霧のなかの愛




「それは私怨ではないか」


 いくども繰り返した思案のなかで、よもやと思い続けてきたその言葉を現実のものとして父の口から聞いたとき、アストラはこれは自身の夢想が造り上げた幻聴なのではないかと思ってしまったほどだ。


 いま自分を襲うこの暗転は、幻覚によるものなのではないかと疑った。


 だが、それは幻聴などではなかった。


「私怨ではないのか、といま申されましたか」

「我が言葉を聞き逃すとは、鈍っておるのかアストラルハ」

「いいえ、いいえ決して! ただただ、まさかという思いでございます」

「では私怨ではない、というのだな」

「……はい、決して。決して私怨からだけではございません」

「ふむん」


 頭上から降る言葉に、震える指先を隠し通すこともできず、アストラは俯いた。

 

 まさか実際に、想像した通りの言葉で己が不備を指摘されることになるとは……たとえ事前に考え思い至っていたとしても、動揺せずにはいられぬものだった。

 

 たしかに、指摘は図星というものだった。


 裏切り者、弑逆者と罵られながらも“叛逆のいばら姫”というどこか気品さえ漂わせるふたつ名で呼ばれ、至高の獲物として称賛を集め続けるシオンザフィルを屈辱に這わせ、絶望によって踏み躙ってやりたいという欲望が自分のなかにあることを、アストラはずっと以前から自覚していた。


 その彼女を人類圏との共闘によって捕らえ、スカルベリの足下に引き出そうという考えには、だからこそ至ったものだと言っても過言ではない。


 “叛逆のいばら姫”自身が愛し信じた人類の手によって彼女を陥れ捕らえることができたなら、高慢ちきなあの女の心をへし折り尊厳を引きむしって二度と立ち直ることができぬまで汚し尽くせるのではないか。


 そうすることで、代わりの娘に過ぎない自分が、スカルベリの一番になれるのではないか。


 そんな昏い夢想が自分を突き動かしていることを、アストラは認めなければならなかった。


 だがもし言い訳を許されるのなら──この発案に至ったのはそういう昏い情動に突き動かされたからだけではないことも、アストラはわかって欲しかった。


 自分もまた人類の生み出す《夢》の素晴らしさ、彼らの抱く《希望》のぬくもりに魅せられたからなのだということを。


 かつてスカルベリが示してくれたように。


 そう──“叛逆のいばら姫”などという先例などなくとも、スカルベリの導きだけでアストラはこの思想の高みに立つことができた。


 むしろアストラのほうが先に生まれてさえいれば、夜魔と人類とはもっと早くに手を取り合えていたはずなのだ。


 なのに順番が、運命の巡りが悪かった。

 アストラは不遇だった。

 アストラに対する扱いは不公平だった。


 自分がシオンザフィルよりも先に生まれてさえいれば、あの輝ける場所にいるのはアストラのはずだったのだ。


 人類の血に溶ける《夢》の価値を理解し、父に認められ、人間との融和の掛け橋に──だれの犠牲もなく──なれたのは自分のはずだった。


 それをシオンザフィルが台無しにした。

 祖国を、父を、ひいては母を裏切り、あろうことか大公の証・宝冠を奪って逃亡した。


 どころか、きゃつめは我ら夜魔の弱点とその軍勢の切り崩し方を人類に教導し、敵対の意志を露にしたのだ。

 

 聞き及ぶところによれば、エクストラムの聖騎士パラディンまでをもたらしこみ、己が手勢に仕立て上げたという。

 あろうことか己が純潔を捧げ、愛の約定まで結んだと聞き及んでいる。


 なんという見下げ果てた、呆れ果てた女だろう。

 純血の夜魔の血を穢すことが、どれほどの意味を持つものなのか、あの女は分かっていないのだ。


 だが、それももう終わる。

 いまアストラが奏上する人類圏の名誉ある降伏案、その後の自治権の了承さえ裁可を頂ければ、この悪夢のような日々も終る。


 ただひとこと「任せる」と言って頂きさえすれば。

 その後の全ては、このアストラが取りまとめよう。


 それなのに、まさかスカルベリ陛下はアストラのなかの私怨を理由に、この計画をなきものにしようというのか。


 微かであったはずの怖れが強大に増大し、現実のものとなる予感にアストラはおののいた。


 だが裁可を待ち望むアストラに向けられたスカルベリからの言葉は、極めて簡潔であった。


「では……思うように、するがよい」

 

 たったそれだけ。

 追求も、拒絶もなかった。


 わずかに、


「イフ城の地下より続く間道を使うがよい。蹂躙派の諸侯には、不敬によって、しばらくの暇を与えたと言い含めておこう」


 との言い添えがあったのみ。

 これには対するアストラも、


「人類圏への特務大使、たしかに拝命いたしました」


 と返すだけでよかった。


 いつの間にか首筋に巻き付いていた鋼線は溶け消えるように消失していた。


 跪いた姿勢のまま、アストラは高揚に打ち震えていた。


『許されたのだ、わたしはシオンザフィルを超えることを許されたのだ』

 アストラはいくども胸中でそう繰り返した。


 あとはただ、己の描いた理想を実現して見せるのみという気概だけがあった。


 自らの運命を自らの手で切り拓き、自らが本来いるべき場所へと至ることを許されたことに、快哉を叫びたかった。


 この日の親子の会話は、それだけであった。


 やっと自分も、父の役に立てるのだという誇りに満たされて、アストラは“庭園ガーデン”を辞する。 


 特務を帯びたアストラが秘密裏にイフ城を抜け出すのは、スカルベリとの会見後、すぐのこと。


 基底現実世界のスカルベリはこの時間の間に、アストラに特務大使の証たる吸血剣ブラッドソードを授けている。


 アストラはその父親の姿こそ、本物であると疑いもしなかったであろう。

 いま手渡されたものこそ、彼の本当の心だと。


 己の発案が認められた喜びに勇んで“庭園ガーデン”から退出する娘の後ろ姿を、スカルベリは冷めた瞳で見送った。


 その影が濃い霧に包まれ見えなくなるまで。


 それから再び足下に視線を落とした。

 長い影が石塊に覆われた急斜面に伸びる。


「あれは、辿り着くであろうかな」


 人知れず、寂寞せきばくたる荒れ野に座し、スカルベリは問う。

 足下に揺れるのは、奇妙な花弁を持つ青い花。

 

 イシュガル山脈のふもとに暮らす人間たちが、夜魔たちの先触れとして怖れる悪魔の爪──フィティウマがそこにはひっそりと息づいていた。


 花弁を空に向け強風にも負けず咲き誇るその姿から、夜魔の國では自分たちにその様をたとえ「気品」や「品格」という花言葉を与えた。


 だが、この高山植物は、伝承されることなく忘れ去られた、もうひとつの密やかな言葉を隠し持っている。


『すべては、霧のなかの愛。その愛に辿り着くか否かは、それこそあの子の運命というものでしょう』


 独り言であったはずのスカルベリの呟きに応じる者があった。

 それこそ乳をぶちまけたかのように、夜魔の視界すら封じる濃い霧の帳の向こうから、その声はした。


「それは……我が愛をあれが……アストラが目にすることはない、という意味かね」

『いいえ。あなたの愛は本物です。だから、たとえ辿り着けずとも、きっとわかってくれるはずです。なんといっても、わたしたちが手塩にかけた子らですもの』

「あれは……真実を知ったとき、わたしを恨むであろうか。シオンが、シオンザフィルがわたしを憎むように」

『そうかもしれません。けれどもその先にしか、わたくしたちが求めるものがないこともまた事実でしょう』

「夜魔の規矩を超えて辿り着く先……」

『そう──わたくしとあなたが望んだこの世界を変革し得る者──《魂紡ぐ者ソウルスピナ》へと辿り着くには、我らを縛るこの世界の規定の先、恩讐の彼方へと辿り着かねばならないのですから』

「教えてくれ──エストラルダ。わたしは、狂っているのか」

『いいえ、あなた、いとしいひと。狂っているのはきっとこの世界のほう。あなたはただ、その歪みを正そうとしているだけ……』


 ごう、と大気が鳴った。


 強い風がスカルベリの全身を撫でる。

 手櫛のように、その髪を嬲る。


 山嶺を嵐が訪うのだ。


 その風に抗う《ちから》を与えようとするように、そっとだれかが後ろから自分を抱きとめてくれるのをスカルベリは感じた。


 ずっとむかし、はるか悠久のときの向こう側に去ってしまっただれかが。


 その感触を甘受しながらも、スカルベリは足下を見つめ続ける。

 伸ばした指先すら見通すことのかなわぬ、真っ白な闇の先を。


 そこにたしかに咲くはずの青い花を。

 いつか自分たちが《希望》と信じた輝きを。

 

 けれどもだからこそ彼は直視できずに居る。

 

 自らの背後にそびえる影を。

 いま自分を抱きしめるいくつものあまやかな手の感触が、その影──《偽神》の生み出した残響であることを、自覚できずに。


 






ボクらの現実世界におけるフィティウマの花言葉には隠されたものはないのですが……今回のタイトルを夜魔たちはその花に見ている、というのはソウルスピナの独自設定です。


本当は別の花の花言葉なんですけれども……じつはボクがこの設定を拵えたとき、勘違いしていまして……あはは(汗)。

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